Toshiが行く

日記や趣味、エッセイなどで描く日々

便利さの代償 

2021年10月14日 06時00分00秒 | エッセイ


    電話がうるさく鳴っている。
    妻に出るかどうか目配せすると、
    「何かのセールスでしょう。放っておきましょう」と言う。
    やがて、プツリと鳴りやんだ。
    確かに、家の固定電話にかかるものは、
    あれやこれやの勧誘話がほとんどだ。
    たまに、怪しげな話も紛れ込んでいたりするので、
    それもあり用心が先立ち受話器を取らなくなる。


今は一人一台と言われる携帯電話、あるいはスマホの時代だ。
知人、友人、家族からの電話は、ほぼこれである。
あるいはLINEでパッパッと用件を伝え合う。
我が家において、固定電話の唯一の出番はFAXだが、
それもほとんどが、パソコン、スマホのメールに取って代わられている。
おそらく多くの家庭が似たような状況のようで、
「家に固定電話は不要だ」と言う人たちが
随分多くなっているのも当然な話だろう。 

       

    だが、何事においても便利さには必ず代償が伴うものだ。
    さる懇意にしている経営者の話だが、
    社内で若い社員と接していて、
    最近こんなことを強く感じるという。


「今の若い人たちは、固定電話を使ったことがほとんどないはずです。
この固定電話での相手は、たいてい見知らぬ人ですよね。
それだと、自然と敬語を交えて会話することになります。
そこで、意識しないまま社会における言葉遣い、
マナーを学ぶことになるわけです。
でも、今は携帯電話の時代ですからね。
相手は、主に友人、知人、家族といった、
いわば気安い人たちでしょう。敬語を使う必要もない。
だから、対等の相手として馴れ馴れしく話す、
つまり、ため口になってしまうんですね」


    「就職し、会社の上司、あるいは取引先と、
    そんなため口でやり取りするとしたらどうでしょうか。
    受け入れてもらえるはずがありませんよね。
    本人は、『間違ったことは言っていない。
    なのに、なぜか分かってもらえない』とジレンマに陥り、
    それが悩みとなっているケースが案外と多いんですよ」

         

便利になることは、基本的にはよいことである。
だが、見えないところでその分のマイナスも
潜んでいることを承知しておくべきだということだろう。


    パソコンでこの一文を書いている。
    手書きすることはほとんどなくなった。
    そのせいか以前は間違いなく書けていた漢字が、
    正確には書けなくなってきた。
    これもその類の話か。



珍客来訪

2021年10月12日 14時49分31秒 | エッセイ


「あら、アマガエルさん、突然のお越し。いかがされました」
  
  「いや、ベランダの戸が少し開いていたものだから、
   ちょいと失礼させてもらいましたよ。
   お断りもせず、いきなりで誠に申し訳ない」

「気を付けて下さいね。フローリングの床は滑りますよ。
そんなにピョンピョン跳ねたら危ないですからね。
ほら、言わないこっちゃない。危ない、危ない。
それにしても、少しばかり驚きました。
それで、何かご用?」

            

   「いや、格別の用はないのだが、部屋の中から
   楽しそうな笑い声がしてたものだから……」

「ああ、今孫とLINEしていたのですよ。この子が70過ぎの、
このお婆ちゃんとLINEで遊んでくれるのですよ」
  
   「ほお、お幾つ?」

「大学4年生の男の子なんですよ」
   
   「その年齢の男の子が、お婆ちゃんの相手か。感心な子ですな」

「ちょっと失礼。アマガエルさんがお見えになったことをLINEしなくちゃ」
   
   「どうぞ、どうぞ。お構いなく」

「さっそく返信きました。あら、これ何」
   
   「何と?」

「『絶滅完了』ですって。意味不明だわ」
   
   「確かに、意味不明ですな」

「こんな子なんですよ」
   
   「確かに、面白そうなお孫さんだ」

「あらっ失礼しました。まだお茶、いやお水も出さずに」
   
   「いやいや、お構いなく」

「用意します間、ハナアナナスの花が咲いている鉢でお休みになっていてください」
   
   「心地良さそうですね」

「私の手にお乗りください。あそこまでお連れします」
   
   「そりゃ、ありがたい」



「では、お体に水をかけますよ。いかがですか」
   
   「結構、結構。良いあんばいです。
   ところで、厚かましいことながら
   今晩ここに泊めていただくわけにはいきませんかね」

「どうぞ、どうぞ、構いません。ゆっくりお休みください。
では電気消しますよ」

<翌朝>
「あら、お帰りになっているわ。
おかしいわね。戸を開けていた記憶はないのだけど……。
ベランダでゲロ、ゲロ泣いておられる。まあ、いいか。
お気に召したら、またのお越しを……」



