塚田盛彦のつれづれなるままにサッカー

世界中で親しまれているサッカー。このサッカーをフィルターとして、人間社会の構造に迫っていきたいと思います。

かつてあった言葉、それは全日本

2022-05-28 18:37:58 | 日記
 キャプテン翼の小学生編の中、三上コーチとともに若林源三は西ドイツに渡る決心をします。

 そして大空翼を筆頭にサッカーボールに寄せ書きをすると、「今度会う時は全日本で」と記しましたよね。

 そう、今でこそサッカーに限らず日本代表という呼び方をしますが、1980年代までは「全日本」という名称が一般的でした。

 いつから名称が変更になったのか、僕個人記憶にないのですが全日本という言葉と「日の丸」という名称の方が強かったことだけは確かでしょう。

 全日本というとどこかで猛練習だとか、コーチ陣からの厳しい叱責、長時間の拘束など何かしらのきな臭さが感じられます。(少なくとも僕は)

 実際1980年代、日本でプロのリーグは野球しかなく、仮にバレーボールが(今でもプロリーグはありませんが)プロ化していれば、五輪や世界選手権のメダルは常に射程距離だったかもしれません。

 つまり、イタリアのようにプロリーグを発足させ、多くの有力選手を招聘できた国がある一方で、日本は強豪の地位からそのままを維持しようとしてうまくいかなかったという印象が僕にはあるんです。

 サッカーもプロ化して劇的に変化したことが、卓球とバスケットボールのプロ化を誘発し、野球の独立リーグとWEリーグの発足に一役買ったことに間違いはなく、やはり画期的な登場と言えます。

 ただ漫画の世界とはいえ、大空翼と若林源三にワールドカップと全日本という言葉を使わせた高橋陽一先生は、先見の明があると思いますし、そのワールドカップのアジア常連国となった形はもっと評価すべきでしょうね。
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フランス代表、ワールドカップの連覇はあるか

2022-05-28 18:17:31 | 日記
 1930年のウルグアイ開催から始まるワールドカップの歴史。

 その中でセレソン・ブラジレイラだけが唯一、ワールドカップ予選で敗退したことはありません。

 勿論ヴァンデルレイ・ルシェンブルゴからエメルソン・レオン、そしてフェリペ・スコラ―リと何人もの指揮官をすげ替え、最後はロマーリオの得点力に頼った2001年の南米予選のように、ブラジル国民が頭を抱える時もありました。

 一方で連覇を達成している国も、ブラジルだけでです。

 それは1958年のスウエーデン大会と1962年のチリ大会であり、いずれもペレの時代です。

 仮に1950年自国開催のワールドカップ、決勝でウルグアイ代表に敗れていなければ、彼らの優勝回数は6度だったかもしれませんが、自他ともに求める王者ブラジルでも、そうやすやすと世界王者には輝けません。

 ではディディエ・デシャン率いるフランス代表は、2018年ロシア大会に続き、カタールでも連覇は可能でしょうか。

 僕は4割程度の形で連覇は可能と見ています。

 デシャンがカリム・ベンゼマを復帰させたことで、最前線には明確な基準点と技術を持つFWが存在し、中盤ではカマビンカという新鋭も戦力として認知されています。

 レフトではACミランに在籍するテオ・エルナンデスが充実した活躍を見せ、年齢的に緩やかに下降線を描いているかもしれないGKのウーゴ・ロリスのように、新戦力を求めるポジションもあるでしょう。

 ただ、2016年欧州選手権とは一気に顔ぶれを変えて挑んだロシア・ワールドカップのような、ドラスティックな変更はないと思います。

 それはデシャンが優勝したことでワールドカップの勝ち方を知っていることもありますが、極端なまでに現在の代表に変更点が必要ないと考えるためです。

 僕はフランス代表の連覇はあると思いますが、皆さんはいかがでしょうか。
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集団の中で生きるということ

2022-05-28 17:56:36 | 日記
 僕が学生時代、部活動で卓球部に在籍したのは、勝敗をすべて自分で受け入れることが出来た為でした。

 確かに団体戦で戦うこともありましたが、基本は個人戦の出場で一回戦で敗退しようが勝ち抜こうが、その結果はすべて自分でとればよい、というある種の気楽さがあり、その点はよかったと思います。

 サッカーのように団体競技では、ピッチの上、ドレッシングルーム、合宿での相部屋なと、常に個人ではなく「集団」での活動が余儀なくされますから、息苦しく感じる選手も多いと考えます。

 よくマスメディアが選手インタビューにおいて

 「あなたの隣のロッカーは誰が使っていますか」
 「クラブ内では誰とよく話すのですか」

 と尋ねます。

 意図としては目の前にいる選手を「ダシ」にして

 ドレッシングルームにおける選手同士に関係性を探る
 その中で、懇意か不仲化を探る
 あわよくばヒエラルキーも同時に確認

 という魂胆があるのではないでしょうか。

 例えばフランクフルトに在籍する鎌田大地が、サガン鳥栖から移籍間もないころは当然、先輩である長谷部誠の助言に助けられたことはあると思いますが、彼に限らず同胞は心強いものです。

 しかし、同胞だけで語っていると周囲からの批判が増しますし、「溶け込む事を考えなさい」と言われてしまいかねません。

 僕の住む片田舎では、都心と比べてやはり我が家と他人様との違いを、如実に感じ会話の糸口にしています。

 「誰誰さんところの息子さん、あの大学に進学するのよ」
 「誰誰さんのところの娘さん、離婚するんですって」

 僕はこのような意図端会議を好みませんが、集団という存在は常にだれかを注視する事でしか生きていけないのでしょうか。

 まあ僕にはおおよそ無関係なのですがね。
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