北信濃の・・・信濃町・・・むかしの信濃国柏原・・・俳人一茶のふるさとで終焉の地・・・
駐車場があり横手から、一茶寓居に入ることができます。
一茶・・・信濃国柏原村に生まれる(1763年)。15歳で江戸に出て俳人として漂白の人生を過ごし、50歳で帰郷、家屋敷、田畑を弟と分け、間口九間の家を弟と二分して暮らす。52歳で結婚、4人の子供をもうけるが次々に先立たれ妻も他界。柏原宿の大火で母屋が全焼、一茶は晩年を土蔵で暮らし65歳で没したという(1827年)。母屋に見えるのは大火後に建てた弟の家(四間半、奥行四間)。(敷地内の説明板により)。
むかしの屋敷の敷地と思われる場所に句碑があります。漂白の旅から帰郷した一茶が感懐をこめて詠んだ句といわれます。
※北信五岳・・・斑尾山、飯縄山、戸隠山、妙湖山・・・北信濃之人たちが朝夕見ている山です。
※北国街道・・・中山道追分宿から越後直江津の北陸道まで、幕府管理の脇街道(二級国道みたいなの)。善光寺道ともいわれる。参勤交替では加賀前田藩が大行列で通った。
※柏原宿・・・北国街道・・・善光寺宿から越後寄りに・・・牟礼宿、古間・柏原・宿(合宿という)、野尻宿と続いて国境を越える。
※柏原・・・現在の信濃町です。信濃町は柏原村(信濃村)、古間村、信濃尻村が合併して信濃町になりました。
信濃という言葉は律令時代からの国名です。へんですね・・・本来は北信濃から南信濃に至る大きな地域の行政名であり住民の心のよりどころというか・・・国名というのは住民の誇りだったのです。そういう国名を一部の自治体が早いもの勝ちというように使うのはどうも納得がいきません。これは信濃町に限らず全国でよく見る実態です。
信州上田の・・・六文銭の写真帳・・・
※ブログ「比企の丘から」のギャラリー公開。
今回は「上田六文銭」さんの画像提供です。
画像はわたくし的哲学で選定したものです。
※ブログ「比企の丘から」のギャラリー公開。
今回は「上田六文銭」さんの画像提供です。
画像はわたくし的哲学で選定したものです。
柏原あたりから見た黒姫山(2053m)。北信五岳の一つ。信濃富士とも。
国道18号線(北国街道、善光寺道)、旧柏原宿、道路際に俳人一茶旧宅(写真は弟宅ですが)。
奥に見える土蔵が一茶が最後に過ごしたという仮住い。
国道18号線(北国街道、善光寺道)、旧柏原宿、道路際に俳人一茶旧宅(写真は弟宅ですが)。
奥に見える土蔵が一茶が最後に過ごしたという仮住い。
駐車場があり横手から、一茶寓居に入ることができます。
一茶・・・信濃国柏原村に生まれる(1763年)。15歳で江戸に出て俳人として漂白の人生を過ごし、50歳で帰郷、家屋敷、田畑を弟と分け、間口九間の家を弟と二分して暮らす。52歳で結婚、4人の子供をもうけるが次々に先立たれ妻も他界。柏原宿の大火で母屋が全焼、一茶は晩年を土蔵で暮らし65歳で没したという(1827年)。母屋に見えるのは大火後に建てた弟の家(四間半、奥行四間)。(敷地内の説明板により)。
むかしの屋敷の敷地と思われる場所に句碑があります。漂白の旅から帰郷した一茶が感懐をこめて詠んだ句といわれます。
門の木も先つゝがなし夕涼
大火の後、一茶が過ごした土蔵(間口三間半、奥行二間)。
柏原から見る妙高山(2453m)。北信五岳の一つ・・・越後富士とも呼ばれる。妙高山の由来は越後の中山・・・名香山・・・妙高山・・・中山の当て字が変化した。
柏原から見る妙高山(2453m)。北信五岳の一つ・・・越後富士とも呼ばれる。妙高山の由来は越後の中山・・・名香山・・・妙高山・・・中山の当て字が変化した。
(撮影は5月31日、カメラはLUMIX DMC-FZ28)
※北信五岳・・・斑尾山、飯縄山、戸隠山、妙湖山・・・北信濃之人たちが朝夕見ている山です。
※北国街道・・・中山道追分宿から越後直江津の北陸道まで、幕府管理の脇街道(二級国道みたいなの)。善光寺道ともいわれる。参勤交替では加賀前田藩が大行列で通った。
※柏原宿・・・北国街道・・・善光寺宿から越後寄りに・・・牟礼宿、古間・柏原・宿(合宿という)、野尻宿と続いて国境を越える。
※柏原・・・現在の信濃町です。信濃町は柏原村(信濃村)、古間村、信濃尻村が合併して信濃町になりました。
信濃という言葉は律令時代からの国名です。へんですね・・・本来は北信濃から南信濃に至る大きな地域の行政名であり住民の心のよりどころというか・・・国名というのは住民の誇りだったのです。そういう国名を一部の自治体が早いもの勝ちというように使うのはどうも納得がいきません。これは信濃町に限らず全国でよく見る実態です。
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