ムジカの写真帳

世界はキラキラおもちゃ箱・写真館
写真に俳句や短歌を添えてつづります。

白樺の森

2017-10-21 04:21:31 | 短歌





天つ日の まぶしきほどに はねかへり 死ぬばかりなる 白樺の森





*これは、賢治への返歌で百合が詠った歌のひとつですね。中でも出色だと思ったのであげてみました。対象の賢治の歌はこれです。


われもまた白樺となりねぢれたるうでをささげてひたいのらなん


わたしもまた白樺の木となりねじれた腕を捧げてひたに祈りたい。

「なん(なむ)」は他にあつらえのぞむ終助詞で、~してほしいなどと訳しますが、この場合は自分の意思を表すのでしょう。わたしがわたしに望んでいるという感じです。

毎日賢治への返歌では、一首に対して三首を返すようにしています。一首だけでは物足りないような気がするらしい。一と三というのは、王数です。王と人民を表わす数字。一はたったひとりの王を表わし、三というのは、民衆の最も少ない数なのです。

二ではないんですよ。一応解説しておきますが。二というのは対立という意味が生じますから、まだ多数には発展しないのです。集団の最低の数は、三です。ここらへんはきっちり解説しておくのがわたし流です。

つまりは、一首に三首を返すということは、元歌の詠み手を王に仮託して、自分を臣下に下げて歌うということです。なかなかに深い。

宮沢賢治はそうしてもいいほど、すばらしい歌をたくさん歌っています。

表題の歌はこういう意味ですね。

太陽がまぶしいほどに跳ね返り、死ぬほど耐えられないと感じる、白樺の森のまぶしさだ。

白樺は幹が白く、それが森に並んで立っている姿は神聖さを感じさせるほどです。そこにまぶしい日が射していたら、時に堪えられないと思うほど、打たれることもあるでしょう。

わたしたちが今いるこの街では白樺など見ることはできませんが、写真で見ると、それはみごとに美しい。他の木とは違う何かを漂わせています。

賢治もまたその姿に、尊いものに必死に祈りを捧げているような、清い存在の気配を感じたものでしょう。






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あすかがは

2017-10-20 04:22:46 | 短歌





あすかがは おぼるる人に 藁もなく 早瀬に消ゆる まぼろしの船





*「あすかがは(飛鳥川)」は歌枕でよく使われます。大和国の川のことです。今もあるかどうかはさだかではないのですが、洪水のたびに流れが変わることから、世の中のうつろいやすさのたとえなどによく用いられました。

そのうつろいやすい飛鳥川の中で、人が溺れているが、その人にはつかむ藁もない。早い流れの中にもてあそばれる幻の船ごと、消えていく。

これは芸能界などで生きている人のことを詠ったものです。幻の船とは芸能界全体を表します。また芸能界でなくても、同じような幻の世界を表わします。

実のない見栄えだけの価値観を頼っている、嘘ばかりの世界のことです。そういう世界を今、恐ろしい流れが巻き込んでいる。

人類の進化という流れです。もうとっくにわかっているでしょう。人類の霊魂が成長し、感性が目覚め、目つきから人の心を読めるようになったのです。問わずとも、写真などに写ったその人の目を見るだけで、その人の考えていることがわかるようになった。

不思議なことと思うでしょう。だが、霊魂というのはすばらしいものなのです。見えない世界にいる本当の自分自身というものには、神が創ってくださったすばらしいものがある。それが成長してくるたび、自己存在は不思議な進化をとげていく。どんどんすばらしいものになっていくのです。

人類はその霊魂のすばらしさの一端を、かいまみたのです。

だが、もう感性が成長し、嘘を見抜くことが簡単にできるようになったら、元の世界に戻ることはできない。嘘ばかりの人間が考えていることが、どんなに汚いかということがわかったら、いかに見栄えがすばらしくとも、とても愛することなどできない。

