1945年9月3日、前日の9月2日に日本国がアメリカ戦艦ミズーリ号で連合国に対し太平洋戦争の無条件降伏の調印を行ったのをうけて、日本銀行総裁澁澤敬三は日銀5階の集会室に全職員を集めてこう訓示した。
・・・今この至難というべき業を始めるに当たり、先ず我々は過去に対し熾烈なる反省を加えねばなりません。本行総裁として私自身又大きな罪を犯して居ります。私情から申せば斯かる事態にもかかわらず、引続きこの責務を続けることは堪え難き事であり、事実、君の為に死んで行った兄弟達や、忠実に奉公した銃後の兄弟達に対する冒涜であると感じます。
この意味で私自身を含めて指導者と目すべき各界の幹部は、悉く万死に値する罪びとであったと云わねばなりませぬ。今我々が先ず為さねばならぬ事は只一つ過去の罪業をはっきりと正視して、今後の日本の発展を齎すべき基礎を打ち建てる、それのみであります。
澁澤敬三・・・(1896年~1963年)財界人、民俗学者。日本の近代資本主義の父、澁澤栄一の孫(後継者としては2代目)。偉大なる祖父の子、敬三の父、篤二が放蕩三昧に耽ったため廃嫡となり孫の敬三が澁澤家の後継者に。第一銀行副頭取から日銀副総裁。
1944年3月日銀総裁に。1945年8月の太平洋戦争の敗戦まで、軍の言うままに赤字国債を引き受け、日本銀行券の貸し出しの増加という形で無制限に軍の資金調達を続けた。敬三の日銀入りはウムとも言わせぬ軍部からの命令だったという。誰がなっても赤字国債を乱発するしかなかったでしょう。
上記の言葉は痛切な悔恨の言葉とも聞こえます。
10月9日、日銀総裁辞任、大蔵大臣に、預金封鎖、新円切り替え、財産税を実施。任期は1946年5月までの半年あまり。まるで自分を罰するかのごとく財産税導入では自ら祖父栄一が残した大邸宅を処分、財閥解体では自らの澁澤財閥を解体、見事に没落しました。
澁澤敬三・・・よく知らなかった人です。この人を知ったのは長野県上田市出身の出版人小宮山量平さんの「千曲川 四部作」(理論社1997年刊)を読んでから。小宮山量平(1916年~)小卒から大蔵高商、東京商科大学、兵役を経て理論社を創業、今江祥智、灰谷健次郎らの児童文学者を世に出し倉本聡のシナリオも多く出版。「千曲川 四部作」では小卒で第一銀行副頭取室野に給仕なり澁澤敬三に仕えた当事のことが詳細に書かれています。
民俗学者としての澁澤敬三、若いとき柳田国男と出会い深く影響を受けその道に進もうと考えるが祖父栄一の懇願で財界人の道に。個人的にも優れた研究があるが、私財を使ってアチック・ミューゼアム、日本常民文化研究所を開き研究者を援助した。旅する巨人・・・民族学者宮本常一は澁澤邸の居候。影響を受けた人は今西錦司、木原均、西堀栄三郎、伊谷純一郎、梅棹忠夫、中根千枝、中西悟堂、谷川徹三、網野善彦・・・民俗学のみならず自然、社会、人文学者ら・・・枚挙にいとまがありません。
柳田国男が民俗学の父なら澁澤敬三は民俗学の母といってもいいような気がします。
☆アチック・ミューゼアム・ソサエティー(屋根裏博物研究会)・・・澁澤邸に設けられた研究者たちの溜まり場。
☆日本常民文化研究所・・・アチックが戦争中に改称、戦後に財団に、1982年神奈川大学付属機関に。
※冒頭の日銀総裁としての訓示は佐野真一「澁澤家三代」(文春新書1998年刊)から。
・・・今この至難というべき業を始めるに当たり、先ず我々は過去に対し熾烈なる反省を加えねばなりません。本行総裁として私自身又大きな罪を犯して居ります。私情から申せば斯かる事態にもかかわらず、引続きこの責務を続けることは堪え難き事であり、事実、君の為に死んで行った兄弟達や、忠実に奉公した銃後の兄弟達に対する冒涜であると感じます。
この意味で私自身を含めて指導者と目すべき各界の幹部は、悉く万死に値する罪びとであったと云わねばなりませぬ。今我々が先ず為さねばならぬ事は只一つ過去の罪業をはっきりと正視して、今後の日本の発展を齎すべき基礎を打ち建てる、それのみであります。
澁澤敬三・・・(1896年~1963年)財界人、民俗学者。日本の近代資本主義の父、澁澤栄一の孫(後継者としては2代目)。偉大なる祖父の子、敬三の父、篤二が放蕩三昧に耽ったため廃嫡となり孫の敬三が澁澤家の後継者に。第一銀行副頭取から日銀副総裁。
1944年3月日銀総裁に。1945年8月の太平洋戦争の敗戦まで、軍の言うままに赤字国債を引き受け、日本銀行券の貸し出しの増加という形で無制限に軍の資金調達を続けた。敬三の日銀入りはウムとも言わせぬ軍部からの命令だったという。誰がなっても赤字国債を乱発するしかなかったでしょう。
上記の言葉は痛切な悔恨の言葉とも聞こえます。
10月9日、日銀総裁辞任、大蔵大臣に、預金封鎖、新円切り替え、財産税を実施。任期は1946年5月までの半年あまり。まるで自分を罰するかのごとく財産税導入では自ら祖父栄一が残した大邸宅を処分、財閥解体では自らの澁澤財閥を解体、見事に没落しました。
澁澤敬三・・・よく知らなかった人です。この人を知ったのは長野県上田市出身の出版人小宮山量平さんの「千曲川 四部作」(理論社1997年刊)を読んでから。小宮山量平(1916年~)小卒から大蔵高商、東京商科大学、兵役を経て理論社を創業、今江祥智、灰谷健次郎らの児童文学者を世に出し倉本聡のシナリオも多く出版。「千曲川 四部作」では小卒で第一銀行副頭取室野に給仕なり澁澤敬三に仕えた当事のことが詳細に書かれています。
民俗学者としての澁澤敬三、若いとき柳田国男と出会い深く影響を受けその道に進もうと考えるが祖父栄一の懇願で財界人の道に。個人的にも優れた研究があるが、私財を使ってアチック・ミューゼアム、日本常民文化研究所を開き研究者を援助した。旅する巨人・・・民族学者宮本常一は澁澤邸の居候。影響を受けた人は今西錦司、木原均、西堀栄三郎、伊谷純一郎、梅棹忠夫、中根千枝、中西悟堂、谷川徹三、網野善彦・・・民俗学のみならず自然、社会、人文学者ら・・・枚挙にいとまがありません。
柳田国男が民俗学の父なら澁澤敬三は民俗学の母といってもいいような気がします。
☆アチック・ミューゼアム・ソサエティー(屋根裏博物研究会)・・・澁澤邸に設けられた研究者たちの溜まり場。
☆日本常民文化研究所・・・アチックが戦争中に改称、戦後に財団に、1982年神奈川大学付属機関に。
※冒頭の日銀総裁としての訓示は佐野真一「澁澤家三代」(文春新書1998年刊)から。
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