日々雑感

最近よく寝るが、寝ると言っても熟睡しているわけではない。最近の趣味はその間頭に浮かぶことを文章にまとめることである。

避難勧告に拘わらず避難しないのは安全神話による

2018年09月29日 13時11分37秒 | 日々雑感
 広島県では大規模な土砂災害が繰り返し起こっている。2014年には広島市で77人が犠牲になったが、今年も41名が犠牲となった。広島市も前回の教訓を踏まえ努力してきたはずであるが、余り教訓は生かせなかったようだ。

 4年前の災害後、”みんなで減災県民総ぐるみ運動”を始めたそうだ。広島市は災害の危険性や避難行動の重要性を説明会などで繰り返し訴えると共に、自主防災組織を活性化したり、不動産取引の際にはハザードマップで説明してもらったり、学校なども含めていろいろなルートで危険箇所の周知を図ってきたが、努力は実らず前回と同様な犠牲者を出してしまった。

 県民総ぐるみ運動には即応性があると考えられるすべての対策が盛り込まれているように思われる。行政側の策として災害が発生しそうな時に迅速に市民に的確な情報を伝え、適切に行動してもらうことは、基本中の基本であるが、これには市民の協力と素早い反応が不可欠となる。

 行政の避難勧告にも拘わらず、リスクを認識しても避難しなかった方や、他の人に避難を促されても避難しないという人もいたとのことだ。これも長年安全であった経験に基づく安全神話により、まさか自分のところに災害が来ると思っていないのだ。

 最近の集中豪雨は局所的であることが多く、災害の程度が周りの環境、地形によって大きく異なることから、発せられる情報の意味合いが個人により大きく異なるのだ。今年と4年前の被災地は同じ広島地区でありながら、発生場所が異なっていたのだろう。

 集中豪雨は最近の日本では毎年の出来事と恒例化しているが、人間一生の内で一度経験するかどうか、めったにない地震や火山噴火に関しては猶更であろう。

 地震の発生確率は、これまでにその地で発生した地震の周期および一番最近に起こった年を基に算出されるとのことであるので、年ごとに増えていく確率に従って、年々緊張感も高めていく必要がある訳だ。しかし発生確率が年々高まっても、災害の緊迫性は年ごとに薄れていくのが人の世の常だ。これも安全神話を確固たるものにする要因だ。

 避難しても何事も起きなければ喜ぶべきところ、度重なると無駄足であったと感ずるのが普通の人だ。人間は常に安易に流されるのだ。個々の住民に対する情報発信、災害発生の正確な予測には限度がある。一般市民のオオカミ少年意識化には抜本的な解決策は無い。

 しかも忘れることは人間が生きていく上で重要な特質であり、災害に対する恐怖心も時間と共に薄れていく。逆にいつまでも恐怖を引きずっていたならば、生きていけない。

 来週早々、大型台風24号が日本列島を縦断するらしい。広島地区も台風の通過が懸念される。避難勧告が出された場合、過去2度の被災の経験がどのくらい生かされるであろうか。

 原子力発電に対する安全神話は、東日本大震災で吹き飛んだ。しかし、多かれ少なかれ人は安全神話の中で日常を送っている。今日平穏に過ごせたから明日も平穏に過ごせるだろうの安全神話は、身の回りにころがる安全神話のひとつである。
2018.09.29(犬賀 大好-481)