まだ香港が中国に返還される前、「香港ドルは国の中央銀行が発行しているものではない」と聞いて驚いた後、そういえば香港には政府も中央銀行も無いのだから当たり前だ、と納得したことがあります。逆にそういった状態で独自通貨を流通させているのは大したものだと感心しました。というか、今でもまだ国際的に通用しているんですね。「ここは中国でも英国でもない、香港だ」と通貨が主張しているわけで、なんだかとっても不思議な制度に思えます。
【ただいま読書中】『香港「帝国の時代」のゲートウェイ』久松亮一 著、 名古屋大学出版会、2012年、5700円(税別)
本書で扱われる時代は、19世紀半ば〜20世紀前半、つまり「帝国の時代」です。実際には、大英帝国だけではなくて、ドイツ・ロシア・オーストリア・オスマントルコ・清などの帝国が軒並み斜陽〜解体に向かった時代ですが。そして「香港」は「国家という枠組みを離れた存在」として位置づけられています。本書で重視されるのは「(人、もの、金、情報の)流れ」です。これを学問的に論じるのはなかなか難しそうですが、上手くやるととてつもなく面白い解説になるだろうという予感がします。
現在は「グローバリゼーションの時代」ですが、実は19世紀も「グローバリゼーションの時代」でした。大英帝国から見たら「香港」は「古い中国に開けた自由貿易のための窓口」でした。そして中国から見たら「世界中に労働力を送り出すための集散地」だったのです。移民や華僑によって、世界のあちこちに「中国経済圏」が拡張していきました。それはまず「華人」の移動によって形成され、その後「送金」によって金融ネットワークが形成されていきます。
もともと河南では伝統的に交易が盛んでした。17世紀には「銀号」という「預金、貸し付け、為替、両替、投機」などを手がける地場の金融機関がありました。ただしこれらの金融機関は「信用」を基礎としていて、親類や一族、ギルドの繋がりを最重要視していました。そのため、19世紀に生糸が盛んに輸出されるようになりますが、「金融」は広州から香港に簡単には移転しませんでした。しかし、1856年の広東大火と「香港ドル」の成立が、世界を変えてしまいます。
日本でも開国当初はメキシコドルが流通していましたが、香港でも同じでした。それ以外にも、スペインドルやイギリスポンド、東インド会社の貨幣、中国の貨幣などが使われていました。特に人気があったのが「ドル」系の貨幣だったため、植民地当局も「ドル」を公認せざるを得ない状況でした。1863年に勅令で「ドル」を公認、さらに紙幣発行銀行を1911年までに3つの銀行に限定して認めました。多種多様な通貨を使うのは煩雑ですから「香港ドルだけ」の金融体制はあっという間に確立し、香港で銀号が発展することになります。
マレー半島一帯から中国への送金は、シンガポールを経由していました。シンガポールは香港と接続することでお互いに利益を得ることになります。香港からは広州やマカオにも金の流れがありましたが、太い流れは上海ルートです。お金がまるで航空機のように、一定の航路を飛び“ハブ空港”に降り立っているかのように地図に描けそうです。
日中戦争が始まると、香港の金融的地位は重みを増しました。上海事変で上海ルートが途絶すると、漢口=広州=香港ルートが活発になります。さらに華南に戦乱が及ぶと、マカオなどとの密貿易ルートが活発になります。そして41年12月の香港陥落後は、マカオが「ゲートウェー」としての機能を担うことになりました。
これからの香港は、金融だけではなくて文化のゲートウェイとして機能したら、これからの中国と世界全体に、有意義な役割を果たせるのではないか、と私には思えます。今の中国はとっても“不健康”な状態に見えますが、自力でそれを直すのはとっても難しそうです。だったら「ゲートウェイ」から流入するナニカに頼ったらどうか、なんてことを思うのです。
天下りが問題なのは「監督官庁がその権限で自分の再就職先を確保する」のがフェアではないからです。明らかに公私混同ですから。逆に言えば、「ものすごく仕事ができる人材」だったら、多くのオファーの中で自分が監督していた業界に再就職するのでも「フェアな態度」と言うことが可能になります。
で、日本の公務員で問題になっている天下り、人材の“価値”はどのくらいなんでしょう? 世界中からオファーが殺到しています? 再就職した後、ものすごい仕事をしています?
