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「山本慈昭 望郷の鐘 満蒙開拓団の落日」
《主な出演者》
内藤剛史、渡辺 梓、李 麗仙、星奈優里、常盤貴子、市川笑也、奥寺康彦(元サッカー選手、横浜FC社長)、松沢大輔(友人の孫です)
《満蒙開拓とはなんだったのか》
あの戦争で日本は中国大陸東北部に「満州国」という国家を作り、「開拓」という名前で約27万人の農民を送り込みました。1932年の第1次武装移民を皮切りに1945年5月まで続きます。
表向きのスローガンは「五族協和」「王道楽土」で「すべての民族が仲良くして、理想の国を作ろう」ということです。実態は西欧列強の模倣をした植民地政策でした。
その当時の日本は世界大恐慌のあおりを受け、農村は疲弊、貧困のどん底、農民たちは政府の国策にそって生まれ故郷を捨てて新天地に活路を求めます。
日本政府は1世帯あたり20町歩の耕地を約束します。その開拓地は実は現地住民から略奪に近い安価(1㌶10円、それが現地住民にとって妥当なレートであったかわかりませんが饅頭1個5厘として2000個分です)で強制収用したもの、ほとんどの渡満者はそのことをあとから知ったようです。満蒙開拓青少年義勇軍、勤労奉仕隊という組織もありました。戦争が激しくなると開拓者の成人男子の根こそぎ兵役徴用が行われ開拓村には老人と女子供たちだけが残りました。
1945年8月9日、ソ連軍が国境線を越えて進攻してきます。このときソ連軍の進攻を予測していた日本陸軍(関東軍)は南部で迎撃すると称して軍隊を秘かに南下させていました・・・しかもソ連軍の進攻を遅らせるため橋や鉄道を分断して。満蒙奥深くから開拓民は撤退をはじめますが軍隊の守らない弱者、土地を収奪した日本人として、こんどは逆の立場で「五族協和」のメンバーであったはずの現地住民から攻撃をうけます・・・すべての現地住民が暴徒になったわけではありません。
かくして満蒙開拓団の逃避行は各地で悲劇を生みました。満州開拓者27万人、死者7万8000人、約28%。 青少年義勇軍8万6500人、死者2万4200人、約28%。
《さて本映画の主題「山本慈昭師」の話です》
南信州阿智郷長岳寺の住職で小学校教師だった山本慈昭師は、1945年5月、請われて南信州の阿智郷開拓移民団の小学校の教師として一家を上げて渡満します。1945年5月といえば沖縄では住民を巻き込んで熾烈な地上戦が行われているさ中、東京は3月10日に大空襲を受け市民10万人が一夜にして犠牲になったあとです。
ソ連参戦・敗戦で避難行をはじめますが途中で自身はソ連軍の捕虜としてシベリアに送られ家族は離ればなれに。シベリアから帰国したとき奥さんと子供たちの死を知らされます。いっしょに渡満した51人の生徒たちで帰国していたのは6人だけ。
やがて天龍村の平岡ダム建設のために使役させられていて死亡した中国人捕虜の遺骨収集に加わり、遺骨返還訪中団の一員として1964年中国で周恩来首相と面談、そのころから中国残留孤児探しの活動をはじめ、1972年日中国交が開かれると「日中友好手をつなぐ会」の会長に。1980年残留孤児探しの訪中調査に。
山本さんは年金と住職としてのわずかな収入のほとんどを中国残留孤児探しの運動につかっていたといいます。満蒙の地に散った教え子たちへの贖罪だったのでしょうか。その後、肉親にめぐり会えなかった方の一人が山本さんの娘さんを探し出してくれたそうです。90歳、100歳までこの仕事を続けるとがんばっていましたが88歳で天寿を全うします。
(井出孫六著「終わりなき旅」岩波書店1986年刊・・・の文中より)
「開拓」ということばは辞書を引かずとも「山野・荒地を切り開いて耕地や敷地にする」ことの意であることは明らかだが「満蒙開拓」とは多くの場合「現地住民の汗の結晶である既耕地を奪い住居を奪い、そこに住むこと」であったとすれば「満蒙開拓」という言葉それ自身が、ためにする謀りのことばであったということだろう。
1月31日、川越市民会館ーやまぶき会館ホールに映画を見に行きます。
「山本慈昭 望郷の鐘 満蒙開拓団の落日」
《主な出演者》
内藤剛史、渡辺 梓、李 麗仙、星奈優里、常盤貴子、市川笑也、奥寺康彦(元サッカー選手、横浜FC社長)、松沢大輔(友人の孫です)
《満蒙開拓とはなんだったのか》
