「亜鉛」……まるで鉛のような物質
「亜鉛鉄板」……まるで鉛のような鉄の板
「無鉛ガソリン」……「鉛ガソリン」というものは無い
「鉛中毒」……鉛全体が毒に染まっている
「色鉛筆」……カラフルな鉛でできた筆
「黒鉛」……カラフルではない鉛
「鉛色の空」……カラフルな鉛かカラフルでない鉛かはっきりしない色の空
【ただいま読書中】『漂泊の民 サンカを追って』筒井功 著、 現代書館、2005年、2300円(税別)
定住をせず教育を受けず戸籍も持たない人の集団が日本の社会に(と言うか、社会の外に)存在しているそうです。地方や集団によって様々な呼ばれ方をしていますが、本書ではサンカ(山窩)という呼称が採用されています。
サンカ研究者として三角寛という人が有名だそうです。ただし、本書の著者によると、三角はその論文にフィクション(写真撮影時の演出、限られた情報源からの情報の一般化、数字の間違い、明白なウソ)を混ぜているそうで、だからサンカについて間違ったイメージが流布してしまったのだそうです。だからでしょうか、著者は実証にこだわっています。証言を集め、“現場”に出かけ、あまり壮大な物語を語ろうとはしません。個人が、どこで生まれ、どう育ち、何を職業とし、誰と結婚し、離婚し、どこで死んだか、そういった事実の切れ端を丹念に拾い集めます。
著者が調査した「武蔵サンカ」では、主な仕事は箕の製造と修理でした(「箕」は、ちりとり型をした農具で、脱穀した稲をその中であおって、実と殻とごみを分別することを主目的としたものです)。サンカは農家を回って注文を取って歩きました。仕事がない時には門付け芸でも川漁でも物乞いでもやります。住むのは、掘っ立て小屋・テント・洞窟……木賃宿に“住”むこともありました。
「箕」で生計が立つのか、と私は思っていたのですが、認識が甘かった。昭和の初め頃徳島のある地方では、良い箕は米一俵と交換、が相場だったのだそうです。それだけ農家も箕を真剣に使っていたのでしょう。
江戸時代のサンカは、無籍人でした。身分制度の“中”に位置づけられていた「エタ」「」とは“身分”が違います。ところが明治政府はそれらをまとめて「」として扱いました。その影響で、平成になっても箕直しをする人を被差別の住人だと考える人がいるそうです。(江戸時代にも「箕直し」が賤視されていたことは間違いありませんが)
サンカの「受難」は、まず戦争の形でやって来ました。配給制度のために、農家から食糧を手に入れることができなくなったのです。配給を受けるためには「戸籍」が必要です。そこで無籍人はどっと減りました。そして戦後は箕の需要が激減しました。高度成長によって農家がどんどん機械を入れるようになったのです。
きちんとした学術調査や信頼できる統計があるわけではありませんから、サンカの実態はまだ不明な部分が大きいのですが、少なくとも彼らがかつて存在していたことは事実のようです。そして、もしかしたら今も形(と名称)を変えて存在し続けていることも事実かもしれません。