ムジカの写真帳

世界はキラキラおもちゃ箱・写真館
写真に俳句や短歌を添えてつづります。

からすかあかあ

2018-05-21 04:19:15 | 短歌





つるばねの からすかあかあ かなしいな かへりたくても かへるとこなし





*これはつい最近大火が詠ってくれた歌ですね。この項はだいたい1か月以上のタイムラグがあるのだが、これは実につい先日書いた新品です。

今日発表する予定だった原稿が、ちょっと時期を逸してしまったので、急遽書き換えたのです。こういうこともたまにありますね。

わたしたちは、一つの存在を共有しているので、それぞれの活動を時間的に分け合ってやっています。ケバルライの小説のように、それぞれが一度にいっぺんにつくっておいて、少しずつ発表していくのです。

ですからどうしても時間差というのが生じるわけで。

今は、ベクルックスが新しい企画のための活動をやっているので、彼のために多く時間を割いています。ですからちょっとわたしはやりにくい。でもやってみましょう。

表題の歌は、「か」が重なって面白いですね。奔放自在な大火でなければ詠えません。誰にでもできそうで、だれもやらないことをやってくれるのが彼です。そこがおもしろくてしょうがない。

普通こういうのをやれば、下品になりがちだが、そこがなぜか品よくまとめられるのが彼の不思議なところだ。覚えやすいのもいい。わたしたちのほかの歌は忘れても、なぜか大火の歌は覚えていると言う人も多いでしょう。

鶴の羽根をつけて鶴のまねをしたからすは悲しいな、もう帰りたくても帰るところがない。

あんまり人まねばかりをしすぎて、本当の自分を失ってしまった人というのはいます。人の美人をうらやましがって、その美人の真似をしてそんな他人の顔ばかり生きて来たら、とうとうほんとの自分がいやなことになって、元の自分に戻れなくなったのです。

鶴から盗んだ羽をつけたからすが、とうとう白くなってきた。もう元のからすに戻れない。

それがどんなにつらいことかを、からすがわかっているかどうかはわかりません。が、それは自己存在にとって、神が用意してくれた美しい未来を、全部失うことなのです。

からすはからすとして生きていればよかった。本当の自分の美しさを信じていれば、いずれ神のようなものにすらなれる自分の未来があった。神はそういう風に自分を創ってくださったからです。

しかし鶴になりたかったからすは、そういう自分を嫌がって、とうとうからすでなくなり、本当の自分が導いてくれる未来を、全て失ってしまったのです。

あまりに悲しいことになったのです。

こういうことを、あっけらかんとかるい調子で歌ってくれるのが、大火の歌の醍醐味ですね。

むごいところもあるが、おもしろいでしょう。






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あほうの群れ

2018-05-20 04:19:25 | 短歌





月をまね をみなの道を はづれてし あほうの群れぞ 乱れあふるる





*ご存じの通り、この時代、天使の顔を真似した美人があふれ出ました。

遠い昔から、馬鹿な女はほかの美人を真似して、自分の顔を作ってきたのですがね、それがこの時代ものすごいことになった。

かつてない現象です。よほど、あの天使の美人に驚いたのでしょう。

おそろしくたくさんの女が真似をした。あのような美人になりたいと言って、全部が全部、そっくりにまねをしたら、同じ顔の美人がものすごくたくさんできた。

美というものは、人それぞれに違うものだ。神が創ってくださったほかにだれひとりとしていないこの自分の、本当の美が表現されるとき、とりどりの、ほかに類をみない美しさが見えるものなのだが。

馬鹿が作る偽物の美人はいつも画一的で個性に乏しい。似たようなタイプがたくさんできる。

だがこの時代はそれがもっとひどくなり、すべての偽物美人が、ほとんどどころかまったくと言っていいほど、同じ顔になってしまった。よほどの手練れでなければ見分けがつかない。

