日々雑感

最近よく寝るが、寝ると言っても熟睡しているわけではない。最近の趣味はその間頭に浮かぶことを文章にまとめることである。

女人禁制の起源は性ホルモンにあり

2018年05月16日 16時20分16秒 | 日々雑感
 相撲界において女人禁制の是非が論じられているが、女人禁制はもともと宗教的な色彩が強い。神道や仏教の世界では女人禁制が頻繁に顔を出す。例えば玄界灘に浮かぶ沖ノ島は島全体が宗像大社沖津宮の御神体で、今でも女人禁制の伝統を守っている。また、仏教の聖地である高野山や比叡山も女人禁制だった。

 文化人類学者の鈴木正崇・慶応大名誉教授は、女人禁制を、男性が世俗の欲望を断ち切る修行の場に女性がいると妨げになるという考えと、女性特有の出産や月経に伴う出血を”血のけがれ”として不浄視する考えとの二つの理由で説明する。

 氏の説明によると日本では古来、多くの山が信仰の対象で、元々地域の人間も立ち入ることはできなかった。しかし、山に立ち入って霊力を得ようとする修行者や僧侶が現れ、山自体が修行場となって、男女の区別なく俗人の立ち入りが禁止される場所となっていったとのことである。

 また、奈良時代には、経典で僧寺では女人禁制、尼寺では男子禁制と決められていたとのことだ。しかし、徐々に尼寺は廃れていった結果、女人禁制が目立つようになり、山岳修行も仏教の影響が強まり、女人禁制という立ち入り制限の場所に発展していったとのことだ。

 女人禁制は天照大神の神道より始まったと思っていたが、神道では経典が無いためその起源がはっきりしないようだ。どうも仏教から女人禁制が始まりだしたと考えた方がよさそうだ。

 平安時代の法令集:延喜式では神道における決まり事の色彩が強いが、例えば神聖な場所に立ち入れなくなる期間で最も長いのは人間の死による穢れで、男女は関係ないそうだ。また出産における出血も穢れとされるが、期間は短く期間限定の規制に過ぎないとの話で、女人禁制の理屈としては弱い。

 仏教は、性欲を含む人間の欲望を煩悩とみなし、智慧をもって煩悩を制御する理想を掲げていることにも女人禁制に大いに関係する。人間は年頃になると性ホルモンの関係で、異性を意識し始め、修行に集中できない。これは、本能的な特性であり、理性で制御することが困難な本質的問題である。

 しかし、何とか理由を付けて正当化し、権威付けをしなければならず、そこで女性特有の性質を持ち出しただけではないかと想像される。従って、女人禁制に関し先の鈴木氏の二つの考え方があるとした説も、女人禁制は修行に集中するための方便であるに集約できるのではないだろうか。

 女人禁制は仏教や神道ばかりでなく、キリスト教においてみられる。600年間女人を拒んできた正教会の聖地としてギリシャ・アトス自治修道士共和国があるそうだ。ギリシャの半島の北東にあり、修道士たちが共同生活を送り、厳しい女人禁制の中で祈りの日々を過ごしているそうだ。

 また、イスラム教においては、女性禁制の用語は余り使われないようであるが、女性は顔や頭を隠さねばならず、何かと女性は男性と差別される。サウジアラビアは保守的なイスラム教国で、公共の場では不特定多数の男女が同席するイベントは避けるべきだとされ、スポーツ観戦は男性に限られてきたそうだ。すなわち、不特定的多数の男女が参加できるような場所はすべて女人禁制となっていたのだ。

 最近になってようやく男子プロサッカー競技場での試合で初めて女性の観戦が許されたそうだが、家族連れの専用席での観戦と制限はあるようだ。

 性ホルモンは種の保存のためには必要不可欠なものであるが、精神を集中するには障害となる。特に宗教においては修行の妨げとなるだろう。そこで女性を遠ざけることが必要となるが、何とか理屈付けが必要となるが、女人禁制は後付けの屁理屈と思われる。2018.05.16(犬賀 大好-442)