塚田盛彦のつれづれなるままにサッカー

世界中で親しまれているサッカー。このサッカーをフィルターとして、人間社会の構造に迫っていきたいと思います。

選手の多くは繊細な心情の持ち主ではなかろうか

2017-09-27 05:32:27 | 日記
t 今ウエイン・ルーニーが飲酒運転の問題で社会奉仕活動を迫られています。

 ルーニーがエバートンで戦列なデビューを飾った際、若き日のポール・ガスコインを連想させましたが、皮肉にもピッチ外での活動み似通った形になりました。

 ガスコインも飲酒の癖が抜けず、引退して以降はその傾向が強くなりました。

 ジャック・ウイルシェアも喫煙問題が幾度か指摘されているように、メディアは有名選手が子供たちに与える影響も考慮し、選手が喫煙、飲酒することを厳しく批判しますが、実情は別にあると考えます。

 推測にすぎませんが、彼らはいずれも繊細ではなく

 「繊細すぎる」

 のではないでしょうか。

 僕もそうですが、布団に入っても今日一日を振り返り、果たして与えられた責任は果たせただろうか、もっと良い方法があったように思う、ああ、駄目だななどと考えると、全く眠れません。

 彼らは自身が行った行為を振り返り、恐怖におびえて頭を掻きむしり、心を緩和させるために飲酒や喫煙を行い、一定の安らぎを得るものの、その行動に再度、自己嫌悪するという形なのではないか。

 と推測するのです。

 米国ではワールド・シリーズ第7戦に出場したクローザーが、サヨナラ本塁打を浴びて敗戦投手となり、自身のふがいなさに耐えきれず、拳銃自殺をした例があると聞きました。

 それだけ競技の枠を超えて、選手が感じる不安感はメディアの発達とともに増していることを痛感します。

 僕は何とか心を保たせようと思う時に

 「イチローさんだってミスをする」
 「彼は10回打席に入って、そのうち3回出塁できれば御の字なんだ」

 と、名手でも常に成功はしないと懸命に自分を鼓舞します。

 それはイチローさんがどれだけ念入りに準備しているかが報道されているためですが、ミスをなじることは誰にでもできますが、平静を装うことは極端に難しいことも意味します。
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敗戦は考えることを促す機会か

2017-09-27 05:19:24 | 日記
 敗戦と敗北の違いを尋ねられても、僕にはこたえることは出来ません。

 ちなみに塩野七生さんは文春新書からの著作「日本人へ リーダー編」の230ページ、題名は「負けたくなければ」の中で

 「手始めにまず終戦ではなく敗戦と言おうではないか
  終戦は戦争が終わったことでしかないが、敗戦となればこの言葉を耳にする人の何人かは必ず、何故敗北したかを考えるようになる」

 と指摘しています。

 僕は何度もこの新書を読み直していますが、感じたのは2014年ワールドカップの日本代表でした。

 コロンビア戦を落とし、ザッケローニ体制が終焉となった際、本田、長谷部は

 「日本のサッカーというものに固執しすぎた」

 と語りましたよね。

 2012年の日本代表はフランスに1-0で勝利し、このあたりから

 「日本はアジアにおけるバルセロナ」
 「強豪を脅かす力がある」

 と国内外から大きな賞賛を集めるまでになりました。

 この2012年はある種の分岐点になったように感じます。

 マイボールを大切にするサッカーが身についてきたことは確か、一方でこのまま熟成させていかなる相手にも同様の布陣、手法で戦うべきか、それとも別角度から考察すべきではないか、の議論にかけていましたね。

 仮にここで行き詰った際の手法を考慮していれば、2014年大会で最も退屈な試合と指摘されたギリシャ戦が、違った形になったようにも思います。

 つまり、日本は敗戦したからこそ、改めて自分の歩みを振り返る機会を得たわけですが、その考証は2017年の今できているでしょうか。

 少なくともハリツホジッチ監督が、アジアでも本大会でも日本が置かれている状況を冷静に把握していることは間違いなく、その点は活用できていると思います。

 マッチメイクや選手の負傷など、指揮官の権限ではどうしようもない事柄も多く、そこには考えることを同様に続けるべき、サッカー協会という存在があるわけですが。
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サッカーを家族で語る風景とは

