信州上田の・・・六文銭の写真帳
2月22日、近世は幕府直轄の幹線道路中山道の宿場のあったところ、長野県北佐久郡浅科村(現佐久市)の塩名田宿を尋ねました。
中山道69次23番「塩名田宿」・・・江戸時代佐久郡塩名田村、明治の時代1889年塩名田村、御馬寄村、市左衛門新田が合併して中津村に、1955年南御牧村、中津村、五郎兵衛新田村が合併して浅科村に、2005年佐久市に。千曲川の右岸、沖積地のやや河岸段丘の上。
塩名田宿・・・1843年の「中山道宿村大概帳」によれば家数116戸、うち本陣1.脇本陣1、本陣兼問屋1、旅籠7軒。人口574人の小規模の宿だったようです。東の岩村田宿と5.1㎞、千曲川を挟んだ西の八幡宿と2.9㎞、千曲川の氾濫期の足止め客の収容の分散のために宿間の里程(中山道の宿間平均里程7.3㎞)を短くしてあります。遺構は旧本陣兼問屋の丸山家、町屋の佐藤家が江戸期の面影を伝えています。
旧本陣兼問屋を務めた丸山新左衛門家です。1756年に再建されたの建屋ですが改修をくり返していまも住宅として現役です。
東信地区には珍しい中信、南信に多く見られる本棟造り、妻入り、屋根に雀脅しの装飾が見られます。
丸山家、もう1軒の本陣も丸山家、脇本陣も丸山家系で・・・
塩名田で最も古い町屋造りの家、佐藤家(佐越)
説明板を見ると、見世(店)があるから商家?部屋数が多いのから旅籠?茶屋?
写真では佐藤九郎右衛門、説明板では半左衛門になっています。
東信地区には珍しい中信、南信に多く見られる本棟造り、妻入り、屋根に雀脅しの装飾が見られます。
丸山家、もう1軒の本陣も丸山家、脇本陣も丸山家系で・・・
塩名田で最も古い町屋造りの家、佐藤家(佐越)
説明板を見ると、見世(店)があるから商家?部屋数が多いのから旅籠?茶屋?
写真では佐藤九郎右衛門、説明板では半左衛門になっています。
かつての中山道の「千曲の渡し」あたり・・・現代の中津橋・・・から見た浅間山。川下に北陸新幹線千曲川第一橋梁、下水管橋、県道44号線浅科大橋。
江戸時代初期は岩と岩との間に木材を架けた「投渡し橋」。洪水のたびに流されるのでその補修に板と人足を提供する100の村の組合があったそうです。1721年岩が洪水で流れされたため御馬寄側は跳ね橋に、塩名田側は投渡し橋に、1741年船を繋いて板を掛ける船橋にするが2年に1回は流されたとか。1年に5~6回の洪水が起きる暴れ川、水勾配もキツク狭窄部にかかるあたり、木橋の架橋が難しかったのです。右岸に船繋ぎ岩があります。近代的な木橋がかけられたのは1893年のことです。
江戸時代初期は岩と岩との間に木材を架けた「投渡し橋」。洪水のたびに流されるのでその補修に板と人足を提供する100の村の組合があったそうです。1721年岩が洪水で流れされたため御馬寄側は跳ね橋に、塩名田側は投渡し橋に、1741年船を繋いて板を掛ける船橋にするが2年に1回は流されたとか。1年に5~6回の洪水が起きる暴れ川、水勾配もキツク狭窄部にかかるあたり、木橋の架橋が難しかったのです。右岸に船繋ぎ岩があります。近代的な木橋がかけられたのは1893年のことです。
※撮影日は2月22日。
《地名の由来》※浅科村・・・昭和の大合併時の造語、浅間山と蓼科山の一文字づつとって。
※御馬寄・・・望月御牧の東端、牧の馬をここで寄せ集めたのであろう。
※塩名田・・・塩の字のつく地名は多くあり①塩の流通に関係②塩を含む地質③塩に関係なく地形説・・・など諸説ある。
※中津・・・千曲川の両岸に船泊まり・・・津があったから・・・?
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