キャッチ・コピーによれば、3つのこだわりがあるそうである。(1)地産地消、現在は、長野県のみで、栽培している。(2)雨量が少なく、水はけも良い土質は、ぶどう栽培に適した地域である。(3)皮には、目に良いと言われているアントシアニンや、活性酵素から身体を守ると言われているポリフェノールが、含まれている。「巨峰」と「リザマート」を交配した種なしぶどうで、皮ごと食べられるそうである。確かに、袋掛けして袋を一部、開いて、そのまま、パックされていて、恐る恐る一粒を、つまんで、歯で、噛んでみる。成る程、種もないし、皮も、口の中に、残らずたべられるし、ポリフェノールの赤ワイン風の何とも言われぬ渋みと甘味とが、口の中に、芳醇に、拡がる。これは、便利な究極の食用「葡萄」である。昔、アメリカで、皮毎、葡萄を食べられると、勧められて、一口食べたら、ガリッと、種が、口の中で、弾けたのを想い出した。それからは、ずっと、葡萄の皮を食べることはなかった。実に、様々な品種改良が、進行中であることを思い知らされた。桃でも、「蟠桃」(山片蟠桃ではない。桃である)という平べったい桃と「白桃」を掛け合わせて、まるで、てっぺんから、何かで、押しつけたように、見事に、真ん中が窪んだ、平べったい桃である。ブランドも、「桃観音」と名付けられて、行きつけの産直販売所で、販売されていた。こちらは、6個入り箱で、若干、高額だったので、大蔵大臣の認可が、得られなかったので、次回のお楽しみに廻すことにした。新聞の記事によれば、それでも、大変人気があるそうで、40年にも亘る試行錯誤の栽培に、励んだ生産者には、本当に、頭が下がる。
散歩途中に、松ぼっくりが、良く、芯の部分だけを残して、地上に、転がっているのをよく見かける。初めは、車の車輪に、轢かれて、砕け散ったのではないかと、思っていたが、よく観察すると、確かに、ご丁寧に、芯の固い部分だけが、どういう訳か、残っている。ある人に、それは、リスが、かじった残り滓ですよ、と説明された。数年前の夏、電線の上を、しっぽで、バランスをとりながら、軽業師のように、ツツツーと渡り終えて、赤松の梢に、飛び移ったかと思えば、スルスルッと、太い幹を駆け上り、姿を消してしまった。両耳の毛が、後ろに、長く延びていたのを、今でも、覚えている。ベランダや、庭先で、松ぼっくりの残滓を見る度に、姿は、見かけないが、元気に、きっと、梢を駆け回っているのだろうかと、想いを巡らせる。ドングリの実を、どこかに、貯蔵する忙しい季節も、程なく、やってくる今日この頃である。
明け方のことだろうか、それとも、深夜、真夜中のことだろうか、夢うつつの中で、何時頃かは、よく思い出せないが、低く、野太い、その声は、明らかに、「ホッホ、ホー」と何度も、何度も、誰かに、呼びかけているように、闇の中で、辺りに響き渡るように、こだましていた。何年か前の冬、いつもの松林を、老犬と散歩していた時、後ろから、何か、大きな影が、頭上を、かすめるように、飛び去って行くので、思わず、首をすくめてしまった。その影の飛び去って行く方向を視ると、1m程もあろうかと思われる両翼を大きく拡げて、白いフクロウと思しき鳥が、赤松の樹の間を、見事に、くぐり抜けて、低空で、滑空していった。開発条件の中に、ここでは、自然保護樹林を設ける約束で、四半世紀余り経過した今でも、保護樹林は、立派に、その機能を維持しているようである。トカゲや、蛙、果ては、ハツカネズミなどの小動物が、豊富に、生息しているので、きっと、森のどこかで、ひっそりと、生き抜いてこれたのであろう。これからも、ずっと、「森の守り神」として、しっかりと、生き延びて貰いたいものである。そう願いつつ、夢着心地の中で、又、寝入ってしまった。
