ナチス政権下で、ユダヤ人をかばったドイツ人がいます。マッカーシズムの嵐の下で、アカ狩りに対して共産主義者ではないのに「それは全体主義的だ」と抵抗したアメリカ人がいます。
さて、今の日本では、何に抵抗したらそういった人たちの行動に相当するのでしょう?
【ただいま読書中】『キャッチ=22(上)』ジョーゼフ・へラー 著、 飛田茂雄 訳、 ハヤカワ文庫NV133、1977年(84年4刷)、480円
第二次世界大戦中、イタリア戦線で仮病を使って軍病院に入院しているヨッサリアンは、なんとか飛行任務から逃げようと画策します。しかしそこに立ちふさがるのが規則「キャッチ=22」でした。規則では、気が狂った人間が軍医に申告をしたら飛行任務が解除されます。しかし、現実的かつ目前の危険を認識できる人間はつまり気が狂っていないわけですから「飛行任務の解除」を申し出た瞬間その人間は「気が狂っていない」と判定されるのです。つまり、出撃。
ヨッサリアンと周りの人間たちとの会話は、論理が千鳥足になったりスキップを踏んだり突然昇天したり、なかなかシュールです。本人たちは大まじめなのですが。それはまるで「狂気の会話」のように見えますが、戦争という巨大な狂気の中で生き抜こうとしたら娑婆の世界での真っ当な感覚では無理、ということなのかもしれません。
さらに取り上げられる話題そのものも、あっちに行ったりこっちに来たり、さらには時系列までもがあっちに行ったりこっちに来たり、読んでいて私の頭はだんだん混乱してきます(一つの手がかりは、ヨッサリアンの出撃回数ですが、実はそれもちと怪しい感じです)。言わなかったことやしなかったことについての釈明を求められて四苦八苦する人々が行く先行く先でまるでデジャブのように出現すると、本当に私は本書を読んでいるのか、それともページを戻して同じ所をぐるぐる何回も読んでいるのか、わからなくなってしまいます。それと同時に、ちょっと恐ろしいことを思いつきます。まさかこの本、夢オチでおわるんじゃないだろうな、と。本書を初めて読んだのは20世紀のいつだったかな、とにかくずいぶん前のことで、結末なんぞ全然覚えていないのです。
ここまで戦争を虚仮にした小説ですから、戦争に対する批判とか風刺、ととるのが普通でしょう。実際本書は優れた戦争小説、という扱いを受けています。ただ、深読みかもしれませんが、著者は戦争だけをターゲットにしているのではないのではないか、と私には感じられました。戦争では「不条理」が先鋭化しますが、それは人間の社会がもともと“それ”を内在しているからです。ならば、著者が本書で使う矛先は、実は「私たちの実生活」そのものにも向いているのではないでしょうか。
……本書にアタマをかき乱されて、脳みそが煮えちゃったかな?