あまりにも愚かなことになったのです。

類まれな美人も五万人もいれば雑草と同じだ。全然美しくはない。それどころか、人間とも思えない。全然別の生き物に見える。

天使の顔は、実は人間にはありえないのですよ。馬鹿はそんなことは何もしりませんから、美しいからという理由だけで単純に真似したのですが、そうしたら自分が人間ではなくなってしまった。

恐ろしい怪物になってしまったのです。

あまりにも自分とは違うものに化けすぎて、本当の自分の霊魂の姿が、溶けてきたのです。

自分の勉強をせず、人のものを盗んでばかりで生きてきた、馬鹿な女のなれの果てというべきですね。盗んだ美貌を鼻にかけて、男をだまし、人を馬鹿にし続けてきた報いです。

だれも同情はしてくれない。

あれらはもう、すべてを引き受け、自分ひとりで何もかもをやっていかねばならない。

今まで、そんなことは、ほとんどどころか、まったくやったことがないのです。

いつでも、盗んだ美貌を武器に、人にやらせてきたのです。





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うらぎりの玉

2018-05-19 04:19:27 | 短歌





うらぎりの 玉をのめとて いつはりの 人の戸をとふ 鬼の群れかな





*人間の感覚の進化はさまざまな現象をこの世界に起こしつつあるようです。ツイッターでアンタレスが次々とおもしろいコツを教えるものですから、人々のスキルも徐々にあがってきている。嘘の見抜き方というのに、彼は実にユニークな着眼点を教えるのだ。

偽物の人間の、頭と体が別の人間に見えるとかね、この項を発表する頃には実におもしろいことになっているでしょう。人間はどんどん、この嘘ばかりの世界の正体を見抜いていく。いつまでも馬鹿ではない。自己存在というのは学んで大きくなっていくものですから、いずれはこういう時が来るのです。

だれもが、馬鹿どもの嘘をみぬけるようになる。馬鹿どもが隠し続けてきた本当の心を見抜くことができるようになる。

そうなれば、馬鹿どもは実に恥ずかしいところを、万人にさらさねばならない。

嘘で自分を作るために、馬鹿どもがどんなことをしているかが、全部わかれば、もう二度と馬鹿はいやだとみな思うことでしょう。

彼らは、嘘と盗みであの栄華の人生を送っていますが、なぜそんなことができるかというと、実に多くの人間から徳分を盗んでいるからなのです。ひとりの馬鹿の人生を良くするために、百人は犠牲にしていますね。

人間は、よいことをすれば、本当は徳分が生じて、自分の人生がよくなってくるものなのです。しかし、どんなにがんばってもよくならない人がいる。それどころかかえって貧しくなってくる人もいる。そういう人は、ああいう派手によい人生を送っている馬鹿に、徳分を盗まれていると考えたほうがよろしい。

たいしてよいこともしてないのに、それほどよい人格でもないのに、不思議に人生がうまくいくという人は、ほとんどが泥棒です。人の徳分を盗んで自分の人生をよくしているのです。

そういう人が偽物の人生を終えて、死ぬと、どうなると思いますか? 徳分を盗まれた人間が、いっせいに襲い掛かってくるのですよ。

自分の人生がつらかったのはおまえのせいかと言って、一斉に来るのです。そして盗んだものを全部取り返していく。それどころかとても痛いことをされる。そしてその人は、全部を裏切ったことになり、もう二度といやだと言って、縁を切られるのです。

人々が何もしてくれなくなる。愛をくれなくなる。

馬鹿というのは、遠い昔からそんなことばかりしてきて、愛を裏切り続け、とうとうこの時代、すべての愛を失ってしまったのです。






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人の冬

2018-05-18 04:19:05 | 短歌





うすゆきの とけてなみだと ながれゆく 人の冬こそ 夢となりけれ





*これはスピカの歌ですね。なんとなく風合いでわかる。スピカのファンは多いようです。かのじょのようなやさしい歌を多く詠んでくれるからでしょう。

わたしたちにもそれぞれ個性があります。スピカはとてもやさしい天使で、このようなかわいい世界がかなりすきだというひとです。甘やかにことばを繰る。男性でも、こんな人はいますね。あまり女性的なかわいい世界が好きだなどと、表立って言うことができないから黙っているでしょうが、別に恥ずかしいことではない。