あの戦争で日本は中国大陸東北部に「満州国」という国家を作り、「開拓」という名前で約27万人の農民を送り込みました。1932年の第1次武装移民を皮切りに1945年5月まで続きます。
表向きのスローガンは「五族協和」「王道楽土」で「すべての民族が仲良くして、理想の国を作ろう」ということです。実態は西欧列強の模倣をした植民地政策でした。
その当時の日本は世界大恐慌のあおりを受け、農村は疲弊、貧困のどん底、農民たちは政府の国策にそって生まれ故郷を捨てて新天地に活路を求めます。
日本政府は1世帯あたり20町歩の耕地を約束します。その開拓地は実は現地住民から略奪に近い安価(1㌶10円、それが現地住民にとって妥当なレートであったかわかりませんが饅頭1個5厘として2000個分です)で強制収用したもの、ほとんどの渡満者はそのことをあとから知ったようです。満蒙開拓青少年義勇軍、勤労奉仕隊という組織もありました。戦争が激しくなると開拓者の成人男子の根こそぎ兵役徴用が行われ開拓村には老人と女子供たちだけが残りました。
1945年8月9日、ソ連軍が国境線を越えて進攻してきます。このときソ連軍の進攻を予測していた日本陸軍(関東軍)は南部で迎撃すると称して軍隊を秘かに南下させていました・・・しかもソ連軍の進攻を遅らせるため橋や鉄道を分断して。満蒙奥深くから開拓民は撤退をはじめますが軍隊の守らない弱者、土地を収奪した日本人として、こんどは逆の立場で「五族協和」のメンバーであったはずの現地住民から攻撃をうけます・・・すべての現地住民が暴徒になったわけではありません。
かくして満蒙開拓団の逃避行は各地で悲劇を生みました。満州開拓者27万人、死者7万8000人、約28%。 青少年義勇軍8万6500人、死者2万4200人、約28%。
《さて本映画の主題「山本慈昭師」の話です》
南信州阿智郷長岳寺の住職で小学校教師だった山本慈昭師は、1945年5月、請われて南信州の阿智郷開拓移民団の小学校の教師として一家を上げて渡満します。1945年5月といえば沖縄では住民を巻き込んで熾烈な地上戦が行われているさ中、東京は3月10日に大空襲を受け市民10万人が一夜にして犠牲になったあとです。
ソ連参戦・敗戦で避難行をはじめますが途中で自身はソ連軍の捕虜としてシベリアに送られ家族は離ればなれに。シベリアから帰国したとき奥さんと子供たちの死を知らされます。いっしょに渡満した51人の生徒たちで帰国していたのは6人だけ。
やがて天龍村の平岡ダム建設のために使役させられていて死亡した中国人捕虜の遺骨収集に加わり、遺骨返還訪中団の一員として1964年中国で周恩来首相と面談、そのころから中国残留孤児探しの活動をはじめ、1972年日中国交が開かれると「日中友好手をつなぐ会」の会長に。1980年残留孤児探しの訪中調査に。
山本さんは年金と住職としてのわずかな収入のほとんどを中国残留孤児探しの運動につかっていたといいます。満蒙の地に散った教え子たちへの贖罪だったのでしょうか。その後、肉親にめぐり会えなかった方の一人が山本さんの娘さんを探し出してくれたそうです。90歳、100歳までこの仕事を続けるとがんばっていましたが88歳で天寿を全うします。
わたしたちは、このお話から何を学べばいいのでしょうか。
和田登作「望郷の鐘」(しなのき書房 2013年刊)を図書館でリクエストしてようやく読むことができました。
和田登作「望郷の鐘」(しなのき書房 2013年刊)を図書館でリクエストしてようやく読むことができました。
(井出孫六著「終わりなき旅」岩波書店1986年刊・・・の文中より)
「開拓」ということばは辞書を引かずとも「山野・荒地を切り開いて耕地や敷地にする」ことの意であることは明らかだが「満蒙開拓」とは多くの場合「現地住民の汗の結晶である既耕地を奪い住居を奪い、そこに住むこと」であったとすれば「満蒙開拓」という言葉それ自身が、ためにする謀りのことばであったということだろう。
※コメント欄オープン。
私のブログにも書き込ませていただきます。
よろしくお願いいたします。
こうした映画は商業劇場では難しいでしょうね。
長野県では市町村での上映が始まっているようです。
山梨でのこの映画の紹介をお願いします。
中野では5月まで上映するようです。甲府から新宿まですぐですからね。
コメントありがとうございます。。