私が実際に知っている公務員の天下り後の姿は、重役出勤して会社では新聞だけ読んで現役の後輩とときどき話をして、くらいですごい給料をもらっている、だったので「人材の価値」は過大評価されている、が私の評価です。
マスコミも「天下りという行為」だけを問題にするだけではなくて、「その後きちんと仕事をしているか」を問題にしたら良いのになあ。官製談合や政財界の癒着がその辺からあぶり出せる可能性があるのですが。
【ただいま読書中】『ドゥームズデイ・ブック』コニー・ウィリス 著、 大森望 訳、 早川書房、1995年、3495円(税別)
2054年オックスフォード。1320年のクリスマスを目指して一人の女子学生キヴリンが出発しようとしていました。目的は、タイムトラベルを用いた史学研究。しかし送り出す側に身を置くダンワーシイは異常な不安感に襲われます。イギリスの1320年は、小氷期が始まり、数年後には黒死病が流行し始める時代です。そこに“小娘”を一人で送り出すことに、ダンワーシイは拒絶感を持っていたのです。
それでもキヴリンを送り出した直後、21世紀のオックスフォードでは、タイムトラベルにかけがえのない技術者が、突然倒れます。どうやら未知のウイルスに感染したようです。キヴリンの座標の誤差を知ろうにも、クリスマス休暇でかわりの技術者はすぐには見つかりません。大学は全体が隔離処置を受けています。
14世紀のキヴリンは、わかりやすい街道に出現するはずが、森の真ん中にいました。しかも彼女も発病していました。高熱で意識が混濁し、“今”がいつで自分がどこにいるのかわからなくなってしまいました。ということは、帰還の場所と時刻もわからない、ということです(帰還するためには、決められた時刻に出現した場所にいる必要があります)。親切な人々に看病されやっと回復してきましたが、キヴリンの苦境は変わりません。せっかく頭にたたき込んだ中世英語は通じず、インタープリター(体内に仕込んだ通訳装置)は気まぐれにしか動きません。うっかり変な言動をしたら、魔女だと疑われて火あぶりにされかねません。記憶喪失を装い、キヴリンは冷や冷やしながら生き延びようとします。
21世紀のオックスフォードでは、隔離された大学の中で疫病が猛威をふるい始めます。学部長代理は、肥大し過ぎた承認欲求に駆動され、ことがうまくいかないと自己保身にだけ走ります。おかげでダンワーシイは、キヴリンの行き先を特定することも回収の手続きを進めることも、さらに疫病がどこから来たのかの捜索も、すべて妨害されてしまいます。
それでも断片的な情報を集めることで、物語の中盤を過ぎた頃に私は「疫病がどこから来たのか」についてと「過去と現在の関係」についてある程度の見通しを得ることができました。その目で読むと、本書は伏線の宝庫です。人々はパニックになっているから、ついついこちらもそれにつられてしまいそうになりますが、大切なのは一息ついて冷静になることですね。もっとも私の“読み”が正しいかどうかは、本書を最後まで読んで確認する必要があるのですが。
キヴリンが降下したのは、1320年ではなくて1348年でした。黒死病の年です。そして、キヴリンが滞在している村にも、黒死病がやって来ます。「ドゥームズデイ・ブック(キヴリンの現地報告書)」は、中世の生活だけではなくて、リアルな黒死病の報告書になっていきます。
21世紀では、疫病はやっと峠を越えます。ダンワーシイもやっと生き延びました。で、キヴリンは? 彼女について何ができる? 過去への救助隊? でも、どこへ? それと、いつの?