自分が好きだと思う世界は素直に追いかけてみるがよろしい。それはおもしろいことができますから。

これは、平昌オリンピックの開会式があった日に詠まれたものです。当日、当地は厳寒であったらしい。氷点下の空気の中で、半裸で旗を振っていた選手に話題が集まっていました。この項が発表される頃にはもうとっくに終わっているが、いかがでしたか。いろいろとおもしろいものが見れたでしょうか。

薄雪が解けて、涙となって流れてゆく、人の厳寒の時代も、夢となってしまった。

厳寒の時代とは、嘘ばかりが繁栄していい目を見る時代のことです。ご存じの通り、今の時代は馬鹿があらゆることをやって、自分をいいものにし、世間を全くさかさまにしているという時代です。目立つところに出ている人間は馬鹿ばかり。それが好きなようにしている。派手な衣装を着て、嘘でつくった自分をひけらかし、甘い夢を見ながら、栄華に酔っている。

嘘で作った自分が本当になれたかのように。

だがそれももう夢だ。みながみな、あれらの正体を見抜いている。

美しいフィギュアスケートの選手の中に、みっともないちびがいるのが見える。軽々と空を飛ぶかっこいいスノーボードの選手が、まるで馬鹿に見える。

みんな嘘なのです。夢のようないい人生を送りたい馬鹿が、全部自分で勝手に作った世界なのです。

神は冷たい目で彼らを見ている。

オリンピックはそんなものになっている。一体いつからでしょう? それは歴史を振り返ってみればわかるでしょう。人間の世界は、もうとっくに嘘にむしばまれていた。

嘘で生きるほうが楽なのだとばかり、みな平気で嘘ばかりついてきた。

そしてそれがとうとう破たんする。

嘘が吹き荒れる世界の中でも、まことを大事にしてきた人間は救われるでしょう。だが。

嘘だけを頼りに、あらゆるものを馬鹿にしてきた馬鹿は、とうとう人間を追われるのです。






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はちすばの原

2018-05-17 04:18:36 | 短歌





ひろびろと はちすばの原 ながむれば うれひもちりぬ 風も無き空





*これは、ある夏のかのじょの思い出を詠った歌です。ある時、かのじょは子供を連れて少し遠いところにドライブをしたことがあった。そのとき、海のようにひろびろとしたレンコン畑を見たのです。

蓮の葉が一面に茂って、はるか向こうまで続いていた。夏の高い空に白い雲が見えていた。ところどころうすべにの花が散り、小さなイトトンボを見つけたりして、かのじょはたいそううれしかった。

美しい風景を見るのは、この世に生きるもののなぐさめです。

蓮の葉を見れば、御仏のことなど思い出す。

事実上、仏という存在はないのですが、しかしこの世では、美しい救済者としての伝説がありますから、蓮の葉などを見ると、その姿を幻想してしまいます。蓮の葉の上を、美しい仏が音もなく歩いてくるなどということを想像しては、かのじょはほれぼれと蓮畑を見ていた。

実際、蓮の花を見ていると、この世界での憂いも散りゆくようだ。それは実際、蓮が見る人の心にとてもいいことをしてくれているからです。

この世の憂いに激しく苦しんでいる魂にささやいてくれる。この世のほかに、とてもいいところがあるぞと。そこにいけばおまえは、いいことになる。心配するな。苦労をして、いいことを勉強したら、連れていてやろう。

物語のようなささやきが聴こえてくる。

実際、果てしない蓮の畑を見渡していると、そのまま心が浄土に吸い込まれてしまいそうだった。

もちろんかのじょには使命がありましたから、浄土などにはいかず、ひとときの幸せを蓮のもらったあと、またこの世に戻ってきたのですが。

世間ではかのじょをめぐっていろいろな汚いことが起こっていた。かのじょはそれに知らないふりをしつつ気付いていた。荒々しい人間の感情の中に、またかえっていかねばならない。使命を果たすために。

