【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

作曲者

2011-06-07 19:08:50 | Weblog

 ラジオ体操第一は服部正、第二は団伊玖磨、だそうです。そんなことは全然知らずに夏休みにずっとやってました。
 なお、「ラジオ体操の歌」は藤浦洸作詞、藤山一郎作曲です。これまた作曲者が誰かなんて知らずに聞いていました。ラジオ放送では子供の合唱でしたが、コロムビアのCD「みんなの体操」には、藤山一郎(とコロムビアひばり児童合唱団)の歌で入っていました。

【ただいま読書中】『マッシュ』リチャード・フッカー 著、 村社伸 訳、 角川文庫、1970年、340円

 戦争ものや『キャッチ=22』を読んだら、当然この本に来なくちゃいけない、というのが私の脳内の“司令官”の命令でした。本書は私の本箱のどこかにあるのは間違いないのですが、探すのが面倒なので図書館から借りてきました。
 私がティーンエイジャーの時に観て強い影響を受けた映画は何本かありますが、「マッシュ」もその一つです。おかげで外科医役のドナルド・サザーランドが好きになった、という副産物もありましたっけ。
 「移動野戦外科病院(マッシュ)」は、戦争の矛盾点の焦点と言えるでしょう。人を傷つけ殺すのが戦争の目的なら、マッシュはその逆(破壊された人体の修復)をやるわけですから。
 本書の舞台は、朝鮮戦争時の朝鮮半島北緯38度線のすぐ南、最前線から数マイルに位置する第4077移動野戦外科病院です。そこに新任の外科医二人が赴任するシーンで、さあ、始まり始まりぃ~。ジープに乗ってのたりのたりと現われたのは、一人は“デューク(伯爵)”フォレスト大尉、もう一人は“ホークアイ(くせ者)”ピアース大尉。ここで私はもうにやり。特に本書の最後の二文を思い出して……って、これは知らない人のために内緒にしておきましょう。
 人はなんらかの課題を真剣に解決するためには想像力と技術の限りを尽くしますが、それは戦争における「いかに人体を破壊するか」でも同じです。そしてマッシュの医療スタッフは、様々なやりかたで様々なレベルに破壊された人体に“やっつけ仕事”で立ち向かいます。平時の設備が整った病院とは“常識”が違うのです。マッシュでの「治療」の目的は、前線の後方できちんとした治療が受けられるまで瀕死の負傷者が耐えられるようにとりあえずの「時間」を稼ぐこと。だから手術のシーンは、凄惨で明快です。そこでデュークとホークアイは、極めて優秀な働きぶりを示します。ということは、世間一般の“常識”で言えば、彼らは変わり者ということになります。非常識な状態で「優秀」なのですから。
 ただ、いくら優秀でも個人の力に限界があります。デュークとホークアイは胸部外科の専門家を求めます。それも優秀なのを。やって来たのは、偏屈者でした。あだ名は“トラッパー(すけこまし)”ジョン大尉。でも腕はピカイチ。
 マッシュの指揮官ブレイク中佐は「どうしてアメリカ陸軍の中のバカ者どもが集まるんだ」と悲鳴を上げますが、その“バカ者”どもは、オンではせっせと仕事をし、オフではせっせとらんちき騒ぎ(上官に反抗したり、大酒を飲んだり、人魚取りの罠を製作したり、精神病になったふりをしたり)を繰り広げます。オンもオフもどちらにも同じくらい熱心に。たぶんそうすることで何かの“バランス”が取れているのでしょう。
 ただ、彼らも大真面目に真剣になることがあります。たとえば、同僚の歯科医が自殺宣言をした時。彼らは、棺桶を作り従軍牧師つきの最後の晩餐の手配をし楽に死ねる「ブラック・カプセル」を調合します。はい、大まじめに。ブレイク中佐は「こっちも気がへんになった」と悲鳴を上げます。あるいは、可愛がっていた韓国人のボーイが徴兵されて重傷の兵士として彼らと再会した時。あるいは、日本の女郎宿で生まれた日米混血児の命を救った時。彼らは自分たちが救った命の“その後”のことまで配慮します。ふざけながら、大まじめに。
 しかし、ぶっ続けの激務と悲惨な状況とが、人々の心を蝕みます。ブレイク中佐は「デュークが自分を『閣下』と呼んだこと」に悩み、ホークアイがいつ自分に敬礼するか、と不安にさいなまれます。彼らが“燃え尽きてしまった”のではないか、と。たとえ日常生活がちゃらんぽらんで上官に無礼でも、有能な働きをしていてくれたらそれで満足なのに、その“長所”が失われてしまったのではないか、と感づいたのです。
 ブレイク中佐は、ただの無能ないじられキャラの指揮官ではありません。桁外れの野郎どもの無茶な要求に悲鳴を上げながら、彼らが“現実”で活動できるように環境を調整する有能な人です。彼がいなければ、マッシュはきちんと機能することはなかったでしょうし、その結果多くの人命が失われていたことでしょう。
 そして、クライマックスのフットボールシーンですが……私はその前の、「沼(ホークアイたちが住むテントの名前)」に黒人のスピアチャッカーがやって来た日の会話が大好きです。人種差別というものが抱える多様な問題がここにいくつも浮き彫りにされています(たとえば、偽善・黒人の中にも差別意識が存在すること、など)。そして、人の心の温かさも。そう、本書を貫くテーマは「ヒューマニズム」だと言えるでしょう。それも「偽善としてのヒューマニズムと偽悪としてのヒューマニズム」。あれれ、「真実のヒューマニズム」はどこに行っちゃったんでしょうねえ。最初からそんなものは、存在しない?