他人の悪口を言うにはそれなりの覚悟が入ります。少なくとも悪口の対象とした人の機嫌を損じる程度の覚悟は。「悪口は言いたい、でもそのことで自分は“損”はしたくない」というのはただのヘタレでしょう。で、そういったヘタレはたとえば影でこっそり言うとか、あるいは「数」の中に自分を埋没させようとします。
ネットでの匿名の悪口(それも集団で言うもの)はその両方を満足させています。だから「炎上」が起きたらわらわらわらわらといろいろ集まってくるのでしょう。
マスコミでの無署名の記事での悪口は、自分が持っている“(第4の)権力”を使っているので、ヘタレよりもっと卑怯ですな。
【ただいま読書中】
『マンボウ最後の大バクチ』北杜夫 著、 新潮社、2009年、1300円(税別)
人生の大体をうつ病で過ごし、ときどき躁状態になって周囲に迷惑をかけてきた老作家が、人生の最後に近づいてきたことを読者に報告した、というか、一種の遺書として出した本のようです。内容は、家族・人生の思い出・そして人生最後の躁状態の中でおこなった賭博行為……
しかし、作家的な技巧と韜晦が入っているとは思いますが、ここで述べられる「愚行」の数々には笑ってしまいます。だけどきっと「愛される老人」なんでしょうね。回りは(おそらくは苦笑しつつ)著者に付き合ってるところがなんとも微笑ましい。
ペンネームの由来とか著者を世に知らしめた『どくとるマンボウ航海記』の執筆の契機とか、私は本書で初めて知りました。学生時代には著者のほとんどの作品は買って読んでいるはずですが、熱心なファンではなかったということなのでしょう。星新一さんが実に面白い人だったというのは本書だけではなくて他の人のエッセイなどでも読んだことがありますが、星さんの奥さんが「(家では)なんてつまらない人だと思っていました」と著者の奥さんに語ったエピソードを知ると、作家(というか、人間一般)の外面(そとづら)と内面(うちづら)について、一瞬でも考えてしまいます。あるいは、倉橋由美子さんが亡くなったときの追悼文に「私が『夜と霧の隅で』で芥川賞をとったとき、正直のところ倉橋さんの『バルタイ』のほうがずっと良かった」とあり、自己評価と他からの評価についても私は考えてしまいました。
著者の文章は平易ですらすらと流れていきますが、実はけっこう重層的でいろいろなものがその中に仕組まれています。学生時代に集中的に著者の本を読んで、そういった構造を見つけ出すのが楽しかったことをふと思い出しました。また読み返してみようかな。
ネットでの匿名の悪口(それも集団で言うもの)はその両方を満足させています。だから「炎上」が起きたらわらわらわらわらといろいろ集まってくるのでしょう。
マスコミでの無署名の記事での悪口は、自分が持っている“(第4の)権力”を使っているので、ヘタレよりもっと卑怯ですな。
【ただいま読書中】
『マンボウ最後の大バクチ』北杜夫 著、 新潮社、2009年、1300円(税別)
人生の大体をうつ病で過ごし、ときどき躁状態になって周囲に迷惑をかけてきた老作家が、人生の最後に近づいてきたことを読者に報告した、というか、一種の遺書として出した本のようです。内容は、家族・人生の思い出・そして人生最後の躁状態の中でおこなった賭博行為……
しかし、作家的な技巧と韜晦が入っているとは思いますが、ここで述べられる「愚行」の数々には笑ってしまいます。だけどきっと「愛される老人」なんでしょうね。回りは(おそらくは苦笑しつつ)著者に付き合ってるところがなんとも微笑ましい。
ペンネームの由来とか著者を世に知らしめた『どくとるマンボウ航海記』の執筆の契機とか、私は本書で初めて知りました。学生時代には著者のほとんどの作品は買って読んでいるはずですが、熱心なファンではなかったということなのでしょう。星新一さんが実に面白い人だったというのは本書だけではなくて他の人のエッセイなどでも読んだことがありますが、星さんの奥さんが「(家では)なんてつまらない人だと思っていました」と著者の奥さんに語ったエピソードを知ると、作家(というか、人間一般)の外面(そとづら)と内面(うちづら)について、一瞬でも考えてしまいます。あるいは、倉橋由美子さんが亡くなったときの追悼文に「私が『夜と霧の隅で』で芥川賞をとったとき、正直のところ倉橋さんの『バルタイ』のほうがずっと良かった」とあり、自己評価と他からの評価についても私は考えてしまいました。
著者の文章は平易ですらすらと流れていきますが、実はけっこう重層的でいろいろなものがその中に仕組まれています。学生時代に集中的に著者の本を読んで、そういった構造を見つけ出すのが楽しかったことをふと思い出しました。また読み返してみようかな。