あなたを愛していいですか

2021年10月10日 13時07分35秒 | エッセイ



      「あなたを愛していいですか」
      「すべてを奪っていいですか」
      79歳の爺さんが、照れもせず迫る。
      我ながら少々、いや相当気色悪い。
      いや、いい。
      ここはスタジオ、「あなた」がいるわけではない。
      どこの誰か知らない「あなた」を想像しながら、
      布施明のごとく腹の底から声を上げる。
      それだけで満足なのだ。


      やはり、歌うのが好きなんだな。
      自分でもそう思う。
      昨年2月以来、休んでいたボーカルのレッスンを再開した。
      厳密に言えば、7月初めに再開していたのだが、
      運悪く再びコロナの感染拡大により
      再度の自粛となっていたのだ。
      ようやく緊急事態宣言が解けたのをみて、
      再々度の再開となった。

        

      この日、歌ったのはさだまさしの「無縁坂」、
      それに「僕に任せてください」、
      浜田省吾の「傷心」、これらは以前から歌っていたものだ。
      これに新しく、布施明の「姉妹坂」を練習することにした。
      なぜ、この歌を選んだのか。
      格別、歌詞やメロディーが気に入ったからではない。
      言うように、79歳の爺さんが歌うには
      相当照れくさい歌詞だ。
      なぜかと言えば、この歌は腹の底から声を出せることだ。
      大きな声で歌えることだ。
      コロナをはじめ、このところの鬱々たる気分を
      全部吐き出してやる。

      「姉妹坂」─初めて歌う。
      それも長年レッスンしていただいている
      大塚先生のギター一本の演奏でだ。
      あちこちと間違ってしまう。
      構わない。サビのところ
      「あなたを愛していいですか」
      「すべてを奪っていいですか」
      ここさえ声を出せればよい。
      臆面もなく声を張り上げた。
      よし、よし。これでよい。
      多少なりと気分は晴れた。

      高まった気分を鎮めるように、
      最後はサイモン&ガーファンクルの
      「Sound of Silence」だ。
      先生と気持ちよくハモった。
      やっぱり歌っていいな!





お気の毒様

2021年10月02日 15時27分34秒 | エッセイ


     写真撮影愛好家の集まりに出かける妻を
     最寄りの地下鉄駅まで送り、
     土曜日の決まり事としている掃除機をかけ、
     風呂場を洗う。
     そして、一人ウオーキングである。
     今朝も川沿いを歩く。
     日差しが強く、暑そうだが構うものか。
     いつもは40分程度だが、今日はもう少し伸ばそう。



     雲一つない、まさに快晴。
     10時少し前だが、やはり背を射す陽は強い。
     ただ、川面の風が前から柔らかく当たり、
     背の暑さを半減させるのか、それほどの暑さを感じない。
     日陰に入ると、むしろ涼しいなと思えるほどだ。
     午後には季節外れの30度ほどにもなるとの予報だが、
     やはり秋なのである。


     歩きながら、ブログは何を書こうかと考える。
     ウオーキングはしばしば良いテーマを与えてくれる。
     青空を見、川のさざ波を眺め、鳥たちの様子に目を凝らす。


     
     あれっ、どうしたのだ──近くの小さい公園の木々。
     見事なまでに幹が、枝が切り払われている。
     何の木は知らないが、年中茂っていたから
     常緑樹であったのは間違いない。
     その枝々も豊かだった。
     そうとあってか、サギやカラスなど鳥たちのねぐら、
     あるいはひとときの安らぎの場となっていた。
     下を通る道には、鳥たちが落とす糞の痕跡が点々と描かれ、
     木の幹には「頭上に注意」の張り紙があった。


     鳥たちよ、お気の毒様。
     これほど枝を切り払われたのでは
     ねぐらなんてとても出来ないだろう。
     別に新しい木を探すのだね。


     人を恨まないでくれ。
     木々が茂り、近くの家々への日差しを遮り、
     日の当たらない陰鬱さを解消しようと
     いうことだったのかもしれない。
     また、それは木々の養生のためだったのかも……。

     等々、勝手な想像をしながら歩く。
     そして、「お気の毒様」とつぶやくのである。
     今日は1時間歩いた。