すすきの穂が、開き始めてきた。萩の花も、何種類か、花がほころび始めた。見知らぬ白い花が、又、今年も、咲き始める。随分昔に、中国の景徳鎮で、これでもかという程、薄い肉厚のミニチュア花瓶を、何種類かのセットで、購入してきたが、時々、花瓶として、食卓のテーブルに、飾りとして、利用していた。穂が開き始めたすすきと2種類の萩の花と、適当に、庭先から、切り出して、花器に、無手勝流に、アレンジしてみた。もう一つの花瓶は、何とも言えない陶器の表面の色合いが、土のような石のような風合いだったので、魅せられて、購入したものであるが、どこだったのかは、覚えていない。近年、栗の樹が、決まって、栗の実を付けるようになった。今年は、初めて、その実がなっているときに収穫できた。お月見に、お供えして、収穫出来たことに、感謝でもしてみようか(?)、月も、ようやく、松の木の梢の陰から、顔を出してきた。澄んだ秋の空気の夜空に、ぽっかりと、満月が、まばゆいばかりの黄金色に、輝いている。明日、12日は、旧暦9月15日に当たる。
散歩をしていて、綺麗な薄緑色とブルーを混ぜたような大きな羽をもつ蛾が、地面に、落ちているのを見たことがあったが、(「おおみずあお」という蛾だそうである。)蝶蝶に較べると、蛾は、余り、心地良いモノではない。小諸では、昆虫図鑑が、大活躍である。地上から、数センチのところに、何か、茶色いキノコのようなものがあったので、何であろうかと思い、地面に、顔をくっつけるように、よく観察すると、体長10センチ以上の大きな蛾で、羽に、大きな丸の文様がくっきりと、透けて見えた。鳥に、食べられない為の文様なのか?腹の方から、どうやら、見ていたので、今度は、静かに、後ろに廻って、背中越しに、もう一度、よく観察してみる。まるで、光が、その茶色の羽を透かして、黄金色に、輝いている。羽化したばかりなのであろうか、或いは、羽が伸びて、血液が羽にやっと、廻った直後だったのであろうか、図鑑によれば、クヌギや林檎の葉を、食用とする蛾のようである。確かに、近くには、林檎果樹園もあり、ドングリの樹も多いせいか、、、、。昔は、白熱電灯に、近寄ってきたり、「誘蛾灯」という言葉もあったが、都会では、せいぜい、街路灯に、群がる程度で、その姿の「美」(?)を観賞する暇も無ければ、気持ち悪がられるのが、関の山であるが、、、、、。確かに、視ようによっては、美しいと感じられるものであることを発見した。
東日本大震災の復興で、個人や会社の2重ローンが、大きな問題となっているが、中小企業は、個人が、初めて、起業するときに、取引先銀行が、真っ先に、取り上げるのが、融資の担保と見返りの個人保証契約である。海外との輸入取引では、信用状(Letter of Credit)の開設には、当然、大きな額のそれこそ、月額3千万円の取引が、見込まれれば、当然支払先との売掛金の回収条件次第では、3ヶ月程度の輸入ユーザンスが、必要となり、総額では、9千万円程度、ざっくり、最低でも、1億円程度の資金を、融資して貰わなければ、小さな資本金それ自体では、商売自身が、成り立たないことになる。そんな時に、信用保証協会の無担保融資で、銀行は、最低、3千万円程度から、銀行のリスクをヘッジして、紹介するものであるが、この融資には、外貨為替取引手数料を、稼げると同時に、複雑な「超長期先物為替予約デリバティブ」なるものが、セットとされており、まるで、その血を吸い取るのを当たり前のようにしている寄生虫のように、パッケージ化されているのである。今日のような「超円高」の時には、その期日が、到来したときには、5年前、10年前の契約した当時の為替レートと期日到来日のそれとは、大幅な「乖離」があり、その時点で、解約しようにも、ペナルティーが、課されるだけで、その損失は、全く、一方的に、契約者リスクで、損失は、補填されることはない。