8月8日、天皇がビデオ・メッセージをつうじて「象徴としての務め」についての気持ちを表明しました。
年齢・体調を考慮しての「生前退位の想い」です。長文のためここに掲載することは割愛しますが推敲を重ねた文章のように思われます。
国民の象徴という立場、皇室典範の改正・・・いろいろ問題があるようですが、一刻も早く天皇の思いを実現してあげたい。
普通の人なら60歳定年退職、年金生活、それが83歳の現在公人としては現役です。
戦なき
世を歩みきて 思い出づ
難き日々を 生きし人々
ここに昭和天皇が敗戦の年の1945年9月9日に、当時11歳であった皇太子(現天皇)に送った手紙を紹介します。
「手紙を有難う しっかりした精神を持って 元気で居ることを聞いて 喜んで居ます
国家は多事であるが 私は元気で居るから安心してください 今度のような決心をしなければならない事情を早く話せば良かったけれど 先生とあまりにもちがったことをいうことになるので ひかえて居ったことを ゆるしてくれ 敗因について一言いわしてくれ
我が国人が あまりに皇国を信じ過ぎて 英米をあなどったことである
我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである
明治天皇の時には 山県 大山 山本等の如き陸海軍の名将があったが 今度の時はあたかも第一次大戦の独国の如く 軍人がバッコして大局を考えず 進むを知って退くことを知らなかったからです
戦争をつづければ 三種神器を守ることも出来ず 国民を殺さなければならなくなったので 涙をのんで 国民の種をのこすべくつとめたのである
穂積太夫は常識の高い人であるから わからない所あったら きいてくれ
寒くなるから 心体を大切に勉強なさい」
※この手紙はジャーナリストであり今上天皇の学友である橋本明が発掘したもの。
※この手紙は天皇の皇太子に対する私信であり、公人としてではなく私人として本音を語っていることに瞠目。苦悩が滲み出ています。
※穂積太夫・・穂積重遠、東京帝大法学部教授、法学部長、最高裁判事、1945年8月7日から1949年2月まで東宮(明仁皇太子)の東宮太夫兼侍従長、ご学問所総裁、東宮教育係常任参与、父は穂積陳重、明治・大正時代の法学の先駆者。日本最初の法学博士、東京帝大法学部長、母は渋沢栄一の娘歌子。
年齢・体調を考慮しての「生前退位の想い」です。長文のためここに掲載することは割愛しますが推敲を重ねた文章のように思われます。
国民の象徴という立場、皇室典範の改正・・・いろいろ問題があるようですが、一刻も早く天皇の思いを実現してあげたい。
普通の人なら60歳定年退職、年金生活、それが83歳の現在公人としては現役です。
戦なき
世を歩みきて 思い出づ
難き日々を 生きし人々
※天皇が皇太子時代に作られた歌だそうです。
この人、明仁殿下は「いくさ世」から「いくさ無き」時代を過ごした世代の一人・・・「戦争の不条理」を身をもって体験している、ごく普通の人のように思えてなりません。ここに昭和天皇が敗戦の年の1945年9月9日に、当時11歳であった皇太子(現天皇)に送った手紙を紹介します。
・・・半藤一利著「あの戦争と日本人」(文芸春秋 2010年刊)より。
「手紙を有難う しっかりした精神を持って 元気で居ることを聞いて 喜んで居ます
国家は多事であるが 私は元気で居るから安心してください 今度のような決心をしなければならない事情を早く話せば良かったけれど 先生とあまりにもちがったことをいうことになるので ひかえて居ったことを ゆるしてくれ 敗因について一言いわしてくれ
我が国人が あまりに皇国を信じ過ぎて 英米をあなどったことである
我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである
明治天皇の時には 山県 大山 山本等の如き陸海軍の名将があったが 今度の時はあたかも第一次大戦の独国の如く 軍人がバッコして大局を考えず 進むを知って退くことを知らなかったからです
戦争をつづければ 三種神器を守ることも出来ず 国民を殺さなければならなくなったので 涙をのんで 国民の種をのこすべくつとめたのである
穂積太夫は常識の高い人であるから わからない所あったら きいてくれ
寒くなるから 心体を大切に勉強なさい」
※この手紙はジャーナリストであり今上天皇の学友である橋本明が発掘したもの。
※この手紙は天皇の皇太子に対する私信であり、公人としてではなく私人として本音を語っていることに瞠目。苦悩が滲み出ています。
※穂積太夫・・穂積重遠、東京帝大法学部教授、法学部長、最高裁判事、1945年8月7日から1949年2月まで東宮(明仁皇太子)の東宮太夫兼侍従長、ご学問所総裁、東宮教育係常任参与、父は穂積陳重、明治・大正時代の法学の先駆者。日本最初の法学博士、東京帝大法学部長、母は渋沢栄一の娘歌子。
そのお気持ちに沿わない今の状況をも憂いて、今回のお言葉になったのだと思います。
お立場から、ごくあたりまえの人間らしい生活が許されないことは、時にお辛いのだろうとお察ししております。
昭和天皇から11歳の皇太子への手紙、私信ですから思っていることを書いているようです。皇太子はそのころ疎開中。戦後の混乱期もつぶさに見ています。
もう明仁殿下なりにやることはやられました。
沖縄児童疎開船沈没の慰霊。パラオ島の戦没者の慰霊、広島、長崎への訪問・・・
平和へのメッセージです。
国民はどう受け止めているのでしょうか。