ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

高橋源一郎 銀河鉄道の彼方に 集英社

2013-09-09 14:16:22 | エッセイ
 だれかが、いま、最大の小説家は高橋源一郎であると言っていた。ぼくはそれに同意する。
 いま一番、脂の乗っているといえば、そうかもしれない。ここ数十年のスパンで言えば、村上春樹ということになるのだろうが、ここ数年の今、ということであれば、高橋源一郎、ということで間違いない。
 震災後最大の問題作「恋する原発」(講談社、2011.11)、「さよならクリストファー・ロビン」(新潮社、2012.4)。「ミヤザワケンジ・グレーティストヒッツ」は、2010年10月の集英社文庫版で読んだが、単行本は、2005年とのことで、若干間があるようだが。
 高橋は「さようならギャングたち」でデビュー以来、途中ちょっと若干付いていけないところも無きにしも非ずで、飛ばしているところもあるが、小説は、まあまあかなりの冊数を読み続けては来ている。
 「恋する原発」は、被災地支援のためにAV(オーディオ・ヴィジュアルではなくて、アダルト・ヴィデオのほう)を撮るという荒唐無稽な話で、監督か誰かが気仙沼出身だとかいうことになっていて、かなり顰蹙ものではある作品だが、全体が文学論でもあり、もちろん、社会論でもあり、すぐれた小説だ。(いくつかのすぐれたルポルタージュを読むと、実は、この小説が絵空事ではない、のかもしれないと思わされる。)
 「さよなら~」や「ミヤザワ~」も、読んでいてワクワクするような面白さにあふれている。おふざけでありながら、文学史を踏まえた作品である。
 で、今回の「銀河鉄道の彼方に」は、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を踏まえた作品であることは言うまでもない。末尾は563ページとふられた長編小説である。現在においては、大長編小説と言ってもあながち過言ではないだろう。
 これは、存在論であり、認識論であり、人間論であり、つまり哲学であるということだが、同時に最新の物理学であり、宇宙論であり、そして、もちろん、文学論である。こういう小説をこそ、ぼくも書きたいものだ、とずっと夢想してきた。

 「…あなたの曾祖父(ひいおじい)さん…の頃、先生が教えた銀河の説と、いまの銀河の説とは、まるで違っています。…けれども、いったいどれほど、宇宙のことがわかるようになったのかといえば、あいかわらずほとんどわからない、といわざるをえないのです」(12ページ)

 「ああ、ふたりとも、立派で、頭のいい子どもたちだ。けれども、知るということは、違うのだ。知るということは知らないことが増えるということなのだ。知らないことが増えると、人はもっと知りたくなり、それ故、もっと知らないことが増える。だから、人はさらに知りたくなって、先に進むのだが、結局、その人の前には、幾層倍もの知らないことが次々現れるだけ、ということが、分かるにすぎないのだ」〈13ページ〉

 ソクラテス以来の無知の知。
 21世紀の現在に至っても、ひとは、知れば知るほど知らないことが幾層倍にもなって現れる、そういう世界を生きているのだ。
 知らないことを知ることができないうちは、良く生きられない、良く生きるためには今の知識では足りない、もっともっと知らなければならない。そんなふうにぼくらは思いこまされてきた。
 特に、明治維新の開国以降は、日本人はそう思いこんできた。
 世界の中には、もっと良く世界を知っているひとびとがいる。しかし、ぼくたち日本人は、それに比べて全然知らない。世界の何をもつかんでいない。そう思いこんできた。
 そう確かに、ぼくらは、相変わらず何も知らない。しかし、それは、他の国々の人々と比べて知らないわけではない。人類共通の状況として知らないのだ。ぼくらだけが知らないわけではない。むしろ、ぼくらは、比較的には良く知っているというべきところに踊り出てしまっている。そういう立ち位置の中で、知らない。
 そこで、ぼくらは途方に暮れて、立ちすくむ。
 しかし、だからと言って、生きることを止めるわけにもいかないのだ。
宮崎駿にならって「この世は生きるに値する」と言わなくてはならない。
 だから、ぼくたちは知っていることの範囲内で、より良く生き延びることが必要である。その限りで自信を持って生きなければならない。その一方で、ぼくらは何も知らないことに自覚的でなければならない。その限りで謙虚であることが必要だ。この二律背反。
 ぼくらは、いや、ぼくは、毎日、この二律背反をこそ生きているのだ。ものごころついてこのかた、死ぬ日まで。
 あ、そうそう、この小説の中で踏まえている先行する文学作品に、宮沢賢治だけでなく、宮崎駿の「ナウシカ」などなども含まれている。「2001年宇宙の旅」とか、数え上げればいろいろ出てくるけれども。
 言うまでもなく、この小説も、文学史のなかにある作品であって、だからこそ、ぼくは面白く読むことができるのだ。文学史と言って、文字媒体に限定されるものではなく。

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