600ページを超える大部ですが、一気に読むことをお勧めします。面白いですよ。
マスコミでもミニコミでも、メディアは本来「人と人を情報でつなぐ存在」ではありませんか? その「本来の意義」を忘れて、人と人を情報で分断することに夢中になってしまったら、そんなメディアは存在価値は「無」だと私は思っています。
【ただいま読書中】『折れた黒バット ──ジョー・ジャクソンとブラック・ソックス事件』ドナルド・グロップマン 著、 小中陽太郎 訳、 ベースボールマガジン社、1984年、1500円
“シューレス”ジョーは、「したこと(卓越した打撃センス、素晴らしい守備、驚異的な成績(たとえばルーキーとして唯一の4割打者、イチローが破るまでルーキーの年間最多安打数記録保持者))」ではなくて「しなかったこと(八百長)」によってアメリカの歴史の中で語り継がれることになりました。問題の1919年ワールドシリーズの試合では誰よりも打ち(両チーム全選手の中で最高打率、最多安打記録を更新)外野からのファインプレーを連続させ、2度の別々の公判で「どの試合でもジョー・ジャクソンは八百長をしていない」と無罪になっているのに、それでも「シューレス・ジョー」は「アメリカの汚点(永久追放、名誉回復も野球殿堂入りも拒否、ことあるごとに悪いことの代名詞として扱われる)」扱いになったのです。
著者の父親は、1906年に6歳でアメリカに渡ってきました。彼がそこで「野球」(とジョー・ジャクソン)に出会い、球場でアメリカ人になることを学びました。
ブランドン紡績工場の野球チームに所属するジョー・ジャクソンは「ブラック・ベッツィ(本人専用の黒塗りのバット)」と「強烈なラインドライブのホームラン」と「センターの一番奥からバックネットを越える400フィートの遠投」で知られていました。1901年当時、大リーグは16球団だけ。地方都市にとっては「地元の我が球団」が熱狂の対象でした(もちろん大リーグが地方巡業に来たら大歓迎ですが)。グリーンヴィルは「自分たちのプロチーム」を設立しようとし、ジョー・ジャクソンも熱心に勧誘されました。
当時のファンはファナティックでした。野球は単なるゲームではなくて、宗教に近い存在だったのです。ジョー・ジャクソンがホームランを打つとスタンドでは帽子が回され、ファンは“ご祝儀”のコインを放り込みました(一本のホームランごとに、ジョーが工場時代に稼いでいた月給に近い金額が集まったそうです)。遠隔地のファンは、新聞社の掲示板の前に集まったり、劇場に集まってモールス信号で送られてくる“実況”の読み上げを熱心に聞いていました。パブリック・ビューの御先祖様です。
ジョーに対して否定的なファンもいました。少年時代から工場で働いていた(そして暇を見ては野球をしていた)ジョーは教育を受けていませんでした。それはあざけりの対象となります。また、新品のスパイクで靴擦れがひどかったためスパイク無しでプレイをしたことが1回だけあります。その「シューレス」もまた、あざけりの対象となりました。優れた選手を(野球以外のことで)馬鹿にすることで野球に関する満足感を得たい人は、どこにでもいるようです。
そしてジョーは、フィラデルフィア・アスレチックスと契約し、大リーガーになります。しかしベテラン選手たちのいじめに嫌気がさし、1試合に出ただけでジョーはさっさと故郷に帰ってしまいます(高校出の若手でさえ大学を卒業した選手から露骨に差別されていました。まして読み書きができないジョーがどんな扱いを受けたかは大体想像がつきます。実際に行われていたのは私の想像以上のことでしょうけれど)。結局南部リーグで大活躍をし、クリーブランドへ。そこでジョーを待っていたのは、こんどはマスコミからのいじめでした。「無教養な田舎者で図体がでかいだけの若造」という先入観を持った記者が、その先入観に合わせた中傷記事を書きまくり、それを信じた観衆は汚いヤジを飛ばしまくりました。
今のネットでも、少数の人間が先入観や思い込みから現実とかけ離れた憶測や決めつけを行い、それを信じた多くの人が汚いヤジを飛ばしまくる、という現象が起きていますが、人がやることは昔も今もそれほど変わりは無いようです。
