オープンダイアローグ・ネットワーク・ジャパン(ODNJP)」が、2108年3月に公表したガイドラインの第一版とのこと。
ODNJPは、ホームページによれば、「フィンランド西ラップランド地方で開発されてきた精神科医療のアプローチ」ということで、2015年に齊藤環氏を暫定代表として発足したようである。
現在、共同代表は、石原孝二、片岡豊、斎藤環、高木俊介の4名とのこと。
齊藤環氏は、精神科医、ラカン派精神分析の紹介者、評論家で、筑波大学の教授であり、私も、その著書は10冊ほどは読ませていただいている。まずは、その翻訳、紹介で、オープンダイアローグというものを知ったということになる。高木俊介氏は、精神科医で、やはり、オープンダイアローグについての翻訳、紹介を読ませていただいている。
オープンダイアローグは、フィンランド、西ラップランド地方のケロプダス病院の臨床心理士で、大学教授でもあるヤーコ・セイックラ氏が中心となり発展してきた手法で、それとは別に展開した社会学者トム・アンキル氏を中心とする「未来語りのダイアローグ」とも融合して、と言っていいのだと思うが、統合失調症の急性期に著しい効果を著すという精神療法である。
日本の精神科医の大方の方々に、この方法がどういうふうに受け止められているのかはわからないが、齊藤環氏は、著書の中でまさしくこれだ、これが効かないわけがないと直感されたという趣旨のことをおっしゃっている。
カウンセリングを学んだひとびと、また、臨床心理士の世界では、同様に、素直に受け止められているのではないだろうかと推測する。
私などは、この方法は、フロイト以来の精神分析の素直な発展というふうに受け取っているが、そう一筋縄で行かないところもあるようである。
精神医学界での受け止め方に関して、このブログで前に紹介しているが、齊藤環氏は、その著、訳書である「オープンダイアローグとは何か」(医学書院)の中で、特に統合失調症に関しては、薬物使用が必須で、精神分析は禁忌とすらされていたとおっしゃる。
「しかし、知られるとおり、精神分析は言葉をメスとして用いつつ、無意識にひそむ秘められた欲望や外傷を探り当てるための技法です。それはときとして侵襲的であり、とりわけ統合失調症に対しては、精神分析は実質的に禁忌とされてきました。」(52ページ)
オープンダイアローグは、それとは、違うのだと。方向が真逆なのだと。
「オープンダイアローグもまた、言葉を道具として用います。ただ、用いる方向性が精神分析とは真逆なのです。精神分析が言葉をメスとして用いるというのなら、オープンダイアローグは言葉を包帯として用いるのです。」(52ページ)
私に言わせれば、このオープンダイアローグの手法も、広い意味での精神分析の範疇のこと、と思うのだが、確かに、「言葉をメスとして使う」というところはあったかと思う。
ただ、ユング派の河合隼雄と詩人谷川俊太郎の対談に「魂にメスはいらない ユング心理学講義」(朝日出版社 レクチャーブックス1979年)というのがあって、当時、大きく影響を受けた書物であるが、まさしく「メスはいらない」と唱えられている。
ユングに比べて、創始者のフロイトは科学主義、合理主義の権化みたいなところはあって、確かに「メス」としての使い方に傾いているのかもしれない。
いずれ、いまの精神医学界の主流からは、精神分析と同様に、オープンダイアローグは認められていないというか、健康保険の適用という観点からは、まだまだ認められていないというべきだろう。
さて、このガイドラインであるが、表紙をめくると冒頭に「オープンダイアローグの考え方や具体的なやり方を簡潔に整理したものであり、それぞれの現場で〈対話〉を始める際の起点となるものです。」とある。
「オープンダイアローグは、単なる「技法」ではありません。それが主として「統合失調症のケア技法」として発展してきたのは事実ですが、この言葉には現在、3つの側面があるとされています。すなわち、オープンダイアローグはこの地域の精神医療の「サービス提供システム」であり、「対話実践」の技法であり、その背景にある「世界観」を意味する場合もあります。」(2ページ)
システムであり、技法であり、世界観であると。システムの頭には、「地域の」ということばがついている。地域に根差したものであると。
その「技法」という面に関して、次のように述べられる。
「(オープンダイアローグを)実際に現場で応用してみると、その素晴らしさは実感的に理解できます。それは「短期間で成果が出せる」といった、効率性の問題ではありません。なによりもクライアント参加した関係者、さらにはセラピストの側の満足度がきわめて高く、双方向的に変化が起こるというすぐれた特徴があります。治療や治癒という言葉は、オープンダイアローグによって生ずる変化の総体の、ごく一部を指し示す言葉でしかありません。」(2ページ)
私などが勇気づけられるのは、次のような記述である。医療のみでなく、福祉や教育などにも応用可能だと。
「オープンダイアローグの対話実践は医療機関に限らず、福祉や教育など、あらゆる対人支援の現場で応用することが可能です。…同僚や仲間を募って、ワークやロールプレイからはじめてみるのもよいでしょう。本ガイドラインには、そうした対話ワークの進め方も記されています。」(4ページ)
「「理解を共有すること、『これが答えだ』というものはなく、答えを一緒に作り上げていくこと、それがひとつのプロセスにしか過ぎないということ」。創始者のひとり、ビルギッタ・アラカレさんの言葉です。」(4ページ)
このあたり読むと、やはり、オープンダイアローグと鷲田清一先生の唱えられる臨床哲学はシンクロしている。私も取り組んでいる哲学カフェの考え方と大きく重なり合うものだと思わせられる。
さて、本文である。
オープンダイアローグの7つの原則というものがあるという。
1 Immideate help 即時対応 「必要に応じてただちに対応する」
2 A social network perspective 社会的ネットワークの視点を持つ 「クライアント、家族、つながりのある人々を皆、治療ミーティングに招く」
