(2018.03.10訪問)
京都市中の寺院拝観には絶対にクルマでは行かない、と常々思ってはいたんですが、なにを狂ったのか気が付くと新大和路号は第二
京阪を走っているでは有りませんか。案の定三か寺訪問の予定が、金地院のみの拝観に終わりました。南禅寺の駐車場は大きくユト
リが有ったんですが、他の二か寺はお寺の駐車場満車、近くの駐車場満車。早々の帰宅になった次第であります。よくよく考えりゃ、
他のお寺を訪ねりゃいいのにネ。余りの早い帰宅に、女房曰く「どうしたん、どこか悪いの!」
▼総門。
[ 金地院 ]
●寺号 金地院 (こんちいん) 南禅寺塔頭
●開基 足利義持(あしかがよしもち)
●開創 応永年間(1394~1428年)
●中興 以心崇伝 (いしんすうでん)
●宗派 臨済宗南禅寺派
●本尊 地蔵菩薩
▲拝観料 拝観料 400円 朱印300円
▲拝観時間 8:30~17:00 (冬期12月~2月8:30~16:30)
▲京都市左京区南禅寺福地町86-12 TEL.075-771-3511
▲地下鉄東西線「蹴上」下車、徒歩10分
▼総門を入ると……、
金地院縁起 (金地院パンフレットから抄出)
金地院は応永年間(1400年頃)に南禅寺68世住持大業徳基禅師によって京都北山の鷹ヶ峯創建されたのが始まりとされ、慶長10年(16
05年)には現在の地に移り、その年南禅寺住持となった以心(金地院)崇伝は、徳川家康の信任を得、金地院を南禅寺塔頭として復興再
建した。寛永3年(1626年)には大規模な再建工事に着手、小堀遠州らの協力を得て方丈、東照宮を始め枯山水庭園を整備、寛永7年(1
630年)頃完成した。寛永10年(1633年)65歳で遷化、遺骨は開山堂に眠っている。
▼正面に庫裡。
▼左手に明智門。方丈へと向います。
天正10年(1582年)明智光秀が大徳寺に建立した門で明治初年に移築されたそう。
▼弁天池。中之島に弁財天が祀られています。
▼方丈 (重文)。方丈前庭へは下りることは出来ないので全景が撮れません。
伏見桃山城遺構を移築、他説有り。各部屋の襖絵は狩野探幽、尚信の筆。
▼方丈の扁額「布金道場」山岡鉄舟書。
▼外縁。各部屋はまさしく座敷牢、部屋中は廊下から覗くのみ。
▼方丈室中の間。中央奥に本尊地蔵菩薩が祀られています。
▼小書院の襖絵、長谷川等伯の「猿猴捉月図」超有名な手長エテコウの画ですネ。
小書院は通常拝観出来ません。
(写真はネットからもらってきました)
▼名勝鶴亀の庭園への回遊路。
▼鶴亀の庭園(方丈前庭)。小堀遠州作庭の特別名勝庭園。
江戸初期の代表的な枯山水庭園。中央に遥拝石が置かれ、左に亀島、右に鶴島を配し、遥拝石の奥が深山幽谷、蓬莱山となり、前
面は白砂で海洋が描かれている。中央の大きな平面石が東照宮の遥拝石。
▼鶴島。
▼亀島。
▼鶴亀の庭園
▼開山堂。中興以心崇伝の廟所。
▼開山堂内。正面に後水尾天皇の勅額、左右に十六羅漢像が安置され、奥中央に崇伝像が祀られています。
▼奥に祀られる以心崇伝像。
▼長じて何かを成し遂げた、若かりし頃の精悍な顔でしょうか。
▼狩野探幽が描いた以心崇伝図。
相当仰々しいですがやはり名僧たる由縁は感じます。
(写真はネットからもらってきました)
▼十六羅漢像の一部。
▼東照宮への参道。
▼東照宮門。外の道路側から見た門でこちらから入山は出来ません。
▼東照宮の扁額がかけられています。
▼御成門。この門が東照宮の中門の役割ではないでしょうか。正面が東照宮拝殿。
▼東照宮拝殿 (重文)。総漆塗り、寛永5年建立。
▼前面の総漆塗りの面影は僅かに残るのみ、漆塗りのはげ具合から江戸期の建物とは到底思えませんネ。
▼軒下に懸け仏。神式建物に懸け仏、どういう意味が込められているのでしょう。
▼拝殿天井画は鳴き龍、狩野探幽の筆。架かる三十六歌仙額は土佐光起の筆。当時の超一流が参画、かかる経費も超一流でしょう。
▼須弥壇上お厨子。
▼東照宮拝殿。
▼東照宮本殿 (重文)。家康の遺嘱で家康の遺髪と念持仏を奉斎し、左拝殿、中石の間、右本殿は京都に遺る唯一の権現造
り様式だそうです。
▼ではでは入れない楼門を横目に見て金地院お暇です。
金地院崇伝のこと
南禅寺の塔頭の一寺院とは言え、臨済禅を伝える一流派を唱えてもおかしくない立派な古刹です。金地院崇伝、江戸のタヌキの腰巾
着と一部伝えていますが、なかなかどうして南禅寺中興の祖としては大した仕事を成した僧侶で、ただ江戸のタヌキのブレーンとし
てそれをバックに目的の為に強引な手法で政治をも動かし、僧侶としての枠を超えての生き様が、善悪両評価を与えられたんではな
いでしょうか。
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