比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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ウエストン・・鳳凰・・オベリスク

2006-10-13 | 山が好き 中央・南 アルプス
ウエストンは1888年(明治21年)にイギリス国教会の宣教師として来日、1895年に帰国、1902年(明治35年)再び夫人同伴で来日。このときも山に登りまくり1905年に帰国、三度目は1911年に来日、山行を重ねて1915年(大正4年)帰国します。山行は夏だけのようですから宣教師の仕事はしっかりとしていたかな。1918年に「The Playground of the Far East」を出版します。
この本がはじめて邦訳されたのは1970年岡村精一訳「極東の遊歩場」(山と渓谷社)です。写真の本は水野勉訳「日本アルプス再訪」(平凡社1996年)です。両社、書名が違います。原題にピッタリの書名がないのです。「極東」とはヨーロッパから見た日本です。日本では使いません。Playgroundは日本語にピッタンコの言葉が無いですね。
内容は登山記が半分、半分は日本学の研究書のようでもあります。特に日露戦争を目の前にしているせいか日本の軍隊、軍人の考察もあります。この人古き時代の礼儀正しい日本人が大好きです。ピークハンターでもなければ山ヤでもありません。
心から自然を愛しています。

この本で面白いのは鳳凰山地蔵岳のオベリスク初登攀です。本人も得意だったようです。


コースは山梨県小笠原から鳩打峠を越えて岩下という温泉に泊まり、翌日に芦安から杖立峠(2177㍍)御室キャンプ場(2500㍍)で野営、同行者は猟師3名。翌日、薬師岳、観音岳を過ぎて地蔵岳(2764㍍)のツケね賽の河原に到着します。このへんの高山植物の様子の描写は素晴らしい。北岳のことを甲斐ヶ根岳と記述しています。同行者2名はカモシカを見たとたんに行方不明になります。彼らにとって山なんかどうでもいいのです。
残った1人を見張りにして1人でこのピナクルに挑戦します。道具はピッケルと石を結んだ軽登山用のロープだけです。無謀と言うか勇気があるというか(よい子はけっして真似をしてはいけません)、さすが英国人です。成功させて賽の河原に下りてくると案内人の仕事をサボった連中の収獲したカモシカのナマ肝をご馳走されます。
このあと一行は野呂川まで降り北沢峠を越え戸台、高遠経由で帰ります。1904年のことです。

スケッチはむかしむかし9月末に登ったときのものです。
花崗岩です。燕岳、烏帽子岳とおなじ岩です。歩いているところはザレ場です。

それにしても、このへんどうして「南アルプス市」なんていう市名にしたのだろう。ことによると「アイガー市」なんて名前にしたのかな。

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