2017-09-27 00:30:44 | 日記
 「山雅、2-0から逆転負けしたけど、お前はどう思う?」
 「パルセイロ、いい加減に昇格しないといけないよな、あんな立派なスタジアムがあるのに」
 「レディースも最近はダメだな」

 昨日の夕飯、父が僕にこう語りかけてきたのですが、面倒くさいな返答が、と感じながらも、こうして地元クラブに関して意見、感想を述べる環境があることは、やはり凄いことです。

 「今年J1昇格できないなら、反町はクビかな」
 「いい加減J2に昇格しないと、観客動員はパルセイロは全く増えないぞ」

 と無責任ともいえる発言を父はしますが、案外コアなファン以外は上記の感想を抱いているのでしょうね。

 熱心に観戦しているファンならば

 本田さんは横山移籍後、クラブにとって最適な布陣と選手の特性を活用した戦い方を模索している
 浅野監督がスカウティングをおろそかにしているわけではない
 山雅の選手たちも2-3で敗れるとは思ってはいない

 ことはわかるわけです。

 父の言葉は、ある種居酒屋やスナックで友人同士が離す会話の糸口のようなものですが、これらの姿が浸透してゆけば、本当に意義のある会話へと変化してゆくはずです。

 僕の母ですら

 「横山はドイツでドイツ語の習得に苦労しているみたいね」
 「皆が笑っているから笑っている、そんな感じ」
 「でも仕方ないよねえ」

 とこぼすくらいですから。

 我が家でサッカーを生観戦するのは僕だけですが、自分だけでなく祖父母や両親も観戦するというご家庭では、もっと突っ込んだ話をしているのでしょう。

 福岡の方が西鉄ライオンズが移転しまった後、相当の寂しさと至らなさを感じたと聞きましたが、クラブの存続というのはお金でも成績でもなく、ファン、地域住民の熱意が大切ということがわかります。

 サッカーでも移転はありましたが、存続し続けることで熱意が生まれる、という側面もありますね。
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紙メディアを利用しないことは、勿体ないことではなかろうか

2017-09-27 00:06:44 | 日記
 僕が高校生だった25年前、高校生向けのファッション誌は今でも刊行されているポパイ、ファインボーイズ、メンズ・ノンノの他、廃刊となったホットドッグにチェックメイトなどがありました。

 より大人向けだったのがビギン、メンズクラブで物に特化したモノマガジンやグッズプレスも、改めて息が長いことを実感します。

 当時はコンピュータが今ほど未発達であり、雑誌は常に旬の情報を掲載していました。

 ですからJリーグが誕生した1993年には、どの雑誌も選手インタビューに選手名鑑、スタジアム案内を掲載しましたし、応援グッズや設立の背景まで手稲に説明してくれたものです。

 他にもメジャーリーグやNBAの情報も話題でしたし、新作のエアージョーダン情報はブーンの専売特許と言えましたね。

 その黄金時代は過去の代物、雑誌はじり貧と言われています。

 文庫、新書を含む書籍全体の販売数が激減と指摘されていますが、僕は昔のようにサッカーに限らずスポーツの情報が雑誌に掲載される頻度を上げた方が良いと思います。

 帰宅帰りの本屋やコンビニで雑誌をパラパラとめくる

 そこに好きな選手やクラブの情報が見つかる。

 案外興味深いものです。

 確かに週刊誌やスポーツ新聞は、情報源があいまいであったり、選手が顔をしかめるような記事もあります。

 僕はフランス・フットボールやエル・パイスを読んだことがありませんが、日本の新聞記事がこれらとは異なり、読者がサッカーについて思いを馳せるような記事が見られない事も事実でしょう。

 それでも紙メディアという媒体を尊重しないことは、Jクラブやリーグにとって勿体ないと思います。

 当時のヴェルディの選手たちは表紙を良く飾りましたし、そこで自分の立ち位置がつかめるという意味合いもありましたから。
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