若い二人がつきあい始めて微妙な時期になったときに「今、好きな人がいる?」という、いわば“打診”の質問が出てくることが、私の若い頃には結構“定番コース”でありました。質問する側からしたら「自分に望みがあるかどうか」を知りたいのでしょうが、さて、その答えの解釈が、微妙です。もし「いない」だったら、要するに「現時点ではあなたのことも好きではない」ということになってしまいます(未来は不確定ですが)。逆に「いる」だと、これで望みなしかと言えば実はそうではありません。「好きな人 = あなた」の可能性もあるのですから。
【ただいま読書中】『拳闘士の休息』トム・ジョーンズ 著、 岸本佐和子 訳、 新潮社、1996年、1748円(税別)
目次:PartI「拳闘士の休息」「ブレーク・オン・スルー」「黒い光」
PartII「ワイプアウト」「蚊」「アンチェイン・マイ・ハート」
PartIII「“七月六日現在、当方自らの債務以外、一切責任負いません”」「シルエット」「私は生きたい!」
PartIV「白い馬」「ロケット・マン」
まずは表題作で、ジャブではなくて“ストレート”を読者は食らいます。
ボクサーで海兵隊員。それも偵察隊でベトナムで勲章を受けた“俺”が主人公なのですが、単なる“体育系”ではなくて、ショーペンハウアーを愛読し、古代ギリシアの彫刻「拳闘士の休息」について熱く語る教養を持っているのです。その彫刻のモデルだろうと言われるテオジニスが行なっていたボクシングは、固い皮を巻き付けた拳で、相手が死ぬまで殴り続ける野蛮な競技でした(そういえば、パンクラチオンも古代は相手が死ぬまで行なうレスリング(+ボクシング)でしたね)。もちろんリングなんかありません。そして“俺”が戦うのも、“リング”のない世界です。まずは海兵隊訓練キャンプ、ベトナム、そして、自分の家庭。“俺”は常に戦い続けているのですが、この“拳闘士”に「休息」はあるのでしょうか。もしかしたら“それ”は……死?
「ブレーク・オン・スルー」にも、「拳闘士の休息」とそっくりのエピソードが登場し、著者のベトナム時代の体験が反映されているのか、と思ったらそれが大外れ。そして、ここでの“戦い”には、武器を持っての戦闘や拳での殴り合いもありますが、実は“ノックアウトパンチ”は「ことば」だった、というオチ(のようなもの)がついています。
「海兵隊」「ボクシング」「ベトナム」という共通項で括られたPartIのあとに、そういったものとはまったく無関係な作品が登場します。PartIIの共通項は「病気」というか「ビョーキ」かな。登場する人たちの行動が、どれも病的な色彩が濃厚なのです。
PartIIIでまた「ボクシング」が帰ってきます。ただしPartIとは違って、舞台の“背景”に退いた小道具として、ですが。また、これまでの作品で基調にずっと流れていた切なさややりきれなさに、このパートではユーモアがかぶせられます。おやおや、これは私の好みです。ただ、「私は生きたい」はPartIIに入れた方がよかったのではないかなあ。
そしてラスト。これまで「ボクシング」は「人が行なう行為」としての存在でした。しかしここでは「ボクシング」が「人」を含んでしまっています。「人のボクシング」ではなくて「ボクシングの人」と言ったらいいかな。著者にとって、ボクシングはそこまで大きな存在だ、ということなのかもしれません。
※昨年1月8日に読書日記に書いた『イラク博物館の秘宝を追え』の著者マシュー・ボグダノス大佐も、「ボクシング/古典/海兵隊」を兼ね備えた人でした。世の中には本当にいろんな人がいるものです。