ただしこういった行動には「動機」がありました。「超一流の実力を持った新人」は「既存の体制」には脅威だったのです。それを冷静に見つめ、記事にする記者もいました。ただ、実際にジョーのプレイを見た人たちは、その凄さに熱狂することになります。
ジョーが打つ打球(ライナー)はあまりに鋭く、取ろうとした内野手のグラブを手からもぎ取ったり、外野手直撃の2塁打なんてものまであるそうです。さらに、外野のフェンスを直撃して勢いよく内野近くまで戻ってきたため、2塁打にならず単打になった、なんてケースまで。守備も超人的で、センターの一番奥からバックホームをしてバックネットをダイレクトで越させる、なんてプレイも遊びで見せていました。
1917年アメリカ参戦。ジョーは徴兵検査で甲種合格となり、他の多くの野球選手と同様工場労働をしながら野球をすることにします。するとマスコミはジョーだけを名指しで「兵役忌避者」と非難しました。理不尽な非難に対しても黙って耐える有名人は、ジョーだけだったから、とフォン・コルニッツという人が弁護を買って出ていますが、そういった人は少数派でした。ただ、ファンはジョーのプレイに熱狂していました。楽しみが少ない戦時下、工場が休みの日に朝から酒を飲む労働者が多くいましたが、そういった人に野球観戦をさせることは月曜日の欠勤率を下げ戦時生産を維持する役に立っていました。つまりジョーは「お国の役に立っている野球選手」だったのです。
チームオーナーのコミスキーも、ジョーを非難する側でした。ただそれには「スターの給料を抑えるための戦術」という動機がありました。コミスキーは選手に成績に見合った給料をきちんと払わないことで有名だったのです(そのおかげでチームの採算は大きな黒字となり、チーム内の雰囲気は最低になったのですが)。実はこのマスコミとオーナーの「ジョーに対する非難」が、のちの“伏線”になっています。
そして「ブラックソックス事件」。著者は「八百長があってホワイトソックスがそれでわざと負けたのは確実だろうが、詳細は不明」と述べています。ジョーはたしかに八百長に誘われましたが彼は誘いを断りました。しかし野球賭博師はすでに「ジョーも承諾した」と仲間に言っていました。当時野球賭博は違法ではありませんでした。そして、八百長の噂はどんどん広がり、ホワイトソックスの掛け率はどんどん下がりました。それでも、二人のピッチャーは露骨に負けようとプレイをしました。しかしジョーは全力を尽くしていました。しかし「噂」を信じた人たちは「ジョーも八百長をしたに違いない」と決めつけたのです。
現実を見ずにジョーを否定する人々は、ずっと否定し続けるんだな、と私には思えます。そしてそれは「追放」以後も続きます。“その後”ジョーは実業家としてそこそこの成功を収めました。しかしマスコミは「追放されたジョーは、赤貧の生活」と書き立てました。「悪人が実業界で成功する」なんてことは認めたくなかったのでしょう。
もう、好きにしてくれ、と言いたくなります。いや、好きにしてはいけないのですが。
著者は本署をこう閉めます。「ジョー・ジャクソンの最大の過ちは、彼の純粋無垢さ(イノセント)にあったのだ」。そして、この世界でイノセントは、ある種の人たちにとっては「平気で踏みつけることができる人の弱点」でしかないようです。淋しい世界です。
45年くらい前だったでしょうか、「バイオリズム」というものが日本でちょっと流行りました。たしか誕生日を起点として、「身体」「感情」「知性」がそれぞれの周期でサインカーブを描いて変動する、というものでした。私も自分のリズムをグラフに描いてみましたが、どうみても現実の自分の状態と合わないのですぐにやめました。たとえ合っていたとしても、スポーツ大会の日程や学校の試験の日程は私のリズムに合わせてくれないのですから、知っても仕方ない、というのが当時の私の判断です。
【ただいま読書中】『時間生物学』海老原史樹文・吉村崇 編、化学同人、2012年、4800円(税別)
ニワトリの松果体は脳の高い位置にあり、頭蓋骨を通して光を感じているのだそうです。松果体はメラトニンというホルモンを夜間に分泌していますが、朝になったらたとえ網膜からの光刺激が無くても松果体は勝手に「目が覚める」わけです。