ですから、芸能界やスポーツ界などという、派手な見栄えだけが頼りの世界から、人間が一斉に退き始めているのです。

このままではたまらないことになるというのに、そこにすんでいる人たちはその船を降りることができない。ほとんど、嘘で人をだますようなことしかしたことがないからです。

ですからもう、その進化の流れに溺れている人は、もう藁をつかむことすらできず、幻のように消えていくしかないのです。






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白鳥

2017-10-19 04:19:45 | 短歌





白鳥の 飛ぶかたを見て 青みゆく 空深きゆゑ かへりかねつも





*「つも」は完了の助動詞「つ」と称序詞「も」で、「~してしまったことよ」という詠嘆を表します。おもしろい表現なので自分の歌にも取り入れていきましょう。

古語辞典にはこういうおもしろい表現がたくさん書いてある。暇があれば読み込んで、おもしろいことを見つければ、積極的に生かしていきましょう。

白鳥の飛んで行く方を見て、青みゆく空の色があまりに深いので、家に帰れなくなってしまったことですよ。

空を見ていると、時にいつまでも見ていたくなることがありますね。あまりに澄んで美しいので。時にそこに白い鳥などが飛んでいたりしたら、心もそれと一緒に飛んで行きそうになる。

実際人間には飛ぶことなどできませんから、心はしばしついていくだけで、すぐに自分に戻ってくるのですが、感慨だけはしばし続いて、自分の中を泳ぎ、こういう歌になったりするのです。

自分は自分だから、自分の形以外のものを生きることはできない。白鳥のように清らかに白く、高く飛んでいくことなどできはしない。それはわかっていても、深い青空の中を飛んでいく白鳥に惹かれる心も、否定することはできない。

充分にあこがれの中に甘い夢を見たあと、人は自分に戻ってくる。そして自分にある自分の足で歩き始めるのです。

時に白鳥に心馳せるのも、自分以外にはなれない自分に確かに帰って来れる自分というものを知るのにいいことでしょう。馬鹿にはこれができないのですが。

白鳥になりたいと思って、本当に白鳥のようになってしまって、帰って来ないことがある。どこかで馬鹿な思いを断ち切り、かへりかねつも、と言いながらも、自分に帰って来ねばなりません。







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生類の声

2017-10-18 04:22:58 | 短歌





なにせむが ためにおのれは あるものか たからかにいへ 生類の声





*やあこれはすばらしい。獅子の作品です。こういうのが彼だ。圧倒されてしまうでしょう。

たった三十一文字の中にあふれるほど厚いものが秘められている。

「生類」というのが強い。呆然として魅かれてしまいますね。これが男というものです。この強さというか、すごさがたまらない。

何をするために、自分というものがあるのか、たからかに言え、あらゆる生き物どもよ。

牛も蛙も、人も蜂も、自分というものを持っている。それはなぜ生きるのか。何をするためにあるのか。

物を食うためか、セックスをするためか。あらゆる経験がある。めくるめく現象を見る。驚く自分がいる。これらのことは何のためにあるのか。

その答えを言ってみよ。

問いかけは激しい。答えねばならないが、言葉が詰まって何も言えない。わかっているような気がするが、まだ確かに表現することができないのだ。

だがわたしなら、即座にこの歌に応えるでしょう。


われのみのわれをいくのみたからかにうたひこそすれわれはうましと    夢詩香


率直な歌には率直に答えねばならない。これも強くなくてはできません。飲まれるものかという気概がなくてはなりませんね。わたしも、ここでは女性的に表現していますが、本当は痛い男ですから。

問われて黙っているわけにはいかない。

物事には加減があるぞということを無視しても、馬鹿をやりすぎる馬鹿男にも、これくらいのことはやってほしいものです。






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苦き実

2017-10-17 04:20:24 | 短歌





苦き実の 割けてしたたる みづをのみ なにくふひとの きはをこそしれ





*ご存じでしょうが、わたしたちはインスタグラムでも活動しています。

スマホがないので、投稿はできませんが、美しい絵を探している。本当の芸術家を探したいからです。

いいものを見つけたら、短歌をさしあげることにしている。表題の作はその一つです。あまり表立った反応はないが、歌をさしあげると喜んでくださっているようだ。

詳しいことを言いますと、歌を詠んでいるのはわたしですが、絵を探しているのはアンタレスです。ときどきほかのものもやります。われわれはこのように協力し合って、いろいろなことをやっているのです。