それでは、逆に、「円安」の時には、利益が、出るであろうという議論もあるが、確かに、理屈では、そうではあるが、実際には、デリバティブ自体をしないで、流していたほうが、結局は、メリットになり、一方的な個人支払い保証契約に、縛られて、得べかりし利益は、限定的なものに、なってしまうのである。リーマン・ショックで、奇しくも、露見した、金融工学の複雑化した数式の中に、ちりばめられた「住宅ローン」の不良債権は、いつしか、破裂した挙げ句に、余剰資金・投機資金として、様々な分野へ、向かい、金融政策とのイタチごっこを、今も尚、繰り返している。円高になれば、輸出企業は、1円でも、数百億円の損失が嵩み、中小企業では、融資とパッケージ化された為替デリバティブで、これまで、目に見えない形での損失と倒産のリスクが、顕在化しつつある。スイス・フランが、自国通貨防衛策に、打って出ると決断したようであるが、一体、日本の為替政策は、官製ファンドの立ち上げも含めて、どのような方向性を打ち出すのであろうか?中小企業主の声は、いつになったら、届くのであろうか?これらからは、個人的には、やっと、解放されたが、依然として、喫緊の課題であることは、間違いない。銀行は、いつの時代も、必要なときには、傘を貸さずに、大雨が降れば、有無を言わさずに、取り返しには、やってくるものである。大体、この件を持ち出すと、大抵の銀行筋は押し黙ってしまうものである。
赤松の松ぼっくりは、その時期に応じて、笠の開き具合が、微妙に違うことが、拾ってみると初めて分かった。未だ、青い固いものや、「松の実」をその笠の間から、拡げて、ひらひらと、落とす段階のものとか、その中間のものとか、等等…である。又、色目も、やや、赤みがかったもの、どちらかというと、茶色か、黒茶色のようなものと、、、、、。こちらは、サイズ、色目ともに、手持ち在庫が、豊富である。私は、クリスチャンではないので、クリスマス・リースではなくて、通年観賞しても、耐えうるような、飽きのこないデザインで、多少、ハレの気が感じられるような色を、と言うことで、「金と銀」の2色で、コントラストを整えてみることにした。松葉と、どんな種類の草の実かは、知らないが、その辺に、ありそうな木の実を、アクセントに、飾ってみることにした。気が向くままに、1-2年毎に、1個程度の割合だから、制作にも、肩が凝らないのでよい。気が進まなければ、やらないだけである。男のリース作りに求める「美」とは、結局、シンプルなベーシックなデザインで、手間と時間を掛けずに、難しい技術を駆使することなく、ひたすら、直感的で、思いつくままに、美的自己満足で、、、、といったところでしょうか?今年も又、そろそろ、材料集めの季節が、程なく、やってくることになる。利休の竹器や茶器と、一輪の椿の花のような「美的関係性」には、遠く、及ばないが、、、、、、、。その「美」に対する心意気には、寸毫たりとも、負けない気概を忘れずに、、、、、、。それだけを、ひたすら、心懸けるようにしつつ、、、、。
華々しい硫黄島での玉砕のことを、本や映画で、目にする度に、その2年程前の1943年(昭和18年11月20-28日)に、行われた南太平洋の遙か彼方、ギルバート諸島のマキン・タラワ海戦で、玉砕したと伝聞される叔父、父の兄の手紙を想い出す。既に、亡くなった父は、自らも戦争体験があったものであるから、今は亡き母を伴って、一度、タラワ島嶼へ、遺族会主催の慰霊訪問団の一員として、昔、現地の慰霊祭に、参加したことがある。父方の家は、幸いに、静岡県掛川市掛塚で、戦災を免れ、お陰様で、明治・大正時代からの生家の写真や、一族の赤ん坊の頃の写真も、残っている。