連日執筆作業が続いている。
タイトルは「黄金の群れ ~水の調べは明日への扉~」
これは、11月に佐久市コスモホールで上演予定の
歴史ミュージカルである。
この公演は下記の記念公演でもあり責任重大💦
☆世界灌がい施設遺産登録三周年記念公演
☆佐久市コスモホール開館30周年記念公演
が、台本を書く時はそんなことを考える余裕なし。
芝居の世界に入り込み、言葉を紡いでいく。
このミュージカルの主人公は
佐久市の偉人・市川五郎兵衛さん。
今日は五郎兵衛さんの一生を
ざっくりご紹介しようかなー
ざっくりと言っても長文になりそう💦
けど、皆さんに知っていただきたいので
あえて綴ってみようと思います。
市川五郎兵衛真親さんは江戸時代初期に
「世界かんがい施設遺産」に登録された五郎兵衛用水をつくり
広大な佐久平の草原に新田を開拓した人物。
戦国末期、曾祖父と父が武田信玄に仕え
南牧六人衆の一人として名を馳せた武士。
武田家は織田・徳川連合軍に敗れて滅亡。
市川一族は、辛うじて残った上州南牧村の領地で
戦により荒れ果てた土地を開拓し
一族と領民が肩を寄せ合って暮らす。
織田信長が本能寺の変で亡くなると
豊臣秀吉が天下を統一し
徳川家康が関東を治めることになる。
南牧村は関東と信濃を結ぶ街道の要衝地。
家康は五郎兵衛さんの父・四郎兵衛真久に
仕官するよう勧めるが
真久は体調不良を理由に応じない。
真久は、武士として剣で戦うよりも
一族、領民のために産業を盛んにして
平穏に生きる生活を望むようになっていた。
2度まで断った真久だが
3度目は嫡男・五郎兵衛を名代として
江戸に行かせることにする。
21歳の五郎兵衛さんは、市川家の願いと
自らの志を家康に伝える。
『我が志、既に武に非ず、殖産興業にあり』
武士である家康や徳川家臣にとって
衝撃的な言葉だったであろうことは想像に難くない。
この頃、武田家の金山奉行だった大久保長安が
徳川の金山奉行として取り立てられ
各地の鉱山を開拓し、金を掘り当て
家康から重用されいた時期でもあり
同じ元武田家臣だった市川家の申し出を
長安はどのように思ったのだろうか。
家康は、五郎兵衛さんの申し出を受け入れ
徳川領地内における開拓許可の
朱印状まで渡したという。
五郎兵衛さんと同世代の徳川家臣に
本多正純、土井忠勝がいる。
本多正純は家康の近臣として
揺らぎない徳川幕府を作り上げるために
知略を駆使し、奔走した家臣の一人。
政治に駆け引きはつきもので
時には、敵と見做した人物を
脱落させる画策をしたこともあるだろう。
後に幕府の大老として栄華を極めるが
最後は反対勢力に足をすくわれ失脚
幽閉されたまま寂しくこの世を去る。
五郎兵衛さんとは真逆の生き方だ。
この二人を対比させるのも面白いかも・・・
さて、お父さんの期待に応えた五郎兵衛さんは
家督を継ぎ、鉱山開発に勤しむ。
当初の目的は金銀の採掘だったようだが
領地内の砥山から良質な砥石を
大量に採掘できるようになり
砥山経営に力を入れ始める。
この時代、砥石は必需品だった。
刀剣、鍬、隙、鎌、包丁は
砥石で研がなければ役に立たない。
そんなわけで、砥山経営は軌道に乗り
利益をガンガン上げていく。
しかし、領民が生きていくために必要なのは
何よりもお米、食の充実は欠かせない。
しかもこの時代の年貢(税)はお米だ。
けど、南牧村は深い谷間にある集落で
広い水田を開発することができない土地。
なので、五郎兵衛さんも市川一族も
広い水田を開拓する夢だった。
五郎兵衛さんは幼い頃に住んでいた
佐久平の草原を思い浮かべ
いずれあの草原一面を水田にできたら・・・
との思いを馳せる。
自領ではない土地を開拓するには
許可と資金、技術者と人手が必要。
徳川領の開拓許可はいただいたものの
当時は豊臣秀吉の天下で
草原は小諸藩の所領。
五郎兵衛さんは機会が訪れるのを待ちつつ
砥山経営をしながら資金を蓄えていく。
大阪の陣で豊臣家が滅び
徳川家康が天下を統一。
ようやく家康から受け取った朱印状の効力が
発揮する機会がやって来た。
この時、五郎兵衛さんは45歳。
新事業に着手するには遅い年齢のようにも思うが
五郎兵衛さんは夢を実現するべく
ついに佐久平に足を踏み入れ
広大な草原の開拓に着手する。
けど、水源として想定していた千曲川の位置が
草原より低くて水路を引くことができないことが判明💦
現存する水田にひかれている水を奪うことなく
広大な草原に水路をひくには
新たな水源を発見するしかない。
佐久平は三方に高い山がある。
北に横たう 浅間山
西は蓼科 八ヶ岳
東南に切り立つ
雄々しき荒船 妙義山
水源を探すといっても
あまりにも広すぎるよね。
しかも標高の高い山ばかり💦
どうやって水源に行きついたのだろう?