しかし今は、偽物ばかりが繁栄している世の中だ。嘘ばかりの画家はたくさんいるが、本当の自分で作っている画家は非常に少ない。

インスタグラムを初めて何か月か経ちますが、見つかった画家はほんの一握りです。

遠い外国のアーティストも探しているが、本物は実に少ない。ほとんどの画家は、自分の絵を、ほかの霊に描いてもらっています。

つたない漫画のような絵でも、自分で描いている人は少ない。苦い例もたくさんある。かなりおもしろい絵で、かなりいいことをしているが、画家が偽物なので、馬鹿なことになるという例もある。

時にはあからさまな盗作もある。そういうのはもうすぐにばれるので、やめたほうがいいですね。絵がそのままばらしていますよ。全然別の人の作品だと、絵自身が言っているのです。あまりにみっともないので、思わず言ってしまったこともありますが。

しかしインスタグラムはピクシブよりはましですね。ピクシブは程度の低い絵師(?)の醜い嫉妬の沼になっています。あそこで作品を発表すると、いやな人間の嫉妬を作品に塗られますよ。あまりやらないほうがいい。

いいことにはなりません。

芸術は、人間の心だ。それを高めていくことは人間をも高めていく。

本物の、よいものを、正しく育てていきたいですね。








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はるかなる空

2017-10-16 04:21:18 | 短歌





蟷螂の あをきおのもて こてふかる おのれを知りぬ はるかなる空





*これは獅子の作品です。

ツイッターでは、「蟷螂の(とうろうの)」を、「斧(おの)」にひっかけて、「己(おのれ)」にかける枕詞のように使っています。

「蟷螂の斧」とは、小さなもののとるに足りない武器という意ですが、しかしそれも自分というもののものだということに意味がある。蟷螂の斧は、蝶や蝉を狩るには十分すぎるほどに役に立つ。それはすばらしいものなのです。

車軸や城につっかかっていくなら、ほかにもっとそれにあう斧があるでしょう。蟷螂には蟷螂にふさわしい斧がある。自分の生き方にふさわしい自分があるということです。

蟷螂の青い斧をもって、蝶を狩ると言う自分を知った。ああ、はるかな青い空だ。

最後の七が効いていますね。自分を知るということは、神を知るということと同じことなのだ。神がなぜこの自分を創ってくださったのか。そのわけを知るということなのだ。

だがそのわけを全部知ることは、今はできない。本当の自分がこの世界に創られたわけは、神にならないとわからないのです。神はその理由をわたしたちには教えてはくれません。ただ、それを知った時、神は新しい自己存在の創造を始められた。

なぜなら、それはどんな苦労をしてでもなしとげたい、すばらしいことだからです。

神の知っている、おのれというものの真の意味を知るということにかけらでも触れた時、人は遥かな空を見るのだ。あまりにも、とてつもなく大きな、すばらしいものがあるような気がするからです。

それが何なのか。それはきっとはるかな未来になればわかる。今は、わからなくていいのです。ただ、神を信じて、このまことの自分をやっていけばよい。

蟷螂は蟷螂の斧をふり、蝶を狩っていけばよい。







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草の露

2017-10-15 04:20:16 | 短歌





つはものは 草の露とも いはれつつ 夢におのれを かけて死ぬべき





*これは、裏庭の投稿ポストで、いるかさんの四首に返歌した中の一首です。

いるかさんが誰かはわかっていますね。添島揺之という名で別ブログをやっています。一応この存在の別人格ということになりますが、やっていることも目的も、わたしたちとは違います。

彼はとにかく、短歌の世界に重い一石を投げたいらしい。今のあの世界が、たまらなくひどいことになっているからだそうです。

下手にもなれない馬鹿な歌を詠んでいる歌人が、大きな顔をして威張っている。歌屑というより、間違ったことを平気で歌っている嫌な作品が、踊りまくっている。そういう歌の世界を、どうにかして、古今集の昔のような、いい形に戻したいらしい。