それらの写真を、当時、未だ、新しい技術だったデジタル写真加工して、父が、亡くなったときに、アルバムを、スキャンし、CDに、焼き付けた。その時に、偶然、祖母のが、大事に、保管していた写真の中に、一枚の叔父の写真と、手紙が、見つかった。それは、まさに、恐らく、戦死公報一枚のみで、何一つ、骨も、土も、入っていない唯の箱だけを貰った祖母の唯一の形見であろうことだけは、よく、理解出来た。その文面には、最前線での島嶼警備に、当たりながら、南の島で、イカだと思って釣り上げたものが、クラゲで、非常に、残念がっている叔父の絵入り手紙(蒸し暑い艦内で、夜の11時に、書かれた、国民精神総動員の刻印された軍用付箋)からも、その心情が、よく分かる。いつの日か、そのように、生き、どのようにして、南太平洋のタラワ島嶼で、果てたのかを、この目で、見てみたいものである。ネット検索をしていたところ、http://www7.ocn.ne.jp/~yagiko/index.html タラワ慰霊巡礼の旅(祖父の戦没地であるギルバート諸島タラワ島での巡礼参拝の記録)というサイトを目にした。それによれば、その方のお祖母様の死をきっかけに、その夫であり、戦死したお祖父様の足跡を辿る巡礼参拝の記録を残しておきたいとおもい、サイトを立ち上げたものだそうです。戦後世代の私の娘と同じような世代が、こうした戦争体験の継承作業を、行い始めたことは、大変意義深いことと思います。それにしても、デジタル化で、戦場で描かれたクラゲの絵までも、見事に、蘇るとは、驚きです。尖閣列島の事件で、今日、島嶼防衛戦略が、重視され始めているが、60有余年前の叔父の死は、どのように、生かされるのであろうか?
人間にも、相性が良い,悪いがある如く、どうやら、犬にも、そのようなものがあるらしいことは、長い間、散歩に一緒に、連れて歩いて貰っていると、朧気ながら、分かってくる。我が老犬は、どちらかというと、吠えられこそすれ、自らは、滅多に、吠えたりはしない。とりわけ、余輩を重ねることにつれて、その傾向は、強まっている。近所に、少し、年上の大型で、耳が、長く垂れたバセット・ハウンド犬種(ハッシュ・パピーの犬)の雑種で、同じ名前の犬が居るが、いつも、大型犬独特のゆったりした、超然とした、何事にも動じない、その立ち居振る舞いが、好きなのか、散歩の途中で、遭遇すると、必ず、どちらからとも無く、お互いに、鼻先で、クンクンと挨拶を交わすようになった。ここ、半年くらいは、お互いに、歳を取ったせいなのか、歩行が、困難になり、よろよろ、立っているのも、辛そうで、フラフラ、トボトボな様子であった。いつも、先方の門前まで行き、臭いを嗅いでは、まるで、今日一日、生きていることを確認しているようであった。玄関前には、変わらず、ステンレス製の水飲み容器が、置かれていたので、未だ、元気であろうと、勝手に、想像していたが、その家人の説明では、約1ヶ月程前に、歩けなくなり、入退院を繰り返した後、お家で、結局、安らかに、逝ってしまったそうである。それとは知らずに、我が老犬は、相変わらず、散歩の途中に、ご挨拶を忘れずに、必ず、やってくる。動物愛護センターから、2日間の研修を受けて、譲り受けた我が老犬も、既に、16歳と半年になった。後どのくらい、生きられるか分からないが、お座りも、待ても、伏せも、お預けも、もう、一切せずともよい、目が不自由になり、耳が聞こえなくなっても、唯、一日でも長く、気儘に、好きなだけ、生きて貰いたいものである。若いときには、お向かいの家の門番までするお利口さんの番犬で、ご褒美に、菓子折も戴いたが、もう、番犬も引退したら、良い。鎖につながれずに、自由に、好きなときに、寝て、好きなときに、散歩に行き、遊び、好きなだけ食べて、(快食・快眠・快便)で、過ごして貰いたい。お友達の冥福を祈りつつ、、、、、、そう想う今日この頃である。見えているのか、いないのか、こちらをじっと、見つめていて、身体を撫でてくれと、トボトボと、近寄ってくる。
