ムジカの写真帳

世界はキラキラおもちゃ箱・写真館
写真に俳句や短歌を添えてつづります。

女楽

2018-05-11 04:19:45 | 短歌





これやこの 女楽かなしや たれもみぬ をどりをどりて 屑となりぬる





*「女楽(じょがく)」というのは、論語のエピソードから来ていますね。一応引用しておきましょう。微子第十八の四。

斉人、女楽を帰る。季桓子これを受く。三日朝せず。孔子行る。
せいひと、じょがくをおくる。きかんしこれをうく。みっかちょうせず。こうしさる。

読み方も一応書いておきました。現代語に訳しますと、こうなります。

斉の国の人が、魯の国に女性の舞踊楽団を送った。季桓子はこれを受け取って、三日もそればかり見て朝廷に出て来なかった。孔子は失望して、魯を去った。

昔も今も、かわいい女性が踊るのを見たがる男はたくさんいました。最近までその傾向は続いていたのですが、ところが今はそうではない。

ミニスカートの衣装を着て団体で踊っている若い女の姿などを見ると、もうぞっとするという男がいきなり増えたのです。

ああいう女性たちの正体が、みなに見えるようになったからです。

まあ詳しくは言いませんが、男もいつまでも子供ではない。見栄えだけの子供みたいな女性ではがまんできなくなる。

表情も眼差しも行いも美しい、高い女性の美を知ってしまったからです。

あの美しさがわかるようになったら、幼稚な色気を売って、馬鹿な踊りを踊っている女など、屑に見えてしまうのです。

それでも、馬鹿というのはすぐにはやめられないものですから、まだ大舞台で踊っている。恥ずかしいことはわかっていても、やめられない。やめればいろいろなことがだめになってくるからです。

みんなに、馬鹿さ加減を見られている。だれもきれいだとは言ってくれない。嘘だからです。全部嘘だからです。あれらはもはや女性ですらない。

古の昔から、人から美人の顔を盗んで生きてきた、馬鹿なのです。そればかりでやってきて、何も勉強してこなかったからこうなった。

男はかわいい女のすねでも見せればみなよってくると、そんなことばかりで生きてきたから、そうなったのです。






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からっぽの雪

2018-05-10 04:19:40 | 短歌





繚乱の 春には見えて 一枚の 衣を破れば からっぽの雪





*お久しぶりです。しばらくの無沙汰のわけは、もうご存知でしょう。アンタレスが詳しいことは言うでしょうから、ここではあまり言いませんが、入院していました。

少々強引な形でね。全く、いつの世も、ものごとがわからない人ほど、面倒なものはない。

わたしたちが入院していたおかげで、大変なことになった人も、結構いたでしょう。

それはそれとして、表題の歌は、かのじょの作品ですね。わたしたちがいなかった間、過去ログを読み返していた人も多かったのではないでしょうか。そして、以前は嫉妬に目が眩んで馬鹿にしまくっていた作品も、今読み返して見れば、しみじみとその美しさがわかってきたでしょう。

元から豊かなものを持っていましたが、あの人は地道に努力していました。救済という目標に向かって、美しいことをコツコツと積み重ねていました。女性という制限を生きながら、崇高な目的のために生きていた。

それだからこそ今、あの美しく豊かな作品群がある。かのじょのしてくれたことは大きい。

しかし、そのかのじょを馬鹿にしていた人たちはどうでしょうか。大勢で暑苦しくやっていた時は、いかにも羽振がよさそうで、なんでも自分の思い通りになると思っていたろうが。

馬鹿が、人を馬鹿にすること以外には何もやらなかった。人生を大方終わってみれば、何もない自分がいる。

おまけに人類の感性の進化によって、自分の正体を簡単に人に見抜かれるようになった。

すばらしく才能豊かな美女だと思っていた女優や、大舞台で活躍しているアスリートの正体が、とんでもないずるをかましていた馬鹿だった。

本当にもう何もない。からっぽの雪、という七が、痛く響くでしょう。

あの人は、あなたがたのこういう嘘を、とっくに見破っていたのです。

わからない人には何を言ってもわからない。馬鹿なことばかりして、自分を暗黒に追い詰めているということさえ、わからない。

無知ということが、どんなに恐ろしいことか、今ならよくわかるでしょう。

永遠に失ったものの正体が、明るくなった自分の目に見えてきたとき、ようやく、本当の後悔が始まるのです。






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ほしあひ

2018-05-09 11:08:45 | 短歌





ほしあひの ちぎりのかはの 岸辺にて 待てどふたたび 来ぬ月夜かな





*「ほしあひ(星合ひ)」とは七夕の夜に織姫と彦星が会うことですね。七夕の伝説は切ない恋を表すのによいアイテムだ。活用しましょう。

織姫と彦星が年に一度会うと言う約束の川、すなわち天の川の岸辺で、待っていても、もう二度とは来ない、月にたとえられるあの人であることよ。

織姫彦星は、年に一度会える約束があるから、自分もその伝説を頼って、会いたい人を待ってみたというところでしょうか。岸辺というが、実際に行ったところは、今はもう変わり果てているあの野原であるかもしれない。かのじょが生前よく行った山であるかもしれない。

だがもうどこに行ってもかのじょはいない。あの人だけはもう永遠にこの世界に存在することはできないのだ。

未熟な人というのは愛し方というのがわからない。好きになれば大事にしてやればいいものを、思うように自分に寄って来ないからという理由だけで激しく憎悪し、大勢で寄ってたかってころした。

自分の方を馬鹿なやつにしたくなくて、言い訳にもならないことを繰り返し、どうにかしてかのじょの方が悪いのだにしようとした。だがまぎれもない真実が次々と現れてきて、馬鹿は認めるしかない。

あの人が本当に良い人であったことを。

すべては、女を思い通りの肉にするために、馬鹿な男や女たちが都合の悪い事実を曲げに曲げて、やったことなのだと。悪いのは完全に自分だと。

真実は隠し通せるわけがない。あの人は、本当に純真素朴な、少年を通り越して少女のようにかわいらしい、天使だったのです。

強引にやりつくしたことが罪の山になって迫ってきている。天使をひとり完全に消したことによって、人類の救済が大幅に崩れた。かのじょがいれば救えたはずの人間がおそろしくたくさん落ちた。彼らはその責任をとらねばならない。

いまだに小さいことすらまともにできない弱さを抱えながら、永遠の年月をかけて、それを支払っていかねばならない。

馬鹿者というものはたまらない。

傲慢のツケというものを、思い知ったことでしょう。






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