だが、あの蓮原がこの世界にあると思うだけで、心も軽くなるというものだ。また
夏になればあそこに行こう。そしてつかのま、浄土の夢を見よう。

苦しい世界を生きていくために、助けてくれるものはたくさんいる。

美しいはちすばの露のような夢を見ながら、あの人はこの世界を生き延びていたのでした。






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凡庸の民

2018-05-16 05:02:17 | 短歌





なにもせぬ わがみのゆゑに まづしきと いひて聞こえぬ 凡庸の民





*この時代に起こった、美女のいじめという事件は、馬鹿な人間たちの自分への嫌悪感がいかに深かったかを思わせます。

それはもう執拗などというものではなかった。それ以外のことは何もしていないのではないかと思うほどそればかりやっていた。美しい女性たちの、何も悪いことをしないのにいら立って、ありもしないことを言い募り、馬鹿にし続けた。それだけではなく、人間ではないということさえした。

美しい女性たちが、くだらないことをして、馬鹿になり、みんなの前で大恥をかいて死ぬことを、みんなで盛り上げておおはしゃぎにはしゃいでやった。

なぜそのようなことをしたのか。それはもちろん、うらやましかったからです。自分はあれほど美しくはない。苦いことばかりする。あふれるほど嘘をついて、いやなことばかりしている。それなのに美女たちは別に悪いこともせず、美しいまま生きている。

その上に頭がよかったり人格が高かったりすると、もう激しく燃え上がってしまった。夢中になって馬鹿にし続けた。その自分の姿がいかに醜かったかということが、全くわからないはずはあるまいに。

夢のように、心も姿も美しい女などいてもらっては困るのだ。そんなものがひとりいるだけで、馬鹿どもの世界は崩れ去ってしまう。

美女は馬鹿でなければ困るのだ。それでなければ馬鹿な男が手を出せない。馬鹿な女が化けた美女の正体がばれる。

そんなことで、馬鹿どもは一斉に美女に襲い掛かり、大勢でつぶそうとしたのです。

なぜそんなにも自分がつらいのか。それはいいことは何もしていないからです。それゆえに自分が貧しくてつらいのだと、何度口を酸っぱくして言っても、聞こえないかのように無視する。とにかくつらいのだ。何もない自分が。

美しくなりたいのなら、それなりの勉強をせねばならぬ。それをしもしないで、ただ自分より美しいという理由だけで女性をいじめるのは明らかな間違いです。

なんでも馬鹿は美女のせいにしますがね、美女は悪くはない。悪いのは、何もしない自分の方なのです。

おばけだと言って美女たちを馬鹿にした、馬鹿どものほうがおばけなのです。人間ではない。

美しい人間なら、馬鹿みたいな人数でひとりをいじめるなどのことが、できるはずがない。

なんと醜く、臭いのでしょう。






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鳥の子

2018-05-15 04:19:31 | 短歌





とほやまの あはき記憶を 鳥の子の 夢にこめては 月のごと抱く





*これは幻想的ですね。解釈をするのが少し難しいと言うか、あまりしないほうがいいとも感じる。言葉そのままを読んでもらって、読み手の中に浮かぶイメージを問いたいものだ。

「鳥の子」はたまごのことですね。こういういい方の応用として、「てふの子」などという言い方をしたこともありました。もちろん芋虫のことです。この世界には親と子で姿の違う生き物がたくさんいるものですから、文字数を節約するためにも、〇〇の子、といういい方は便利で美しいものだ。

「かげろふの子」とはありじごくですし、「月の子」とはかのじょのことだ。自分を、なにかの子とたとえることもできましょう。雪の子、風の子、海の子、山の子…。

親というものはよいものだ。美しいものの子であることはうれしい。自分の心は何の子だろうと想像するのも楽しいことでしょう。

この世界に生きているもので、神の生んだ子ではない存在はいません。

すべては神が生んでくださったのです。ゆえに人類はすべて神の子だ。美しい神のたねを持っている。その美しさを信じて、まじめに勉強していけば、みな神のように美しくなっていける。