子供の頃、井戸水に、冷やしてあるスイカとまくわ瓜は、子供達にとって、アイスキャンディーと並ぶ、極上の夏のおやつの果物だった。だが、アンデス・メロンが、開発されてからと言うもの、滅多に、東京では、果物屋さんや、スーパーでは、お目に掛かれなくなってしまった。確かに(作る、売る、買うのに安心です)というキャッチフレーズから、名付けられたアンデス・メロンは、瞬く間に、市場を席捲し、悪貨は、駆逐されてしまった訳か(?)久しぶりに、信州の産直売り場で、あの懐かしい黄金色した瓜を見つけて、買うことにした。お婆さんの説明では、多少、香りが強くなり、表面が、手に、べとつくくらいが、食べ頃で、冷蔵庫で、逆に、余り、冷やしすぎない方が、甘みを感じるそうである。暫くして、頃合いを見計らい、半分に割り、中の種とわたを取り除き、色白の果肉を、ほおばれば、懐かしい「上品な香りとほのかな甘み」とが、口の中に、充満する。確かに、メロンのような濃厚な喉の粘膜を、むず痒くするような強い刺激はないが、飽くまでも、「控えめな淡いその香りと甘み」は、日本人好みの繊細な舌の感覚を、想い出させる。まるで、個性の強い「香水」と淡い「匂い袋」の違いのように感じられるのである。この淡い「色目と香りと味わい」をもっと、市場に、復活させられないものであろうか?高級メロンに較べて、余り、付加価値がなくて、やはり、儲けが少ないか?(残念!)今年の夏は、何か、得をしたように、食べ終わった後に、感じられたのは、錯覚だろうか?
海外を旅すると、自ずと、その国の「食事をするときの空間」に対する考え方が、随分と違うものであると、再認識させられてしまうものである。東南アジアの屋台では、何で、こんな暗いところで、しかも、埃だらけのところで、しかも、粗末なプラスチック製の風呂椅子のようなものに、座りながら、長々と、おしゃべりしつつ、飲み食い出来るものだと、、、、。或いは、フランスでは、2時間も掛けて、ゆっくりと、これでもか、これでもかと、そして、最後には、デザートの前に、チーズが、出てきたり、固いフランスパンを、バターたっぷりのソースにつけたり、、、、、と、又、オランダでは、コロッケを、わざわざ、真ん中から、割って、パンの上に、ヘラで引き延ばして、食したり、、、、とか、韓国に、初めて行ったときには、焼き肉の骨付きカルビを、大きなハサミで、食べやすいように、ジョキジョキ切ってくれたのには、正直、面食らったものである。食べ方のみならず、その食事をするときの空間が、千差万別で、実に、面白い。そこには、多分、食文化やら、食に対する歴史的な経緯が、あるのかも知れない。T.P.Oではないが、(時間)・(場所)・(機会)に応じて、食事をするときの「空間」は、大切である。場所だけではない。いつのことだったか、忘れたが、小さな食べ物屋で、食事をしていたときに、仲居さんが、慇懃無礼に、2回も、席を移動して、相席を頼まれたが、さすがに、2度目は、断ったが、それから、再び、その店には、行かなくなった。カスタマー・サティスファクションどころか、食事をする時の客の大切な相手との共有「空間」を、平気に、ハンマーで、ぶち壊すような振る舞いには、耐えかねたのであった。そうは言いつつも、「郷に入ったら、郷に従え」とばかりに、東南アジアでは、平気で、屋台で、食べてはいるが、、、、、、これも、「異空間」の体験で、新鮮ではあるが、、、、、、ただ、これが、毎日では、果たして、どうだろうか?
