信州上田の・・・六文銭の写真帳
2月5日・・・冬の信濃路・・・軽井沢町追分・・・旧中山道追分宿・・・国道18号線・・・軽井沢方面から仮宿、追分と進むと国道から右に分かれる旧道が・・・旧中山道追分宿のおもかげの残る街並みに入ります。
中山道追分宿・・・江戸時代の幕府直轄五街道の宿場、軽井沢三宿(軽井沢、沓掛、追分)の一つ。中山道、北国街道の分岐点。元禄期の記録によれば旅籠71軒、茶屋18軒、商店28軒、飯盛り女200~270人の大きな宿場だったといいいます。
1㎞たらずの旧道の中央のあたり、表札のみ残る旧本陣、旧問屋場の脇にあったという高札場があります。
旧本陣跡(土屋家)・・・遺構は何も残っていません
高札場・・・1983年復元、↓の高札は複製(実物は郷土資料館に)。
正徳元年(1711年)のお触書・・・德川六代、七代将軍の時代、新井白石が「正徳の冶」という政策を行った時代。
戊辰(1868年)のお触書・・・明治維新官軍の鎮撫府(治安維持の警察のようなもの)の発令したもの。
明治天皇行在所碑・・・明治11年(1878年)に明治天皇が北陸地方行幸の際、旧本陣土屋家を行在所(あんざいしょ)とした。
高札場・・・1983年復元、↓の高札は複製(実物は郷土資料館に)。
正徳元年(1711年)のお触書・・・德川六代、七代将軍の時代、新井白石が「正徳の冶」という政策を行った時代。
戊辰(1868年)のお触書・・・明治維新官軍の鎮撫府(治安維持の警察のようなもの)の発令したもの。
明治天皇行在所碑・・・明治11年(1878年)に明治天皇が北陸地方行幸の際、旧本陣土屋家を行在所(あんざいしょ)とした。
※撮影日は2月5日。
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