赤石山(3120㍍)に登ったウエストンの話の続きです。
暴風雨の中で野営します。雨具はなんだったのでしょうか。油紙か渋紙です。ゴアテックスなんて無い時代です。テントもありません。ウエストンも強いが当時の猟師たちも強いのです。いまなら遭難です。ふたたび大河原を通り高遠で1泊とあるが途中で泊っているかは不明。金沢峠(1315㍍)を越えて甲州街道台ヶ原宿に泊りますが、ここでは相場の4倍の宿賃をボラレます。金の使い方もしっかりチェックしています。鰍沢(富士川の川港)から船で岩淵(東海道岩淵宿、川港)まで下り、この旅は終わりです。当時は中央線も身延線もありません。それにしてもこの休みの間、本業の宣教師のほうはどうしてたのでしょうか。
この山にはもう一つエポックがあります。大倉財閥の大倉喜八郎が1926年(大正15年)静岡県側の椹島から駕篭に乗って赤石山の頂上まで登っています。オン年88歳。この山の地主だったのです。その後この山のオーナーは東海パルプに替わっていきます。
私は少年のころ毎日この山を見ながら育ちました。「わが心の山」です。
東に見える山ですから夕陽に赤く染まった山はそれはそれはキレイでした。
ラジオラリア板岩(ラジオラリア虫の化石の堆積)で赤く見えるので赤石と呼ばれたようです。右に見える谷間は雪食カールかな。むかしむかし夏の終わりごろ単独行で三伏峠(2580㍍)、荒川岳(3141㍍)経由で行ったことがあります。無人小屋です。同宿者は3人でした。ナタを持っていってカンバを燃やして飯を炊きました。いまなら厳罰です。ラジュースは持ってましたが緊急用です。インスタント食品なんてありません。畑薙ダムへ下りたのですがコースを覚えてないのです。椹島もまだ無かったのかな。
暴風雨の中で野営します。雨具はなんだったのでしょうか。油紙か渋紙です。ゴアテックスなんて無い時代です。テントもありません。ウエストンも強いが当時の猟師たちも強いのです。いまなら遭難です。ふたたび大河原を通り高遠で1泊とあるが途中で泊っているかは不明。金沢峠(1315㍍)を越えて甲州街道台ヶ原宿に泊りますが、ここでは相場の4倍の宿賃をボラレます。金の使い方もしっかりチェックしています。鰍沢(富士川の川港)から船で岩淵(東海道岩淵宿、川港)まで下り、この旅は終わりです。当時は中央線も身延線もありません。それにしてもこの休みの間、本業の宣教師のほうはどうしてたのでしょうか。
この山にはもう一つエポックがあります。大倉財閥の大倉喜八郎が1926年(大正15年)静岡県側の椹島から駕篭に乗って赤石山の頂上まで登っています。オン年88歳。この山の地主だったのです。その後この山のオーナーは東海パルプに替わっていきます。
私は少年のころ毎日この山を見ながら育ちました。「わが心の山」です。
東に見える山ですから夕陽に赤く染まった山はそれはそれはキレイでした。
ラジオラリア板岩(ラジオラリア虫の化石の堆積)で赤く見えるので赤石と呼ばれたようです。右に見える谷間は雪食カールかな。むかしむかし夏の終わりごろ単独行で三伏峠(2580㍍)、荒川岳(3141㍍)経由で行ったことがあります。無人小屋です。同宿者は3人でした。ナタを持っていってカンバを燃やして飯を炊きました。いまなら厳罰です。ラジュースは持ってましたが緊急用です。インスタント食品なんてありません。畑薙ダムへ下りたのですがコースを覚えてないのです。椹島もまだ無かったのかな。
ウエストン以外は…
先輩にそう聞きました。
私らの時代は戦後で何もなく旧軍隊の1間四方のテント地だった。
コメントありがとうございました。
ぜひ見たいと思います。
いつか、紹介してください。
拙ブログでも紹介したいと思います。
コメントありがとうございました。