今のこの世界には、彼のような優れた才能が活躍できることが全く不可能ですから、わたしたちもこういう形で、彼にチャンスを与えたのです。

ただしこういうことは、本当はやってはいけないことですから、これっきりにしたいですね。

つわものは、草の露のようにはかなく馬鹿なものだと言われても、夢におのれをかけて死ぬべきだ。それがつわものというものだ。

つわものどもが夢のあと、なんて句がありますがね、そういうのは戦ったことがほとんどない人だから言えることなのです。高いもののために戦い、露のように死んでいった人間たちが何を学び、何になっていったかなどということは、何も知らないのだ。

愛のために命を投げて犬死したものは、誰にも知ることができないひとつの真実を知ることができる。それをつかんだものでなければなれないものになることができる。

馬鹿はそんなこともしらないで、だから痛い感じで命をかけて戦うなんて、馬鹿なんだよということにしたいのです。自分は怖いからだ。戦うのが。

「べき」は推量の助動詞「べし」の連体形ですね。「~にちがいない」とか「~べきだ」とか強い感じの推量になります。連体形になっているのは係り結びの省略形ということだ。

こういうことも、数詠んでいけば自然にできるようになる。どう考えてもこれは、「べし」より「べき」がいい。

そのほうが、つわもののきつい感じが出る。あれほど情熱をかけて走りぬいた人生のすべてをなげても、甲斐がある何かがある。

それを信じて行く人間の、気概が強く出ます。






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2017-10-14 04:23:28 | 短歌





墨染の ゆふべにかかる 細月の わづかなそりに 弦をはらなむ




*「墨染の(すみぞめの)」は「夕べ」とか「たそがれ」にかかる枕詞ですね。「なむ」は未然形についていますから、他にあつらえ望む意を表す終助詞です。「~してほしい」などと訳します。

すみそめのころものように小暗い夕べの空に、かかる細い月の、そのわずかな反りに、琴の弦を張ってほしい。

なかなかに詩的です。二日や三日目の細い月は、弓のように反っていますから、そこに麗しい糸など張れば、琴を幻想することができる。

昔から細い月は、船や琴などにたとえられてきました。空を渡る舟も、かすかに歌っているような琴も、遠くにあるようで、すぐ近くにあるかのようにも思える。決して届きはしないとわかっていても、月はなぜかすぐそばにいるような気がするものです。

あの白い月に、糸を張ってほしい。そうしたらそれを琴にして、歌いたいことがある。どうしても歌いたい恋がある。

月は、人間にとって、ひそやかな恋の相手の隠喩です。

届きはしない。だがいつでも見える。空を見れば静かに笑ってみていてくれる。かすかに胸の奥が痛いのは、愛の予感があまりにも美しいからだ。

白い月は、二枚貝の殻を横から見たような形にも見えます。貝の琴は、かのじょが唯一のアイテムとしていたパソコンの隠喩でした。小さな二枚貝のような、一台のパソコンのみが道具だった。そこから、おのれの真実と神の愛を歌った。まさに、小さな貝の琴を弾くように。

美しい。

夕べの細月を見るたびに、人はあの人の歌を思い出すでしょう。






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きのふ

2017-10-13 04:20:31 | 短歌





ただいまは 憂しとおもへる わがみこそ あすはきのふを 愚かとおもへ





*これも百合の賢治への返歌からとりました。毎日賢治の歌一つを選び、それに三つの歌を返すようにしています。そのうちの一つなのですが、けっこうおもしろいでしょう。

詠み手は深く考えずに、直感的に歌の意を採取してそれに反射的に答えていますよ。三つ詠むのに、実に、五分かかっていません。本当です。

まあ、わたしたちなら、これくらいのことは普通なのです。

別に悲しがる必要はない。あなたがたも勉強してスキルを高めていけば、いずれできるようになります。今は、永遠かとも思える月日を、そこに向かって努力していける自分の幸せを感じてください。