「光」が体内時計をリセットする強力な因子であることはけっこう知られていますが、「食事」も重要です。「定時の食事」によって概日リズムが同調していることが、齧歯類の動物実験で示されました。そういえば私も、休日で食事時間がずれると、寝付きが悪くなります。すると、休日でも食事のリズムはいつもと同じにしておいた方が、健康に過ごせる、ということになります。
「体内時計」とまとめて言いますが、哺乳類の「主時計(明暗サイクルへの同調、睡眠覚醒リズムや様々な生理機能のリズムに関与する時計組織)」は視交叉上核(SCN)にあることがわかっています。SCNでは「時計遺伝子」が発現していて体内の概日リズムを司っています。ところがこの「時計遺伝子」は、どの細胞も持っています。つまり「体内時計」は全身に(中枢にも末梢にも)存在するのです。それがわかったのは、1997年ショウジョウバエの研究からでした。末梢の体内時計は、動物によって光を感受するものと感受しないものとがあります。この差は、昼行性か夜行性かによるのではないか、という仮説があるそうです。
ちょっと不気味な記述もあります。老人になるとメラトニンの分泌が減る傾向があるのですが、これは外出機会が減って日光をたっぷり浴びなくなったせいかもしれない、というのです。実際にそういった老人にたっぷり日光を浴びる機会を与えるとメラトニン分泌量が増えました。ということは、現代社会では老人以外でも「日光を浴びない人」はメラトニン分泌が減っていて、体内時計のリズムが狂っている可能性があります。私自身、夜明け前に出勤してずっと室内にいて日没後に帰宅、なんて生活をすることがありますが、晴れていたら昼間にちょっと職場の外に出て風に吹かれて太陽を浴びた方が良いかもしれません。
「日」だけではなくて「年」「潮汐」「月」など、多くの生物は「リズム」として取り入れています。「地球のリズム」の下で進化した生物が、そのリズムを自分の生存に活かすのは当然の戦略でしょう。ただ、それを「時計遺伝子」として「形あるもの」にしている点に、進化の不思議さを私は感じます。
寒いというか、冷たさが窓や壁を通して私の身体を直撃しているような感覚です。暖房をかけてもかけてもちっとも温もりません。
熱は「伝導」「対流」と「放射」で伝わる、と小学校で習いましたが、もしかして「寒さ」や「冷たさ」も「放射」で伝わっています?
【ただいま読書中】『武者の世 ──東と西』福田以久生 著、 吉川弘文館、1995年、2500円(税別)
鎌倉時代の歴史書「愚管抄」を著した慈円はそこで「物ノ道理」「武者ノ世」という重要な言葉を使いました。慈円は一つの時代の区切り(画期)として「保元の乱」を位置づけ、それ以後は末世であるという歴史観を持っていました。そして末世の表れの一つが、「貴族(主人)に侍らう者(従者)であったはずの武者が歴史を動かす主人公にのし上がったこと」でした。
頼朝をもり立てた関東武士たちは、平氏に従いつつその隙をうかがっていました。しかし先に動いたのは木曽義仲。日本は一時「天下三分状態(東に頼朝、中央が義仲、西に平氏)」となります。頼朝はまず義仲追討軍を発し、その勢いで平氏を滅ぼしました。頼朝が建てた鎌倉幕府には、武家だけではなくて京下りの文官も多く含まれていました。頼朝は1184年に家のための家政機関として公文所を作りそれを91年に幕府のための政所に直していますが、公文所の時からそういった文官が盛んに活動していました。平氏滅亡の前から“準備”を始めていたわけです。
「東の武家政権」に露骨に対抗しようとしたのが「西の後鳥羽院」でした(後鳥羽院自身は「西」ではなくて「中央」と思っていたでしょうが)。かくして「承久の乱」が勃発、関東御家人の結束は後鳥羽院の予想外に固く、さらに院は「近臣の策謀」で逃げようとしましたが北条執権はそれを許さず、天皇廃立・三人の上皇が流罪、という過酷な処置を断行することで武家政権を確立させ、地頭配置を西国にも拡大させます。慈円はこの乱を「上ノ御トガ」と酷評しているそうです。
「京都」と「鎌倉」と東西に「中心」ができると、当然「交流」が盛んになります。その結果、東海道と中山道が整備されることになりました。また、貴族から武家への荘園支配の移行や武家の分割相続を巡っての紛争が全国で多発します。この訴訟は当事者にとっては大変ですが、荘園の農民たちにとっては「自分たちの力」を高めるチャンスでもありました。共同体としての「村」が力をつけ、さらに「悪党」が発生します。京都では「皇統」を巡る争いがあり、幕府はそれに巻き込まれますが、それによって御家人内に対立が生じます。鎌倉幕府の終焉が近づいています。ただしそれは「武者の世」の終わりではありませんでした。武者の世を終わらせるためには、もっと別の存在(町人や黒船)の出現が必要だったのです。
