11月29日、信濃の旅、日帰りの帰途、国道18号線「馬瀬口交叉点」を山側に曲がり最初の交叉点を右に曲がるとこんな街並みが見えてきます。旧北国街道(県道134号線)、中山道追分宿から北国街道小諸宿のの中間、一里塚があり、主に輸送用の馬、牛(中牛馬)とそれに携わる馬方などが休息する馬宿、牛宿がありました。旅人も休息できる宿でもあったようです、このような宿駅制度の公認宿ではない宿を「間の宿」と呼びます。
※馬瀬口(ませぐち)‥・律令時代の塩野牧のあったあたり。ませぐちは牧の出入り口。同じ表音で間瀬口、真瀬口、柵口という地名もあり、近くに柵口(ませぐち)神社があります。
※中馬・中牛・・・むかしの輸送は舟運の無いところでは駅馬によって中継されながら運ばれていくのですが、山深い信州では駅馬を使わない個人営業の馬方によって中継なしに運ばれていくという運送方法が多かったようです。これを中馬(中牛)といい、馬方(牛方)は馬士(牛士)と呼ばれ、この中馬牛・中馬牛士を泊める宿を馬宿、牛宿といいました。ひとりの馬士で5頭の馬を牽いていたといいますから普通の旅籠では対応できず特殊な宿になります。
※間の宿(あいのしゅく)・・・江戸時代においては宿は公認制、駅馬を置き。宿役人、宿問屋がありました。中馬は牛馬の休息させるところが必要ですからそれなりの設備のあるところを求めます。また一般の旅人も宿の収容能力がオーバーしたとき代替の宿を求める、こうしたことから非公認の宿場ができるようになりました。こうした宿を間の宿と呼びます。公認宿と非公認宿の間で、駅馬(公認運送業者)と中馬(非公認運送業者)の間で訴訟事もあったようですし了解ごともあったようです。
何となくむかしの街道筋を思わせる雰囲気があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/2b/bbf6dcb23e1b8b8c724894d693c5c814.jpg)
1878年、明治天皇が東海道、北陸道を巡幸されたときご休息されたという高山家です。御代田町指定史跡。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/e4/618d8707e6051cbb21d25e7b2da632ff.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/d8/d552e72125756c9e48fb1d7a81d07d84.jpg)
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1878年、明治天皇が東海道、北陸道を巡幸されたときご休息されたという高山家です。御代田町指定史跡。
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※馬瀬口(ませぐち)‥・律令時代の塩野牧のあったあたり。ませぐちは牧の出入り口。同じ表音で間瀬口、真瀬口、柵口という地名もあり、近くに柵口(ませぐち)神社があります。
※中馬・中牛・・・むかしの輸送は舟運の無いところでは駅馬によって中継されながら運ばれていくのですが、山深い信州では駅馬を使わない個人営業の馬方によって中継なしに運ばれていくという運送方法が多かったようです。これを中馬(中牛)といい、馬方(牛方)は馬士(牛士)と呼ばれ、この中馬牛・中馬牛士を泊める宿を馬宿、牛宿といいました。ひとりの馬士で5頭の馬を牽いていたといいますから普通の旅籠では対応できず特殊な宿になります。
※間の宿(あいのしゅく)・・・江戸時代においては宿は公認制、駅馬を置き。宿役人、宿問屋がありました。中馬は牛馬の休息させるところが必要ですからそれなりの設備のあるところを求めます。また一般の旅人も宿の収容能力がオーバーしたとき代替の宿を求める、こうしたことから非公認の宿場ができるようになりました。こうした宿を間の宿と呼びます。公認宿と非公認宿の間で、駅馬(公認運送業者)と中馬(非公認運送業者)の間で訴訟事もあったようですし了解ごともあったようです。
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