比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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八月十五日・・・敗戦忌に・・・詠む・・・敗戦忌 非業の死者の骨還る

2019-08-16 | 語り継ぐ責任 あの戦争
1945年8月15日、日本は戦争に負けた・・・この日は忘れてはならない日。
明仁上皇の皇太子の時代、1981年8月7日、47歳のときのことです。記者会見で話された内容です・
「忘れてはならない4つの日」・・・「8月15日 終戦記念日」「8月6日 広島原爆の日」「8月9日 長崎原爆の日」「6月23日 沖縄戦終結の日」。



★「縄文人さん」の7月29日のブログ・・・クリック百日紅が咲くと、「終戦と言う重い言葉」を思う!!より承諾を得て掲載させていただいた「敗戦忌」の歌です。

母涙「日本が負けた」敗戦忌

終戦後耐え生き抜いた芋ご飯 

敗戦忌非業の死者の骨還る

芋蔓を油で炒め敗戦忌

        竹槍と藁人形や敗戦忌
    縄文人 

 残されて銃後の妻となる日近く
         征かせともなき夫に寄り添う
 (富江)

芋ご飯・・戦争に負けたあと食料不足、米飯に芋、大豆、コーンなどの増量材を入れた。非業の死者・・天寿を全うしなかった死者のこと。骨箱に石が入ったいたという話も聞く。芋蔓・・・里芋の茎の干したものをズイキというが、サツマイモの茎、スベリヒユの茎も食べた。竹槍と藁・・米軍の本土上陸に備えて一般市民は手製の竹槍で戦うべく訓練した。自動小銃と竹槍である。冗談みたいな話であるがホントである。
短歌・・縄文人さんの親戚の話し、夫を戦場に送る妻の未亡人になる覚悟の歌 。その夜、新妻は夫とどう過ごしたであろうか。夫は敗戦後、帰還し子3人をもうけ妻は93歳で天寿を全うしたという。


★2018年5月17日PM7:00~8:00、TBSテレビ バラエティー番組「プレバト」・・・を見ていました。2018年5月19日⇒ブログクリック

          原爆忌アイツと青く飛んだ日々    北山宏光

北山宏光さん・・・1985年神奈川県生まれ、ジャニーズ事務所所属、歌手、俳優、タレント、7人組アイドルグループ「Kis-My-Ft2」のメンバー。



★わたしの句です。拙い

蝉の声ぴたりと止みて敗戦忌
   
非命ニ斃レタルモノ想ヒ「海ゆかば」

長崎の浦上の鐘鳴り原爆忌

         魂揺れる灯籠流しヒロシマ忌
    比企野


蝉の声・・あの日、8月15日は暑かった。非命・・天寿を全うしない命のこと。「海ゆかば」・・・戦意高揚歌として作られた軍歌であるがそのメロディーから大本営発表で玉砕を伝えるときなどに流されしだいに出征兵士が無言の帰郷のときに歌われ鎮魂歌のようになった。浦上の鐘・・あの日、浦上の天主堂ではミサが行われていた。焼け跡から発見されたアンジェラスの鐘はその年のクリスマスに鳴り響いた。灯籠流し・・原爆ドームの前を流れる太田川、原爆忌の夜、死者の霊を慰める灯籠流しが行われる。写真は埼玉県東松山市丸木原爆美術館8月6日の「原爆忌」の灯籠流し。


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10 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
つたない5・7・5掲載、感謝。 (縄文人)
2019-08-16 10:08:01

有り難うございます。
8/15を前後して多くの人達が、戦争体験を語り、講演、書き綴りを成されたことでしょう。
此処で必ず出る言葉
「体験者が高齢になり、語るのも、読み聞かせも大分苦労が多い人達になりました。」
戦後74年が経過し全くその通りでありましょう。