3 Flexibility and mobility 柔軟性と機動性 「その時々のニーズに合わせて、どこでも、何にでも、柔軟に対応する」
4 Responsibility 責任を持つこと 「治療チームは必要な支援全体に責任をもって関わる」
5 Psycological continuity 心理的連続性 「クライアントをよく知っている同じ治療チームが、最初からずっと続けて対応する」
6 Tolerance of uncertainty 不確実性に耐える 「答えのない不確かな状況に耐える」
7 Dialogism 対話主義 「対話を続けることを目的とし、多様な声に耳を傾け続ける」(6ページの表)
7~8ページに、簡潔な、しかしもう少し詳しい解説が掲載されている。
次に、9ページから「対話実践の12の基本要素」が掲げられている。
まず、「対話実践全体に関わる要素」として、二つの項目。
1 本人のことは本人のいないところでは決めない。
2 答えのない不確かな状況に耐える
「治療ミーティングの流れに関する要素」として、のこりの10項目。
3 治療ミーティングを継続的に担当する2人(あるいはそれ以上)のスタッフを選ぶ
4 クライアント、家族、つながりのある人々を、最初から治療ミーティングに招く
5 治療ミーティングを「開かれた質問」から始める
6 クライアントの語りのすべてに耳を傾け、応答する
7 対話の場で今まさに起きていることに焦点を当てる
8 さまざまなものの見かたを尊重し、多様な視点を引き出す(多声性:ポリフォニー)
9 対話の場では、お互いの人間関係をめぐる反応や気持ちを大切に扱う
10 一見問題に見える言動であっても、“病気”のせいにせず、困難な状況への“自然な” “意味のある”反応であるととらえて、応対する。
11 症状を報告してもらうのではなく、クライアントの言葉や物語に耳を傾ける
12 治療ミーティングでは、スタッフ同士が、参加者たちの語りを聞いて心が動かされたこと、浮かんできたイメージ、アイディアなどを、参加者たちの前で話し合う時間をとる(リフレクティング)
(10~12ページ)
詳細は、直接あたってもらいたいが、5の「開かれた質問」については、カウンセリングを学べば、まず最初期に出てくる言葉であって、常識とすら言うべきものである。「あなたは男ですか?」とか、「あなたは今朝ご飯を食べましたか?」とか単純にハイ、イイエで答えられる質問を閉じた質問という。ハイとか、イイエと答えてしまえば、とりあえず、会話は終わってしまう。逆に「今朝は何を食べましたか?」とか、さらに続けて「朝食はどうでした?」とか、一定の言葉を使わないと答えられない質問を「開かれた質問」という。聞かれた側の考え、思いを引き出していける、なにか語りはじめるきっかけとなりうるような質問のことである。
5の「治療ミーティングを「開かれた質問」から始める」の解説は以下のとおりである。
「初回の治療ミーティングで一人ひとりに常になされる大切な質問は、「今日、この場に来られたいきさつはどのようなものでしたか?」「今日この場をどのように使いたいですか?」という2つです。このうち2番目の質問は毎回の治療ミーティングでも尋ねます。そうすることで、治療ミーティングに対するそれぞれの考えを等しく聞くことができ、かつ、そこで何を扱うかを参加者自身が決めることができます。語られたことに対しては他の参加者が応答する機会を設けながら、治療ミーティング全体が開かれた質問によって展開していくようにしていきます。」(10ページ)
8でいう多様性、多声性、ポリフォニーのことであるが、私などは「ポリフォニー」といえばドストエフスキーを思い出す。文芸評論家のバフチンが、ドストエフスキーの小説を解読する際に、ポリフォニーという概念を使ったということで、もっぱら文学の世界の用語としてなじんできた。ベイトソンのダブルバインドとも連関することばではあるが、文学と精神医学がシンクロしているような感覚に襲われる。何か、これまでの私の読書が、ここで円環を結ぶ、みたいなふうにも思えてくる。
ところで、答えのない不確実性に耐える、ということは、実は相当に辛いことのようだ。私の日常の仕事において、どうも一般的には、あらかじめ定められた正解があるということが前提となっている、というか、もちろん、一定の前提に対しては、正当な解がある、ということで良いし、そういう正解が期待されているというのは当たり前と言えば当たり前ではあるのだが、実際は、あらゆる事柄に正解があるなどということはありえない。
だからと言って、一定の解決、一定の結論が求められざるを得ないのだが、それはあくまでその都度その都度の最適の解でしかない場合が多い。
なんというか、これこれこういうケースであれば、常にこう取り扱うのが正解だ、というような、ある意味マニュアルがなければ、仕事に手を出せないと考える人が大多数と言えば良いのか。ハードルが高い、と思う人が多いというか、あるいは、そういうのは自分の仕事ではない、と考える人が多いというか。
ま、このあたりの議論は、また別の機会の別の論点である。
閑話休題。
というような訳で、「精神看護」の世界でも、オープンダイアローグは大きな注目を集めており、必要な、効果ある実践として認められつつある、ということのようである。今後の展開、オープンダイアローグの普及に期待したいところである。
そろそろ、気ままな哲学カフェを再開したいのだが、今回のガイドラインを素材にして見るというのもありかな、とも考えている。哲学と精神医学という、一応は別の世界の出来事ではあるのだが、実は深いところでシンクロしているムーブメントということにはなるのだと思う。
ご存じとは思いますが、このガイドライン、WEBで公開されています。
そして、ここに書かれているように、障害福祉サービス利用計画を立てなければ、現状で福祉サービスは使えないので、「一定の解決、一定の結論が求められざるを得ない」現実はあり、そのことと不確実性に耐えるということの矛盾は悩ましい話であります。