比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

荒川・・・ポピー畑・・・御成橋

2007-05-19 | 川と滝と湖と海と橋の風景
荒川の河川敷内を花見散歩です。遠くに鴻巣市と東松山市を結ぶ県道27号線の御成橋が見えます。ここは鴻巣市滝馬室、河川敷のくせに地籍名がついてます。しかも一級河川の河川敷の中に田んぼや民家まであるのです。

手前に見えるオレンジの花はマツビシソウ? それともアイスランドポピー? よく見なかったのです。どちらもオレンジか黄色系です。マツビシソウ(カリフォニアポピー)はニンジン葉系です。ポピーはいろいろあってややこしい
とにかく広い 半端じゃありません。森山良子さんの歌ったこんな歌を思い出します。

 この広い野原いっぱい 咲く花を
一つ残らず あなたにあげる   

御成橋(800m)を西に渡ると河川敷内に川に直角の横堤が1600m以上続きます。県道は横堤上にあって、その川下側に横堤に沿って民家が並んでます。


御成河岸といいます。1600年代初頭に徳川家康が猟に出向いたことから名づけられたといわれます。船の渡し場(河岸)があったことは事実です。このあたりに荒川の旧流路が流れています。
河川敷内の横堤、明治後期の大洪水のあと26本作ったそうです。堤防というと古い形では上流に向かってV字が続くようになってます。雁行堤防といいます。ここは急流ではないので流れに対して直角です。洪水のとき大遊水池になるわけです。
この近辺の河川敷内の民家では洪水のときの緊急避難用として船が一家に一艘あったと本で見た覚えがあります。

荒川といったら伊奈忠次から続いた関東郡代伊奈氏の一族です。といってもほとんどの人が知りません。ほんとうは大河ドラマの主人公になってもいい人です。
1590年、徳川家康が江戸に入府、更地から江戸の街の都市づくりをはじめました。後背地の関八州の整備も欠かせません。一大プロジェクトです。利根川の東遷、荒川の西遷に手をつけます。巨大公共事業です。荒川では1629年熊谷市の久下というところで荒川をぶち切って西側の和田吉野川につなぎます。これが奥武蔵山地から流れる川を合流しながら江戸に下って行きます。久下で分断された川は元荒川という川になって中川水系に流れて行きます。
荒川の瀬替、久下の開削といわれます。これを仕切ったのが伊奈氏三代目の半十郎忠治です。

伊奈氏初代は熊蔵忠次、官位は備前守。先祖を辿ると信州伊那の熊蔵という所の守護らしいのですが熊蔵という所が何処か分かりません。話は脱線しました。
伊奈家という集団、今でいう国交省の河川事務所のような仕事もするし関八州の政治経済・司法公安まで行います。初代から潰されずに世襲で200年続きます。これは大変なことです。スタッフが優秀だったのではと思います。代官のくせにアチコチに百姓が建てた顕頌碑があります。またの機会に追っかけたいと思います。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