土曜日は古寺を歩こう。

寺勢華やかな大寺も、健気に法灯を守り続ける山寺もいにしえ人の執念と心の響きが時空を越え伝わる。その鼓動を見つけに…。

つぎに西国三十三所第七番札所岡寺(龍蓋寺)へ向かいます。

2010年07月13日 | 奈良の古寺巡り
[ 岡 寺 ]
岡寺は正式には、「東光山 真珠院 龍蓋寺」真言宗豊山派長谷寺の末寺。
西国三十三ヶ所観音霊場の第七番札所です。
岡寺という寺名は、明日香村の東、岡山の中腹に位置してるところから地名によ
る名称といいます。

尾曽から15~6分で岡寺駐車場に到着。早速駐車場のおじさんが集金に来ます。
車は数台止まっていました。いつもは石舞台から徒歩、参道入り口の治田神社一
ノ鳥居から急坂で石段続きになるので、仁王門前まで来るのにもうバクバク状態。
この日の参拝は駐車場からなので仁王門前まで徒歩数分、楽ちんちんです。

仁王門。
立派な山門、なんと云っても日本最初の厄よけ霊場の岡寺、左右両脇に仁王さん
が睨みをきかせています。慶長17年(1612)建立の重要文化財です。




手水舎。


本堂。
本尊は、云わずと知れた如意輪観音坐像。塑像で最大、最古のお像です。
像高458,1cm、当初は半跏像だったとの説もあるそうです。ただこの観音はボク
達が知っている如意輪観音の特徴はありません。岡寺は本尊が常に開扉されてい
る数少ないお寺の一つです。


開山堂。
本堂の左に建つ三間堂。本尊は阿弥陀三尊。多武峰談山神社より明治3年に移築
されたお堂だそうです。


大師堂。
昭和初期の建立。本尊は弘法大師。




三重宝塔。
文明4年(1472年)倒壊の記録があり、以後再建することなく昭和61年に514年
ぶりに再建されたそうです。




楼門。
奈良県指定文化財。書院の前に建つ入母屋造の楼門。古くは鐘楼門で2階は平安
時代作の兜跋毘沙門天が祀られていたといいます。建立は仁王門と同様に慶長年
間だそうで小型の鐘楼門としては珍しい遺構であるといわれています。


鐘楼堂。
基壇上に建つ袴腰の鐘楼。この日は1つだけ撞かせていただきました。


龍蓋池。
このお寺の正式名「龍蓋寺」の原点になっている池です。開基義淵僧正が悪龍を
この池に閉じ込めて蓋をしたと云う伝承からきているそうです。開基義淵僧正は
伝承伝説の多い人ですが、わが国法相宗の祖と仰がれ、良弁さん、行基さんをは
じめとする奈良時代の高僧たちは義淵さんの教えを受けたと伝わっています。




境内から観た仁王門。


岡寺も花のお寺、石楠花のお寺として室生寺と覇を競っていますが、今は全山緑
一色です。


明日香尾曽の毘沙門さん、威徳院を訪ねました。

2010年07月12日 | 奈良の古寺巡り
変なゲリラ豪雨もしばしの休憩でしょうか、わずかに薄陽が洩れる土曜日明日香
へ、自称大和の隠れ寺?威徳院と西国三十三所第七番札所岡寺を訪ねました。

[ 威徳院 ]
県道155号線が明日香と多武峰間がジョイントされ、結構車の量も多く道路もよく
整備されています。石舞台からしばらく走ると、はじめての大きなカーブにかか
る手前に隠れ寺?の案内にしては派手で新しい道しるべが立っています。見逃す
ことは先ずありません。南への細い山道が威徳院への道です。


道の両側はご覧のような鬱蒼とした樹林が続き、終点少し手前にお寺の石標が立
っています。道は鋪装はされていますがなにしろ細い、対向車が来たら場所によ
ったらアウトです。ほぼ1km、道の終点が尾曽の集落。10軒ほどのお宅が在るそ
うです。威徳院はその山側に在ります。


きれいな山門。真新しい山門と石標が訪問者を迎えてくれます。
真言宗豊山派 藤花山 威徳院 本尊毘沙門天。尾曽の毘沙門さんとして人気の
高いお寺だそうです。
そんなお寺、隠れ寺っていいます?
寺伝によると飛鳥の頃、百済の日羅上人が感得した毘沙門天を祀っていると伝承
されています。境内はこじんまりとした広さで、小さいお堂や石仏の覆屋が点在、
まるでお寺のジオラマの中に入ったような感じ。


本堂と偏額。
大きくはありませんが風格はうかがえるお堂です。正面左に弘法大師像、右に仏
足石が置かれています。
ご住職に本堂拝観をお願いしましたが、ご本尊毘沙門天が秘仏なので入堂は出来
ませんでした。




鐘楼堂。袴腰の立派な鐘楼です。


珍しい樽堂が三つ在ります。(どういう名称か説明がありません、勝手に呼んで
みました。)
大きな樽を利用して中に仏像が祀られています。お醤油か、お味噌か、お酒か分
かりませんが樽です。