だがそれをいやだと言って、他人の自分ばかり見て、そっちがいいと言って様々に馬鹿なことをやりはじめれば、悪夢が始まるのです。

山の淡い記憶とはなんでしょうね。はっきりと説明することはできるが、何かやりにくい。それは神の中から紡ぎ出される永遠の遺伝子のことかもしれない。はるかな昔、まだ山が小さな大地のくぼみだったころに、神がこの世界に設定した愛のかたちであるかもしれない。

それが、小さな鳥の卵の中にも秘されている。それを、月のように大切に抱いている。

愛すればよかったのに決して愛さなかった人が、もう一度生まれて来たら、鳥が卵を抱くようにやさしくしてあげたい。そういう思いもつかめるかもしれない。

だが、永遠に帰って来はしない。

そういう記憶も、風のように、山の中にたたまれていくだろう。そして永遠に語り掛けてくれるだろう。






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よしのがは

2018-05-14 04:19:52 | 短歌





よしのがは 岸辺に立ちて ひろびろと あをきみづみる をさななる頃





*かのじょは吉野川という大きな川のそばで育ちました。小さな頃はその川を毎日のように見に行った。川幅の太い下流の岸辺で、その水の広いことを、まるで海のようだと思っていた。

それがこの人生の幼いころの記憶に穿たれている。

青城澄という名前は、この記憶から発しています。吉野川の水があまりにきれいで、青く澄んでいたのです。その青さがずっと心に染みついている。

空を見ればそこも青く澄んでいる。痛いことばかりある人生の中で、あの人は空を見ながら自分の心を洗っていた。

だれにも本当の心を理解してくれない世界にいて、空にいるだれかだけは、自分を理解してくれていると思っていた。

それは確かに当たっていました。見えない世界にいるわたしたちも、また空からあの人を見ていた神も、あの人の心を知っていた。

真心だけで、人を救おうとしていたことを。

それはまるで、空のように青く澄んでいる心でした。

ふるさとの山河というものは、人間の一生を導いたりするものだ。山の形や、海の色や、季節の移り変わり、環境の中で遊んだ子供のころの記憶。時々に思い出す。かのじょは自分は異世界の人間ではないかという思いを常に抱いていたが、自分の生まれたところには、深い思いを抱いていた。

かなしいことの多かったところでしたが。

夢のようでもあった人生を終えて、いま眠っているかのじょはもう、その山河のことを覚えてはいない。ただ、夢の中で、犬とくすのきと一緒に遊べるひとひらの野だけは残っている。

あそこで、いつも空を見て、神の目を感じていたことだけは、かすかに残っている。

川のことは、ただただ青いものとして、ただよっているだけです。

美しい川だった。日の光が川面に散って輝いているときなど、かのじょは目を見はって見ていた。

何もかも忘れなければならないほど、悲しいことになるとは、あのころのあのひとは思いもしていなかった。






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見る雪

2018-05-13 04:18:24 | 短歌





あくがれて 不二の高嶺に 見る雪の ごときころもを わが手に得たり





*自分が嫌だと言う人は、とにかく自分を美しくしたがるものです。

おしろいでもなんでもぬって、肌を雪のように白くなりたがる。美白などというものが少し前に流行っていましたが、あれは少々滑稽でしたね。

抜けるように白い肌というのはありますが、それは悪いことをやめて長く勉強をしていいことをし続けてきた人に授かるものなのです。

悪いことをすればどうしても肌は黒くなる。人間、女性より男性の方が若干肌が黒いのは、もちろん男性が女性より悪いことをするからです。

しかし反対に、こつこつと小さくでも、清らかにいいことをし続けていくと、肌は清らかに白くなってくる。

それがとても美しく見えて、馬鹿者はそういう肌を欲しがるのです。

勉強をして、正しい方法で白くなるのならいいのですがね。みっともない技術を使って無理矢理自分を白くすることがある。そんなことをすれば後に、ほんとうに間抜けなことになるのだが。