今でなければできないことがあるからです。なんでもやってみて、なんでも吸収していきなさい。おもしろいことがたくさんありますよ。

表題の歌ですが、係り結びの作例ですね。係助詞「こそ」に関連する結びが已然形になります。已然形は命令形と似ているので、現代の感覚でいうと命令されているように感じますが、意は終止形と同じです。命令形に近い形に言うことによって、意を強調しているのです。

今は悲しいと思えるわたしのことだって、明日になれば、昨日は馬鹿だったと、思うのだ。

この歌を返した元の賢治の歌はこれでしたね。


さだめなく 鳥はよぎりぬ うたがひの 鳥はよぎりぬ あけがたの窓


繰り返しの語句が、詠み手の苦しい迷いに思えるのです。きっと賢治は苦悩の日々の中で、時に自分は間違っているのではないかと、思ったことが何度かあったに違いない。

苦難の連続の人生でしたから。いろいろな人に馬鹿にされていた。真実自分は真心から人のためにやっているのだが、それがなぜかまっすぐに人に伝わらない。そういう日々の中では、真面目な人は自分に疑問を持つのです。

俺が悪いのか。間違っているのか。ならばどこが間違っているのか。

馬鹿な人は、こういう風に考えることができません。頭から、自分は正しいと信じている。間違っていても、正しいと信じている。自分に自信がないくせに、その自分を疑うということはしないのだ。

ずいぶんと賢治も苦しんだようだ。一度となく、間違っているのは世間ではなく俺なのかと、疑いを持ったに違いない。

そんな心を感じた詠み手が、表題の歌を歌ったのです。

今日は迷っている自分も、明日になればまた思い直すことができるだろう。やはり自分は正しいのだと。愛のためにまことをやろうとしている自分の方が正しいのだと。

たとえその人生が非業に終わっても、やりぬいたのは、賢治が本当の自分の愛を、信じていたからです。

時に迷うことがあっても。






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白き猫

2017-10-12 04:21:27 | その他





白き猫 われにうたふる 花寝床     夢詩香





*たまには俳句をやりましょう。短歌ばかりをやっていますからね。このブログの自己紹介文も変えねばならないと思いつつ、さぼっている。ほかのところが忙しくて、そっちに頭が回らないのです。

「うたふる」は「うたふ(訴ふ)」の連体形です。「うたふ」は「うつたふ」の促音無表記の表現です。字数が稼げるのでよく使いますが、「歌ふ」と紛らわしいのが難ですね。ですが使い込んでいくと、違いがわかってきます。

なんでもやって積み重ねていくと、いろいろなことがなっていくのです。それまで常識だと思っていたことが、だんだんと崩れてきて、新しいものが育つ土壌ができてくる。

それはそうとして、これはかのじょが生きていたころのことを思い出して詠ったものです。花寝床というのは、よい寝床だというほどの意味だと思ってください。

白い猫がわたしに訴えるのだ。よい寝床をくださいと。

知っていると思いますが、かのじょはある白い猫をとても愛していました。できるなら家に入れてかわいがりたいと思っていたが、夫にだめだと言われてできなかった。愛してやりたいのに愛せないのがとてもつらかった。白い猫はたびたび家に入って来て、暖かい寝床で寝かせてくれとせがむ。それを無理に外に追い出さねばならない。

わたしはこういうことが平気でできる男がたまらない。妻がどんなに苦労して夫を助けているかわかりもせずに、威張り散らして妻の心を苦しめ続けるのです。

猫の一匹を飼うことさえ許してやれないのだ。匂いなどがまんできるものなのに。がまんしているうちに、自分も変わっていけるものなのに。

人間は少しのことが我慢できないから、次の段階に行けないのですよ。

痛いことがあっても、もう少し耐えてやっていこう、という気持ちになれる人が、無駄とも思える努力を繰り返していくうちに、世の中は変わってくるのです。そして世の中が変わった時、何も努力しなかった人間の方が焦るのです。

わたしたちは、逆風を満身に浴びながらも努力してきた。そして今、その努力が永遠の姿を持って現れてきている。人間が変わり始めている。世界はもうすでに変っている。

かのじょが生きていたころから、無駄とも思える努力を積み重ねてきたからです。






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