樽堂の一つに弘法大師が祀られています。


魚濫観音石立像。
なぜ山中のお寺に魚濫観音なのか。山中だからこそなのかよく分かりません。鯛
でしょうか、その背に乗っています。魚売りの美女が観音様であったという中国
説話にもとづくものといいますが。


不動明王石像。


大黒天石像。


弁天堂。きっと弁天様をお祀りしているのでしょう。


四国八十八か所霊場お砂ふみ道場。
境内の裏手高台に設けられています。四国八十八か寺のご本尊の石像が祀られ、
像前に霊場砂が納められた蓮華石板、石板を踏みながらミニ霊場巡りが出来、弘
法大師空海さんが見守ってくれています。




この威徳院はかなり高い位置に在るので見晴し抜群。後方は明日香村から橿原市
街。畝傍山がかすかに望めます。
どなたでしたかHPでこの集落のことを「天空の村」と呼んでいました。この地よ
り高所からの写真で非常に印象的なものです。まるで明日香のマチュピチュ。地
図を見てみましたがどこからかサッパリ判りません。是非探し当てたいと思って
います。

つづく。

摂津平野郷(ひらの)の大念仏寺を訪ねました。

2010年07月06日 | 大阪の古寺巡り
今にもシトシトきそうなどんより日、不快指数うなぎ登り。天気予報は明日一日
雨でしょうと云うので土曜の古寺巡りは諦めて、午後から市内平野の大念仏寺を
訪ねました。
この平野の地は、大阪市の東南のはずれに位置し、東西南北の要衛として平安当
初にはすでにその名が歴史に出ているそうで、戦国期には恰好の戦場となったそ
うですが、町の安全と自治をまもるため町を堀と土居で固め外敵の侵入を防ぎ環
濠自治都市「平野郷」を成立させたと伝わる地です。今でも祭りでのだんじりを
始め、歴史が息ずく伝統が生活の中に残り大阪市平野区として大阪市の一角を占
めている町です。とは云っても付近を歩いてみると小さなお寺が区割り毎に在る
位で、今は外面上歴史を感ずることもなく全く普通の街の印象でした。

[ 大念仏寺 ]
融通念仏宗総本山 大源山諸仏護念院 大念仏寺
平野の町中に在り、境内の広さはかなりのものですが、正方形の境内には新旧織
りまぜた大小の堂宇がこれでもかと溢れかえっています。平野の地は征夷大将軍
坂上田村麿の次男広野の荘園で、その菩提寺である修楽寺の別院香華院において
融通念仏会を修したところ、人びとの信仰が高まり後鳥羽上皇は勅でここを念仏
勧進の根本道場とし比叡山の良忍さんが開基したと伝えており、今の大念仏寺の
緒と云われています。融通念仏宗は日本の念仏門最初の宗派として信仰を集めて
今があるそうです。宗派を問わず広く門戸を開けているのが、人気のお寺の由縁
でしょうか。末寺は全国約350寺ほどといいます。

短い参道の前、細い道路に面して寺名を刻した石標。


山門と扁額。
江戸初期建造の立派な山門です。
主門の両脇は壁落ち屋根。扁額は霊元天皇皇女、宝鏡寺宮徳厳尼親筆「大源山」
の勅額。群青に金の鮮やかな墨跡、とても女性筆とは思えない豪快な筆跡です。




山門左手の手水舎。


本堂。
総欅造り銅板葺き。東西約50m、南北約40m。昭和13年再建の大阪府下最大の
木造建築。確かに大きく豪快な本堂です。内部須弥壇前の畳敷きの広いこと、入
堂者はボク一人でしたので気持ちよくお堂の真ん中に座らせていただきました。


本堂扁額。お寺の院号が記されています。


本堂基礎。1m程の基壇の上に統一された礎石が等間隔で並びます。床を支える丸
柱材が床材に組み込まれ独特のリズム感を醸しています。


円通殿(観音堂)
角地を利用した堂型、左右は日月祠堂と云って位牌を安置しています。


円通殿内部の須弥壇。本尊は木造聖観音菩薩立像。伝教大師作と伝わるそうです
が余りにも綺麗でとても1200年の歴史を感じることは出来ません。頭飾や胸飾の
華麗さは鎌倉期以降の作だと思われます。お顔は見事な丸顔、それに比してお口
が小さくどちらかと云えば童顔、地蔵菩薩のような可愛い印象を受けました。


鐘楼。江戸期建立の立派な造り、鐘は時の右大臣藤原家孝の銘文が刻まれている
そうです。


霊明殿正門。


霊明殿。後鳥羽上皇と後小松天皇を合祀しています。


龍王殿。八大龍王を祀っています。右手横に大楠が見えます。


龍王殿横にある楠の大木。大阪市の保存樹。高さ18.9m、幹周り6.8m。


毘沙門堂。行基さん作と伝える毘沙門天を祀っています。


経堂。


南門。山門南に数メートルの所に在る東向きの南門。


戦国時代以降は平野郷の中核を成す寺院だったのでしょう。今でこそ込み入った
町の中に位置し周辺はマンションや住宅、商店街が密集しその中に措かれる大念
仏寺は、まさに異界の感が強いですが、良忍さん、空也さん、一遍さんが播いた
融通念仏の思想が往時の人々の熱い思いとなって受け継がれ、今のこの地を形作
って来たのではないでしょうか。