【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

影響力

2011-06-12 18:43:06 | Weblog

 社会の中で、人は誰かに影響を与え、誰かから影響を与えられて生きています。「自分は誰の影響も受けていない」という人は、もしかしたら頭の中が赤ん坊のまま、ということになります。
 さて、影響力の点で、当然序列が生じます。影響力が大きい人と小さい人。さらにそれは「質」と「量」に分けることが可能です。「量」はわかりやすいですね。「何人に影響を与えることができるか」。「質」はちょっとわかりにくい。たとえば、たとえ少数の人にでも一生続くような深い影響を与えることができること、でしょうか。
 すると「偉大な人」は、影響力の点で質量共に他の人をはるかに凌駕する人たちの中で、その影響を受けた人々が、さらに他の人に影響を与え続ける人、と言うことができるかな。
 ただ、本当に偉大な人は「自分は影響力が大きいんだぞ、ぐふふふふ」なんてことは意識していないような気もしますが。

【ただいま読書中】『死のバルト海』C・ドブスン、J・ミラー、R・ペイン 著、 間庭恭人 訳、 早川書房、1981年、1300円
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 大きな海難事故と言って私がまず思うのは、洞爺丸や阿波丸、海外だとやはりタイタニック号でしょう。本書で取り上げられているのは、ヴィルヘルム・グストロフ号。あまり有名ではない名前です。しかしこの船の沈没による死者は、タイタニック号の5倍、7000人以上だったのです。これだけの巨大な海難が世界にあまり知られていないことに著者らは驚き、調査を始めます。
 1945年、ドイツ支配下のバルト海に面した港湾諸都市に、ソ連軍に追われて大量のドイツ人(軍人と難民)が逃げ込んできました。脱出路は海路のみ。そのため、1月末から5月初めまで、使える船はすべて使って、200万人以上がドイツへと輸送されました。それまで活躍の場がなかったソ連海軍潜水艦隊は張りきります(開戦前、ソ連は世界最大の潜水艦艦隊218隻を擁していましたが、見るべき戦果はありませんでした。もっともその責任の半分はスターリンが行なった粛清が負うべきですが)。
 定員1900に8000人以上が詰め込まれたヴィルヘルム・グストロフ号がダンツィヒ近くのグディニアを出港したのは、そんな状況下、45年1月30日のことでした。乗せていたのは、デーニッツの部下で新型Uボートの訓練を受けていた海軍軍人(戦争中この船は、潜水艦訓練生の寄宿船として使われていました)とその家族、そして、空いた隙間という隙間に詰め込まれた避難民でした。ドイツの“ダンケルク”撤退作戦です。
 この作戦の詳細を読んで、さすがドイツ、と私は唸ります。限られた資源と時間の中で、最善と思われる「計画」をきちんと立てそれに従って撤退作戦を遂行するのですから(救命ボートは不足していましたがそれでも使えそうなものをかき集め、乗客全員に一つずつ救命胴衣が配られました。食事は一日に一回(少ないと思います? 避難民はそれでも大喜びだったそうです)。ただし、混乱や行き違いも多々あります。たとえばグストロフ号の指揮系統は、商船の船長と海軍の二系統になってその調整はされていなかったため、ブリッジでは“権力闘争”が行なわれました。船の整備は不十分で船員は不足しています。制空権はなく「護衛艦隊」は旧式の魚雷艇一隻だけ。機雷のため航路は制限されています。冬の嵐が吹き荒れます(気温は摂氏零下17度だったそうです)。そして詰め込みすぎの乗客。出港直前に正規のパスを持つ6050人が乗っていたことは記録にありますが、最後の瞬間にどっと避難民が乗り込みました。2000人以上と言われていますが、正確な人数はわかりません(本書では「最低8000人以上」とされていますが、戦後の調査では1万人以上、という数字もあるそうです)。
 ソ連の潜水艦S13にも“運命”が待ちかまえていました。有能だが大酒飲みでちゃらんぽらんな性格で権力に対する反逆傾向がある艦長マリネスコは「ファシストのイヌども」をやっつけるためにバルト海を静かに航行します。
 誰も自分たちの未来に何が待っているのか、知りませんでした。
 グストロフ号は、戦時規則に違反して航行灯を点けていました。近くを航行しているはずのドイツ軍艦との衝突を恐れたのです。しかしそれは、ソ連潜水艦に対する「ここにドイツ艦がいるよ」の合図になってしまいました。マリネスコは確実にしとめるために、浮上攻撃を決意します。ソ連時間23時8分、3発の魚雷が命中します。阿鼻叫喚の地獄絵図が繰り広げられますが、最悪の場面の証言はない(全滅=目撃者や生存者がゼロ)、と本書では静かに語られます。
 船は70分後には海底に沈下しました。最後の瞬間の異様な光景は、助かった人たちの脳裡に焼き付いたことでしょう。救援が向かいますが、浮氷の海面で人は次々死んでいきます。疲労と寒さのためにボートの中で倒れ、底に貯まった水で溺死した人もいました。ドイツ艦のスクリューで切り裂かれた漂流者も多くいます。絶望で自殺する人も。
 (その後に死亡した人もいますが)救助された者が964名ということはわかっています。ですから7000人以上が死亡したことになるのです。
 マリネスコの報告は、上官に信じてもらえませんでした。ホラを吹いている、と思われたのです。しかしマリネスコはさらに“戦果”を上げます。避難民を満載した豪華客船ゲネラル・シュトイペン号を撃沈したのです。死者は3000人以上でした。10日間で1万以上の死者……大戦果です。
 次々船を喪失しながらも、ドイツはドイツ人の本国への輸送をやめませんでした。結局150万人近い民間人が西に輸送されています。第三帝国の最後の作戦、東プロイセンからの輸送計画「ハンニバル作戦」は、ほぼ成功した、と言えるのです。そしてそれによって冷戦時代のあり方が影響を受けました。「西ドイツ」に多くの「ドイツ人」が確保できたのですから。
 戦後のマリネスコの生涯は、波乱に富んだものでした。彼に対するソ連の“評価”は、平凡な勲章授与と、シベリア収容所送りでした。「健康な男を廃人に変えるのに20日から30日かかる」収容所で、マリネスコは生き抜き、ついには共産党に復党したのです。この人の人生だけで一冊の本になりそうです。