私の子供の頃と言えば、時代劇の全盛時代で、市川歌右衛門、片岡千恵蔵、中村錦之助、大川橋蔵、東千代之助、大友柳太郎、などの大御所達が名を連ねていた。又、三船敏郎、長谷川一夫、市川雷蔵、勝新太郎、仲代達矢、など、こちらも大物俳優のオンパレードであった。一方、現代劇では日活が1956年(昭和31年)『太陽の季節』を発表、石原裕次郎が華々しくデビュー、小林旭、宍戸錠、など現代劇スターが相次いで誕生した時代でもあった。学生時代には、よく、銀座の「並木座」で、高倉健、池辺良、鶴田浩二、藤純子、丹波哲郎、等、「昭和残侠伝」や、「緋牡丹博徒」のシリーズを、よく、友人達と飽きずに、2本立てを、見たものである。鶴田浩二の両手の拳を、ギュッと、握りしめた格好が、友達は、「りりしい」と言っては、いつも、両拳を握っては、往来を闊歩していたものである。年齢を重ねてくると、どうしても、風貌が、加齢により、変化し、筋肉が垂れ下がり、若いときとは、別人のように変貌してくるものであるが、高倉健は、未だに、「網走番外地」、「幸せの黄色いハンカチ」、「八甲田山」、「駅」、「鉄道員(ぽっぽや)」、そして、鬼神の如く演じた松田優作の遺作となった「ブラック・レイン」でも、往年の目つき、顔つき、その雰囲気が、変わらず、そのまま、若いときの「りりしさ」を、維持したまま、加齢を重ね、一味も二味も深みをましたその憂愁を含んだ円熟した演技を、感じられる。その高倉健も、もう、80歳に、なるそうである。来年、秋に、公開が予定されている、「あなたへ」(降旗康男監督)では、病気で亡くした愛妻の故郷を目指して、キャンピング・カーで、旅をする刑務技官を演じるそうで、「人が人を思い続けること、生きることの切なさを思いました。」という本人のコメントが、あるように、6年ぶりのこの作品に懸ける「健さん」の80歳にして到達した並々ならぬ情熱が、何より、心嬉しい。最近の「しょうゆ顔」のアイドル達や、毎日のTVに跳梁跋扈する軽薄なお笑い芸人達や、官製輸出韓流タレント達には、ほとほと、見飽きたので、是非、こうした輩とは、一線を画した、俳優、高倉健の人生集大成の演技、神髄を期待してやまない。それにしても、来年の秋の公開とは、何とも、先の話である、、、、、、。待ち遠しい限りである。健康維持は、万全なのであろうか?余計な心配をしてしまう。
信州、長野県は、軍人を多く輩出しているが、永田鉄山や、戦艦大和の艦長だった有賀幸作らと、同様、栗林忠通も、又、同県の出身(栗林は、松代)である。東亜同文書院にも、合格する程で、英語が得意で、将来は、ジャーナリストになることも、考えていたらしい。駐在武官として、米国・カナダにも、勤務し、彼我の国力の差を、まざまざと、体感していたにも関わらず、全く、歴史とは、皮肉なものである。絶対防衛圏の死守から、切り捨てられ、まさに、矢弾尽き果て、徒手空拳でも、祖国への空襲の被害を、一日でも、徹底抗戦を貫徹することにより、遅延させ、あわよくば、終戦交渉にも、米国の世論を味方に付けて、、、、という戦略も、結局、果たせずに、2万余の将兵とともに、生きて帰れぬ限られた洞窟という戦場で、凄惨な「生と死」の道を歩んだ訳である。その合理主義的な死の美学を排除した冷徹な軍事戦術と、人間味溢れる家族に対する手紙の内容は、これまでの官製人物像を破壊しうるに十分である。皮肉にも、期せずして、3月10日のB-29による非戦闘員への無差別な東京大空襲や、その後の「米兵の犠牲者を少しでも少なくする為に」原爆を使用するという口実を与えてしまったのは、さぞかし、無念であったであろうし、歴史の皮肉としか、言いようがない。