白くすれば、自分の記憶にある黒いことも消えるとでも思っているのかもしれない。

しかしそれは消えはしない。

馬鹿な人たちが、技術で無理矢理自分を白くし、自分を美しくしても、心の奥に魂の記憶というものはあるものですから、常にそれがうずいている。自分はかつてみっともないことをしたことがあるという、痛みが常にある。それが実に苦しい。

自分が厭わしくて、そういう人たちはたとえ自分がたぐいまれな美女の姿をしていても、不安でたまらない。そして自分より美しい人を見ると、激しく憎悪するのです。

破壊と侮辱の限りを始める。恐ろしいことをする自分をとめることすらできない。なぜなのか。なぜ平気で、人を不幸のどん底に落とすことができるのか。感性の欠如もあるがむしろ、自分の奥にある背徳の傷があまりにも痛いのでしょう。

だがもう、そういう馬鹿者どもの気持ちを思いやってくれる者はいない。馬鹿なことをやりつくしたものは愛を消費しつくした。

ゴミのようなものとして、この世界から掃き出される。

もう二度と、あんな嘘つきたちはいやだと、全世界が言うのです。






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うましきもの

2018-05-12 04:19:16 | 短歌





われのほか うましきものを ゆるさぬと いふ馬鹿者の 月夜を否む





*「うまし(美し)」は、立派だとかすばらしいとかいう意味ですが、字面から、うつくしい、という意味も含めています。

自分のほかに、立派でうつくしいものなどゆるさないという馬鹿者は、月にたとえられるあの人の救いを断ってしまった。

勉強の足らない馬鹿者というものは、いつも単純に、自分が世界で一番だと思っているものです。もしくはそれでなければいやだと。

なぜかといえば、それは動物だったころの名残だからです。自己存在のごく幼期には、みながみな、世界で自分が一番すごい、一番いい、と単純に思っているのです。それを疑いもしない。疑うことができるほど、ものをよく知らない。自分、というものしか、ほとんど知らないのです。

親は自分の一部だと思っている。何もかも自分の思い通りになって当然だと思っている。何もわからないからです。またそういう時期は、そういう単純な自己信頼感が必要なのです。単純な自分への絶対信頼があるからこそ、幼いころは自然に生きていける。

だが、いつまでもそれではいけません。

自分というものも、大きくなってくると、他者とのバランスをとらねばならない。関係というものを作っていかねばならない。他者を知り自分を知り、自分というものが、自分が思っているほど立派ではないということを、少しずつ知っていかねばならない。

それが愛の世界への入り口なのです。

だいたいの人間は、高い存在の指導に従いながら、少しずつそれがわかってくるものなのだが、中には何も勉強してこなかったものがいる。人間存在として当たり前の、自分のバランス感覚が全くできていない人がいるのです。

そういう人は、いまだに、世界で自分がいちばんいいものでなければいやだと思っているのです。

だが実際そういう人は、自分が世界で一番偉いなんてものになれるはずがないとわかっている人と比べれば、だいぶ遅れているものだ。それが全くわからないほど馬鹿ではない馬鹿者は、焦って理屈をさかさまにして、馬鹿の方が偉いにするために、あらゆる馬鹿をやり始める。

それで何もかもがだめになる。

みんなを救うために一生懸命にやってくれたかのじょの仕事を、馬鹿どもは、かのじょが自分より美しいのが嫌だと言う理由だけで断ってしまった。かのじょが教えたのは、自己存在の真実なのだが、それを断ってしまっては、自分は自己存在ではないと言ったようなものだ。

それがどういうことか、まったくわからないほど馬鹿ではあるまいに。

彼らはかのじょを認め、かのじょに頭を下げることができない限り、永遠に、自分というものではないというものになり、誰にも相手にされなくなるのです。






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