ついに、というか、とうとう、というか、ここまで来てしまった。
とうとう、読み終えてしまった。
これを読み終えたことで、私は、確実にひとつのステージを上がった、と思う。このゲーム、クリア。
さて、私はこれからどこへ行こう。
「ご承知のとおり、わたしはここまで一本の道をたどってきたわけで、この世にインクと紙があるかぎりは、休みなく、苦労せずに、この道を歩いていくつもりだ。」
この第7分冊は、第3巻の後半、第9章「空しさについて」から始まる。そのほぼ冒頭に、この言葉はある。
「インクと紙」。
今は、もちろん、パソコン、ということになる。
ここに、パソコンがあるかぎり、書き続ける。いや、万が一、パソコンがなかったり、電源がなかったりしたときは、それこそ、紙とインク、あるいは、えんぴつがあれば、書き続けることもできる。
好きなことを書き続ける。
書き続けるのみでなく、その一方で、好きな本を読むことも続けていく。
読んで、書く。
3年前、ある機会に、私は、3年後の私は、ひたすら好きなことを書いていると書いた。
フランスの片田舎のモンテーニュのように、何かを考え、書き、生きている間でなくとも細々と読まれつづける、とも。
実は、そう書いた模造紙を、この部屋の片隅に貼りだしている。
考えることは、実は、そうたやすくはない。純粋に抽象的に考えることなどできない。考えるとは、何かについて考える、のだ。何の対象もなく考えることは不可能である。そんなのは、当たり前のことだ。
日々の生活の中で出くわしたことについて考える。
何か楽しいことであるかもしれないし、つらく悲しいことであるかもしれない。
しかし、そういうのは、案外、長続きしないものだ。恨み、つらみなどは長く続くものだが、それは、同じことを堂々巡りのように思い浮かべているだけに過ぎない。順を追って、整然と考えが進展していくなどということはないはずだ。
そんな中で、何かの本を読んでそれについて考えをめぐらす、そういうことは、わりあいと生産的である場合が多いだろう。
本を読み、何かを考え、つらつらと書き連ねる。
そんなことを死ぬまで繰り返していきたいものだ。
先人が書いたもの、先達が書いたものを、私が読んで、簡単に紹介する。それに何の意味があろう、ということにもなるが、モンテーニュを読みながら考えたことは、それはかなり、意味深い行為である、ということだ。この本の大部分は、ローマ時代のラテン語文献の引用、また、孫引きから成り立っている。孫引きを使いながら、少し何かを考えて、付け足したり、言い直したりしている。
いま、現在の言葉、私の言葉で、何かを書きなおす、これは意味のある行為に違いない。もし、いささかでも、私の書いたものを読みつないでくれるひとがあれば、ということになるが。先人から引き継いだものを、次に引き継いでいく。
そういうこととなれば、それ以上の幸福はない。
モンテーニュは、次のように書いている。
「わたしは踊るときは踊るし、眠るときは眠る。」(326ページ)
これは、いい言葉である。私は、こういうふうに生きていきたい。
私は、踊るときは踊るし、歌うときは歌い、書くときは書き、読むときは読み、そして、眠くなれば眠る。
そういうなかで、図書館の書架の間をさまよって、あるいは座りこんで、返却済みの本を棚に戻していく作業。これは、単純でありながら奥深い。返本の配架作業に没頭する幸福。
この幸福は、何ものにも代えがたい。
この7年間、仕事としてこういう時を過ごせためぐり合わせは幸運であったというほかない。
「人間にとっての名誉ある傑作とは、適切な生き方をすることにほかなりません。統治すること、蓄財すること、建物を築くことといった、それ以外のすべては、せいぜいが、ちっぽけな付属物とか添え物に過ぎないのです。」(327ページ)
理性だけでなく、欲望によって、われわれは、適切な生き方に導かれるのだという。無理な禁欲や厳格な規律でもって、適切な生き方ができるわけではない。理性と欲望とその双方に導かれて、その双方に身をゆだねてこそ、適切な生き方ができる。それが自然なことなのだと。理性だけでもいけない。もちろん、肉欲のみに没頭する、でもいけない。しかし、無理にバランスを取ろうとするのでもなく、自ずからの中庸のようなところに落ち着いていく、というような。
まあ、そういうようなことで、私は私なりのダンスを踊り続けたいと考えている。あなたはあなたのダンスを踊り続ければよい。ひとそれぞれの道で、それぞれのダンスを踊る、と。
さて、次は、そうだな、サルトルの「自由への道」が、まだ途中になっている、まずは、その続きを読み進めようか。
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