それは、辞世の句の一つにも、現れているし、又、それ故に、大本営は、その辞世の句までも、「散るぞ口惜し」と改竄したのであろう。或いは、訣別電報の電文にある「徒手空拳を以って、、、」をも、批判的として、歴史公文書から削除してしまったのかも知れない。栗林が、否定した「水際作戦」は、既に、その2年前のマキン・タラワ海戦で、失敗している。(私の叔父は、その時、玉砕したと伝えられているが、、、)。「失敗の本質」の文中にも、述べられている如く、「歴史の教訓」を、学ぼうとしない、事実を隠蔽し、改竄するやり方は、今日でも、原発の事故や、東日本大震災でも、或いは、中国の高速鉄道事故でも、広く、垣間見られる。歴史の忘却の彼方に、再び、これらを、持ち去られては、ならないことを、肝に銘じなければ、戦死した人々に、我々は、どう応えたら良いのであろうか?栗林が、硫黄島で、地下要塞を掘っていたときに、故郷の松代でも、地下に、大本営移転が、掘り進められていたのは、歴史の皮肉であろうか?皮肉にも、クリント・イーストウッドによる「父たちの星条旗」、「硫黄島からの手紙」は、米側からの視点で、この戦いを、画像として、描いているが、渡辺謙は、難しい役周りを好演したのは、少なくとも、救われる思いがする。
秋から冬にかけて、散歩の最中に、自然な形で、野趣の良さそうなものを取り置いてあった「ツタの蔓」や、「押し葉」、唐松や赤松の「松笠」、「どんぐりの実」等を、活用して、和風モビールを作ってみた。デザインや、形は、ずぶの素人なので、昔購入した旧いインテリア・デザインの本を参考にして、ほとんど、材料費をただ同然で、トライしてみた。バランスは、適当に、天井から、少し下がる程度で、風にも、多少、なびく程度で、今では使用しなくなった魚釣りのナイロン・ラインを、失敬して、空間での透明感も、極力、出してみた。蔓の太さ・曲がり具合は、なかなか、自然の中では、マッチするものを見つけるのが困難で、太くても駄目、細くても、もの足りず、「帯に短し、襷に長し」で、在庫にも、限りがある。数量限定(?)なのである。従って、友人に、仰々しく、箱にでも入れて、お土産の品に持ち帰ってもらうのは、極上のおもてなしであると、勝手に、そう思っている。兎に角、自己の高価な労働付加価値(?)しか、ほとんど、かかっていないのであるから、、、、、、、、。半ば、押し売りではあるが、、、、。
すだれを窓越しに掛けて、網戸越しに、景色を眺めていると、月が見えたり、一寸冷たくなった風に、初秋の趣を感じたりもするが、そんな中でも、未だ、雨蛙とおぼしき蛙が、明かりに誘われて来る小さな虫を捕食しに、やってきたりもする。以前、紅葉の葉に、掴まっていた雨蛙とは、少し、文様が、違っているので、別の個体かも知れない。中には、どこから侵入したのか、ちゃっかり、風呂場の浴槽に、潜んでいることもあった。又、この間は、「ナナフシ」とおぼしき、大きな虫が、突如、長い手足を伸ばしながら、訪問してきた。テレビ等では、見たことがあったが、早速、子供達が使っていた四半世紀あまり前の昆虫図鑑を取り出して、確認したところ、コナラの葉を常食とする植物性の虫であることが、判明した。成る程、ドングリの木が、多いことから、確かに、ナナフシがいてもおかしくは無いわけである。しかし、昼間には、一度も、見かけたことがない。木の葉の陰にでも、潜んでいるのであろうか?私たちの気がつかないところで、色々な生き物たちが、共生して、暮らしているものである。そんなことを気付かせる夏の終わりの夜の窓辺である。