【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

2011-08-19 18:36:11 | Weblog

 雲は立体です。私たちは地上からその底面と側面を眺めているわけですが、その区別をつけてます? 入道雲ならまだ「側面を見ている」と意識できますが、ふだん空を見るとき自分は雲のどこを見ているのか、わかっていましたっけ?

【ただいま読書中】『音楽と数学の交差』桜井進・坂口博樹 著、 大月書店、2011年、1800円(税別)

 「音楽と数学」は、最低ピュタゴラスまでは遡ることができます。和音とか倍音とか、音楽が持つ数学的な性質についてピュタゴラスが見逃すはずがありません。
 気持ちの良い和音は周波数が分数で表現できます。ところが1オクターブを均等に分割する平均律では無理数が登場します。つまり平均律では「どの和音も微妙な不協和音」なのです(このへんの話は2010年6月4日の『タンパク質の音楽』や2008年8月8日の『ミドルエージのためのピアノ・レッスン』で書きましたね)。
 古代中国にも音階理論(楽律)がありました。1オクターブを12分割してその12半音階から7音を選択して7音階を作るのは西洋と同じですが、実際にはその7音階から5音(ドレミソラ)を選んでの5音階が主流でした。世界中の民族音楽の多くは5音階だそうで、だから中国もそうなったのかもしれませんし、五行の影響かもしれません。
 西洋で「音楽」を「学問」として扱った人々は「ムジクス」と呼ばれました。対して音楽の実践者(演奏者たち)は「カントール」と呼ばれ、ムジクスより一段低い扱いでした(思索をする人が実践者より地位が高い者として扱われるのは、音楽に限ったことではありませんが)。
 「対決」というキーワードも登場します。有名な音楽対決はヘンデルとスカルラッティのもので、有名な数学対決はタルタリアとフィオルのものが紹介されます。そういえば映画「カストラート」では、人間の声とトランペットとの“対決”がありましたっけ。昔はこういった「対決」が娯楽としてごくポピュラーなものだったのかもしれません。
 もちろん「素数の音楽」も登場します。ガリレオの「宇宙は数学の言葉で書かれている」やケプラーの「天体は音楽を奏でている」ということばも登場します。「CANON」ということばが、数学と音楽の両方で使われた歴史も紹介されます。あるいは数学の歴史を音楽的に述べる、という試みさえ行なわれます。著者は楽しく遊んでいます。このお二人にとっては「数学」も「数楽」なのかもしれません。
 『詩で語る数論の世界 ──素数の不思議さと美しさの発見』(2010年6月1日の読書日記)では「数論」と「金子みすゞの詩」の“共鳴”について語られていました。それが本書では一般解に拡張されて「音楽」と「数学」の“共鳴”について熱心に語られています。数学者には意外に(と言うと失礼かな)音楽好きが多くて、好きなもの同士の共通点を“発見”したいのかもしれません。