地元の人の話や、技術者の人々の助言、閃き?
ひたすら探し続けて8年の歳月が過ぎ
ついに五郎兵衛さんは
蓼科山の山頂近く標高2080m地点に
水源を発見した!
水の供給地(草原)は標高600m
ってことは、高低差1480m‼
当時の水路の長さは17.6㎞で
現在は20㎞に及ぶながーい水路。
途中いくつも山に水路用のトンネルを掘り
中でも片倉山のトンネルは324m!!!
あ、数字に関しては様々な表記があるのでアシカラズ(^-^;
どちらにしても想像が及ばない距離💦
現代のように重機や機材がない江戸時代初期に
知恵と工夫と人力で開拓したのが
五郎兵衛さんとその仲間たち💛
戦国時代は、お城の建築技術が目覚ましく進歩し
お堀を掘り、石積みを積んで石垣を造り
水害の多い川には堤防をつくるようになった。
五郎兵衛さんのお父さんが仕えた
武田信玄公の信玄堤は有名だよね。
信玄公の家臣だった五郎兵衛さんのお父さんは
金山発掘を目指していた信玄公の傍で
手法を学んだのかもしれない。
五郎兵衛さんは、金堀や石切職人の他
測量技術を持つ浪人や樵夫の力添えと
近隣農民の皆さんの協力、さらに
奥様の主婦の知恵も借りつつ
ついに、とてつもない長いながーい水路を
完成させたのでした。
途中、当初予定していた資金が底をつき
お給金が遅れて、農民たちが離脱するという
絶体絶命のピンチが!
五郎兵衛さんが水路開拓に勤しんでいる間
砥山の経営を一手に引き受けてくれていたのは
市川本家の主人で従兄の半兵衛さん。
幼い頃からお兄さんのように慕っていた半兵衛さんに
五郎兵衛さんは再び資金援助をお願いしたが
市川家の蓄えは全て水路につぎ込んでいたため
さすがの半兵衛さんもOKを出すわけにはいかない。
そこで五郎兵衛さんは
経営権を担保にお金を借りたい
と半兵衛さんにお願いするが
万が一借りたお金を返すことができなければ
砥山を失い、市川一門が路頭に迷うことになる。
当然のごとく半兵衛さんは反対するが、五郎兵衛さんは
我が志、既に武に非ず、殖産興業にあり。
と、家康に断言した時のこと
祖先の夢でもあったこの事業を
何としてもやり遂げたいと訴える。
広大な水田が完成すれば
南牧村の領民も自分の水田を持つことが出き
米を作りたくても作れなかった人たちの
夢をかなえることができるーー
市川家の存続と領民の幸せを願い
砥山経営に精を出して
本家の貯えがすっからかんになるまで
水路開拓の後方支援をし続けた半兵衛さんは
これが最後・・・
との思いで、経営権の担保を許可するんだよね。
半兵衛さんの協力がなければ
もっと言えば市川家一門の協力があったから
成し遂げられた事業かもしれない。
五郎兵衛さんの子孫は、祖先の志・行いを範として
世のため人のためになることであれば
私財を投ることを惜しまぬ志を受け継いでいく。
現在放送中の大河ドラマの主人公・渋沢栄一氏も
市川家とご縁がある。
五郎兵衛さんから数えて6代目にあたる
五郎兵衛眞信さんの家・羽沢館に
栄一氏が信濃へ行商に向かう途中滞在していたとか。
この頃の市川一族には
書家・漢詩人の市川米庵・万斎先生がいた。
大河ドラマをご覧の方はご存知かと思うが
栄一氏は漢詩・漢籍に心を寄せていたので
願ってもないご縁だったに違いない。
また、羽沢館に住む市川兄弟は
栄一氏と同じ年ごろで
共に理想の郷土づくりに邁進し
生涯変わらぬ交際を続けたそうだ。
市川五郎兵衛さんと渋沢栄一氏は
殖産興業に生涯をかけた生き方
まっすぐに志を遂げようとした生き方が
とても似ている。
・・・・・・・・
あー頭の中にあることを吐き出したらスッキリした~
こんな長文を読んでくださった皆さん
誠にありがとうございます!!
さて、執筆作業に戻らねば・・・
最初に設定した脱稿日を既にオーバーしていまして💦
ガンバロー!!