首都のきらめく灯台を落っこちて
西北の豊葦原の稲穂の苗は田に植えず
東京タワー見たか見もせず
西郊の西洋の天主は思ひもよらず
外つ国は喰はず嫌ひ
周縁の奇しき玉の先を愛で
東北の地の果てに
落ち延びて
鉛色の海を見て
ら安寿
と呼び
墜ちたか堕ちたか
溺れたか
藁をも縋って生き延びたか
悦ばしきは知
地の果ての知
いかづち
輝く知
書を読み書を物する
天雷別命
神鳴り稲光り
雨降り
梅の雨 . . . 本文を読む
林檎を齧る
甘酸っぱい味の林檎を味わう
青い林檎の初恋の味
赤い林檎の想い出の味
黄色い林檎の舶来の味
白い林檎の無二の味
茶色い林檎の肉桂の味
ピンクの林檎の色めいた味
紅色の林檎の艶やかな味
緑の林檎の青い味
林檎の林檎めいた林檎風の林檎らしい林檎ティックな林檎ロジカル
季節は冬
あるいは秋
ひょっとすると早い春
林檎を齧る
林檎を舐める
林檎を擂る
林檎を噛み砕く
林檎を吸う
林檎を飲 . . . 本文を読む
青年の場合
何処に行けば
幸福に逢えるだろう
何処に行けば
暖かな暮らしがあるだろう
独りであてのない限りのない道を歩き続けて吹きすさぶ冷たい風をあびてふと気づくときらきらと結晶の雪が舞っている
何処まで歩けば
幸福に逢えるだろう
何処まで歩けば
暖かな女の胸に辿り着けるだろう
少女の場合
何時になれば
幸福に逢えるでしょう
何時になれば
暖かな生活に出会えるかしら
暖かな暖色の部屋 . . . 本文を読む
昔
歩けば砂の啼く浜は
日本の海岸の何処にでもあった
に違いない
気仙沼の大島の十八鳴浜まで
狭い沢伝いの道を下らずとも
気仙沼の唐桑の九九鳴浜まで
小舟にのって海を渡らずとも
その啼く浜の白い砂に
波の洗う砂浜に
その恋人の名を書く男も
日本のまちの何処にでもいた
に違いない
気仙沼の松崎片浜の煙雲館から
出た落合直文を待たずとも
恋人は
江戸期には
専ら廓で使われる艶やかな言葉であった . . . 本文を読む
詩は美味でなければならない
透明な洋梨の淡いゼリーのように
詩は美味でなくてはならない
霜降りの手間を惜しまぬ黒毛和牛のように
詩は美味であるべきだ
殻をこじ開けて海水で洗っただけの牡蠣のように
大量の海水を吸い込んで吐き出すうちに植物プランクトンを掬い取る牡蠣のように
沖合で昨日獲れて水揚げされたばかりの戻り鰹を切れ味の良い包丁で捌いて刺身にしてすりおろしたしょうがを載せて二年仕込みの生 . . . 本文を読む
宮城県詩人会の、毎年のアンソロジーに載せた作品を紹介した。
これは、ページの行数とかが決まっていて、霧笛に書いたものを載せようとすると、増ページにせざるを得ないこともあって、別に書き下ろした。
サンサシオンは、たぶん、20年位前から曲を付けて歌っているが、詩人会のイベントで(おととしの蔵王町でのイベント)歌うため、歌詞カード用に打ったデータが、詩人会のフォルダに残っていたんで、ついでに載せて . . . 本文を読む
青い夏の夕暮れ小径伝いに麦に刺されながら草踏みに行く夢見ながらその冷たさを足もとに感じ帽子のないこの頭吹く風にさらしLai la lai la laiLai la lai la laiもう何も言わない何も考えない限りない愛だけ心に充ちるぼくは行く 遠くへボヘミアンのように自然のなか 幸せにおまえが一緒にいるようにSensation aujourd’huiSensation aujour . . . 本文を読む
色々な楽しみは空を翔る
色々な悲しみは空を舞う
色々な気晴らしは空を墜ちる
色々な苦しみは空を覆う
どちらにしても
空は広い
空漠と広い
蒼や朱や濃紺の色あいで虚空は果てが無い
死ぬべきもの
生きているもの
生れ落ちたもの
死に往くべきもの
ことの成否はおまえにかかっている
何をするのもおまえ
何をしないのもおまえ
吐き気
何ものか定かでないもののための吐き気
何ものかを嫌悪するのではない . . . 本文を読む