小生などは山奥で、新聞、親の顔、雑誌などでなどで見聞しただけで、辛酸をなめたことはさほどありません。
憲兵が学校へ、勤労奉仕、松の根っこ堀り・・・・・。

サルスベリの花を見ると『終戦』を思う。
この欄に

  残されて銃後の妻となる日近く
         征かせともなき夫に寄り添う (富江)
                  昭和17年11月

   幸いこの兵士は、終戦後間もなく復員、
3人の子供に恵まれた。
  作者(富江)は、今年5月に、96才の生涯を閉じた。

マスコミが伝えるように戦争体験者は年おう毎にごとに少なくなります。



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8月17日(土)0:00~映画『ひろしま』がNHK(Eテレ)にて放映されます (mobile)
2019-08-16 11:35:24
8月17日(土)0:00~映画『ひろしま』がNHK(Eテレ)にて放映されます(今日の深夜になります)。
 日本国内でかつて上映禁止となった幻の名作が今夜復活!見逃さないでください。
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敗戦忌 (青葉太郎)
2019-08-16 13:57:39
貴重な句、紹介いただきありがとうございます。直接体験を語る方が少なくなる折、記録を語り継ぐことがますます大切になってきました。
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追記、余談 (縄文人)
2019-08-16 16:29:47

 ① 戦後数年たっても、家の息子は帰還しない。して間もなく《戦死公報》が届いた。
その家では、「戦死者の碑=石碑」を建立した。
するとどうでしょう、戦死したはずの息子がヒョッコリ帰還した。
  これはまだ良い方です。

② 長男の戦死公報が届く。
銃後の守りで、戦いの後方を守り抜いてきた嫁さんの配偶者の問題。
サアどうしようと悩んだ爺さん、婆さん。
 戦死した兄の、弟を呼び寄せてカップルにした。
  農家は家の継承・跡取り問題が何と言っても重要問題でした。
このような複雑な問題は、(7~10世帯)で1件か2件有りました。
そんな中、①の様に、ひっこり帰った人(兵士)これは人間関係が絡んで複雑です。

痛ましい現実問題でした。

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あのころ、田舎の小学校では (縄文人さんへ・・・)
2019-08-17 18:45:35
朝鮮人の農耕部隊といわれてたのが駐屯していました、軍の中隊管理だったようですから軍隊組織だったのかな。仕事は山林の開拓、徴兵によるものか強制連行であったかワカリマセン。辛くて脱走を試みた兵がいたらしく梁に吊るされ竹刀で殴られていました。開拓された土地は戦後満州引揚者が入植していました。松代の大本営、天竜川のダム建設などは朝鮮人労働者が働いて作ったものです。

出征兵士の未亡人・・・生きて帰った弟の嫁になる・・・伊那の田舎では「弟直し」といってました。死んだと思った兄が帰っていたりしたこともあったようです。

縄文人さんの句を載せた16日のブログ、930の閲覧がありました。信じられないです。
ブログ冥利に尽きます。
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一句・・・ (青葉太郎さんへ・・・)
2019-08-17 19:46:41
お待ちしています。


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貴重なお知らせありがとうございました (mobileさんへ・・・)
2019-08-17 19:51:04
わたしのブログを見た人が、あの映画を見てくれたらと思いました。

わたしは録画してありますから、これからじっくり見るつもりです。

これからもよろしくお願い足します。

コメントありがとうございました。
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遺骨が・・・・・ (こきおばさん)
2019-08-20 07:44:36
 私の知人のお父上は、戦後シベリヤで亡くなられたとお聞きしていましたが、この度DNA鑑定で70年以上ぶりに遺骨が遺族のもとに帰ってきたそうです。
「幼児だったので、父の顔も覚えていないけれど、父はやっと帰れて喜んでいると思う」と言われていました。
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遺骨 (こきおばさんへ・・・)
2019-08-20 09:16:16
南の島に、シベリアの凍土に・・・多くの遺骨が眠っています。
「戦争をやりましょうよ」という言葉・・・何を考えて叫んだ言葉か・・・今もワカリマセン。

戦争は、人の命と、莫大なお金がかかります。
資源の無い国は絶対に戦争はできません。
こんなブログがあります。
https://blog.goo.ne.jp/tamayura3/e/1939addcc810312721cd4573701cf222
返信する
たまゆら様 (こきおばさん)
2019-08-20 16:03:02
以前にもご紹介いただきましたので、たまゆら様のところには毎日訪問させて頂いております。
比企野様のお陰で、嬉しい出会いを頂き有難く思います。
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