日々雑感

最近よく寝るが、寝ると言っても熟睡しているわけではない。最近の趣味はその間頭に浮かぶことを文章にまとめることである。

日本の原発”もんじゅ”の運命

2015年12月03日 08時44分12秒 | 日々雑感
 原子力委員会は11月13日、高速増殖原型炉「もんじゅ」の運営主体を日本原子力研究開発機構から別の組織に代えるよう、所管する馳浩文部科学相に勧告した。もんじゅはウランとプルトニウムを燃料に、消費した以上のプルトニウムを生み出す高速増殖の原型炉であり、資源の少ない日本にとって夢の原子炉として、かってもてはやされた。

 もんじゅでは、原子炉の周りを、通常の原発で使用される水に代えてナトリウムを循環させて、熱を取り出す。しかし、ナトリウムは空気や水に反応し易く、取り扱いが非常に難しい。このため、かっては米国や英国でも手がけていたが現在は中止している。

 もんじゅは、1995年12月、ナトリウム漏れ事故を起こしてしまった。以来、再開の目途は立たず、お荷物と化した。ナトリウムは安全のため常時原子炉と配管の中を循環し続けなければならず、維持するのに一日約5千万円、年間約200億円要するとのことだ。もんじゅには、これまでに建設と維持費管理に約1兆円投じられたそうで、今なお、200億円/年が、無駄に流れているのだ。

 もんじゅの開発継続は必要だと主張する人はいる。その理由は、資源の少ない日本にとって将来必ず必要になる方式であるからだとのことである。夢のエネルギー源としては、核融合型の原発も長年研究されているが、未だ日の目を見ていない。しかし、世界的な規模で研究は続行されている。核融合が世界的な研究対象であるのに、高速増殖炉は日本だけである。

 研究者は、僅かな可能性があれば、あくまで追求したくなるのは宿命である。このエネルギー分野でも、iPS細胞のように突然画期的な発明・発見があるかもしれないと夢見るのだろう。しかし、もんじゅは実用化の技術である。画期的な発明は考えられない。研究は開始するのは容易いが、中止するのは困難であるとの宿命を感ずる。

 原子力委員会の今回の運営主体を変更しろとの勧告に対し、高速増殖に関する技術を有するのは日本原子力研究開発機構しかなく、受け皿は他にないそうだ。すなわち、この勧告は実質的には中止せよとの意味であるとのことであるそうだ。正に日本的な婉曲的表現である。国の核燃料サイクル政策の中核だったもんじゅの廃炉が現実味を帯びてきた。もんじゅを中止すれば、国の核燃料サイクル政策の全面的な見直しも必要になる。この政策には使用済み核燃料の処分問題も絡むため重大な政策変更だ。

 見通しのないまま走り出した技術の頓挫である。誰が責任を負うべきか。学者は蛸壺に入り込んで周りを見ずに一生懸命穴を掘るばかりである。監督すべき官僚は、学者に責任を負わせ独自の判断を避け、前例踏襲主義である。問題を先延ばしにしてきたつけをいよいよ払わなくてならない段階に来た。(犬賀 大好-186)