今日8月9日、いまから65年前、長崎に原爆を落とされた日・・・ナガサキ忌・・・です。
長崎市松山町平和公園、爆心地のそばの丘の上の「平和祈念像」。
平和祈念像の奥を少し歩くと永井隆博士の寓居「如己堂」。
永井博士は長崎医大の診療室で被爆、被爆者の救護活動に勤めるが、自らも発症。
1948年浦上の人たち有志が畳2枚のバラック小屋を作ってくれます。
博士はここで療養生活を続け「長崎の鐘」はじめ多くの作品を残し1951年43歳でこの世を去りました。
「如己堂」の前の坂を下りていくと浦上天主堂が見えてきます。
爆心地から500mの浦上天主堂、瓦礫の中からアンジェラスの鐘が発見されます。
この鐘が再び鳴らされたのは原爆被災の年のクリスマスの夜でした。
「アンジェラスの鐘」は永井博士によって「長崎の鐘」に・・・そして「長崎・平和の鐘」になりました。
末永く平和の鐘を鳴らしてほしい。
長崎市松山町平和公園、爆心地のそばの丘の上の「平和祈念像」。
平和祈念像の奥を少し歩くと永井隆博士の寓居「如己堂」。
永井博士は長崎医大の診療室で被爆、被爆者の救護活動に勤めるが、自らも発症。
1948年浦上の人たち有志が畳2枚のバラック小屋を作ってくれます。
博士はここで療養生活を続け「長崎の鐘」はじめ多くの作品を残し1951年43歳でこの世を去りました。
「如己堂」の前の坂を下りていくと浦上天主堂が見えてきます。
爆心地から500mの浦上天主堂、瓦礫の中からアンジェラスの鐘が発見されます。
この鐘が再び鳴らされたのは原爆被災の年のクリスマスの夜でした。
「アンジェラスの鐘」は永井博士によって「長崎の鐘」に・・・そして「長崎・平和の鐘」になりました。
末永く平和の鐘を鳴らしてほしい。
(イラストは2006年長崎を訪れたときのもの)
《蛇足》このへん一帯を浦上といいます。明治以前の浦上村です。幕末、隠れキリシタンが100%近かったそうです。1867年「浦上四番崩れ」というキリシタン弾圧事件が起こり、明治政府が引き継いで大量の逮捕者を出し、萩、津和野、福山などに流刑者が送られます。
大聖堂は1914年完成。1945年原爆により壊滅。1959年再建。大聖堂の廃墟を広島原爆ドームのように残すか議論が分かれた。焼け爛れた壁の一部が爆心地公園に移されて建っている。
永井博士のこと。短い間に「長崎の鐘」「この子を残して」など多くの著書を残したことで有名になりました。とうじは活字に飢えた時代で本が売れて、読者の涙を誘ったようです。それが映画になり歌になりさらに有名になりました。長崎の平和の象徴は永井博士かもしれません。
信州に行ってきました。美ヶ原まで行ったのですが台風の通過で風と霧で歩けませんでした。
吉永さんの朗読凄く良かったですね。
心にしみました。
素晴らしい活動をしていたのですね。
数年前、長崎を訪れました。長い博士の家が保存されていて、そのあばら家に驚きました。お互いに被爆したもの同士、何とか家を建てたのでしょうね。
「この子を残して」の子どもたちは、成人して社会に尽くしてお亡くなりになったのですね。
テレビで茅野さんの娘さんが吉永さんと話されていましたが、もうそんなに年月が流れたのですね。
原爆のことは、テレビなど情報等で見聞きしますが
永井博士のことは知りませんでした。
被爆者の救護に奔走されて、
自分自身の発症で、43歳の若さでは惜しいことですね。
何時までも平和の鐘が鳴り続きますようにと、
願わずにはいられません。
(へな爺)
西本宗一さんのお話に心打たれました。ブログ上で
色々教えていただき有難うございました。
「長崎の鐘」随分前に読み涙しました。幼子を残して
お亡くなりになった、永井博士の無念さを思いました。こんな小さいお家だったんですね。
吉永小百合さんの朗読も心にしみました。
浦上天主堂の被爆したマリア様のお顔が、目をつぶっても浮かんできます。
毎年8月になると集中的に戦争の愚かさ、恐さ、平和のあり難さが放映されますが、夏休みの子供たち、若者たちがどれだけ見てくれているでしょうか?
著書「長崎の鐘」は原爆廃止を訴えるシンボルになりました。
その中で余りにも粗末な如巳堂が出てきましたね。永井博士のお姿は何回も新聞紙上で拝見しましたが、まさかあんなに狭いところだとは思いませんでした。43歳なんてお若い歳でしたか。あんなに大きなメッセージを残して逝かれた方なので、もっとお歳かと思っていました。二人のお子さんを残して・・・・・さぞ生きたい!と思われていたことでしょうね。 合掌