私がイメージするのは「ぽっとんトイレ」や「金隠し付きでしゃがんで使う便器」ですが、最近の地球では「暖房便座温水温風乾燥その他オプションたっぷり付きのトイレ」のことらしいです。
【ただいま読書中】『奇食珍食糞便録』椎名誠 著、 集英社新書、2015年、760円(税別)
安心して排便できる環境が整っている日本は、世界では“異色の存在”なのかもしれない、ということで、著者は世界中で排便して回ります。中国の公衆トイレには仕切りがありません。皆ずらっと並んでお尻を出しています。中国ではトイレは「開放」されているのです。(私が20世紀の最後頃に上海に行ったときには、ちゃんと個室でしたが、それは通ったコースが西洋文明化されていただけかもしれません。著者は21世紀になっても仕切りのないトイレで排便をしています)
排便の話は「下ネタ」に分類されるのかもしれませんが、「野生動物は排便時間はとても短く、始末に紙を必要としない」ということから「人間という動物についての考察」が展開されることもあります。中途半端なところで考察を終わらせるのが著者らしい、とは言えますが。
チベットの「開放トイレ」も中国とは違った強烈さを持っています。私はこちらはちょっと無理かもしれません。
南の島は「豚便所」でした。野糞をしようとジャングルに入ると、豚の群れがついてくるのです。目的はもちろん新鮮な便の争奪戦(ここでは人糞は豚の餌だったのです)。豚に見つめられながらの排便は、なかなか落ち着かないものだそうです。ところが数日経つと著者は豚たちに見放されてしまいました。味が気に入らなかった?などと著者は悩みます。しかしその理由は……
モンゴルでは、著者は排便中に犬に囲まれます。そういえば平安京では、路上の人糞は犬の餌でした(貴族の日記にその記述があります)。ではその犬や豚の糞は、誰の餌になるんでしょう?
世界各地の(標準的な日本人にとっては)過酷なトイレ事情を見ていると、「トイレ」を成立させるのは「ハードウエア(建物や便器や水洗などの設備)」だけではなくて「メインテナンス(清掃、故障時の対応)」であることがよくわかります。日本では公衆トイレと言えば、暗い・汚いのネガティブなイメージがつきまといますが、実は世界基準から見たら「とっても素晴らしいもの」のようです。
本書の後半は「出す」方ではなくて「食べる」方で、これまたけっこう強烈な食体験が並べられていますが、私は「出す」方だけでもう十分“お腹いっぱい”になれました。いろんな意味で“お得”な本です。
「昨日の空」を覚えていますか? そもそも、空を見上げましたか?
「今日の空」は、ほら、そこであなたの視線を、待っています。
【ただいま読書中】『新古今集 ──後鳥羽院と定家の時代』田渕句美子 著、 角川書店(角川選書481)、2010年、1800円(税別)
後鳥羽天皇が即位したのは、平家が安徳天皇と西に向かったあとでした。三種の神器を欠いた即位、都と西に天皇が存立、東の武家政権との関係、と難しい時代を後鳥羽天皇は生きることになります。天皇時代には思うように活動ができなかった後鳥羽院ですが、19歳で譲位して上皇になり、そこから「後鳥羽院の時代」が始まります。
和歌では伝統を重んじる「六条藤家」と革新的な新風和歌を目指す「御子左(みこひだり)家」とが対立していました。後者に属する藤原定家は冷遇されていましたが、正治二年(1200)後鳥羽上皇が定家に肩入れすることを明言。和歌の黄金時代である後鳥羽院歌壇が始まります。
著者はジェンダーの視点から、新古今集の時代には女性歌人の存在感が薄いことを指摘します。讃岐や丹後、式子内親王など、指折り数えることができる程度の女性歌人しかいないのです。これは平安時代とはちがって宮廷内で女房は“日陰の存在”になっていったことの反映なのかもしれません。平安時代も男女同権とは言えませんが、それでも女性はそれなりの表立っての活動をしていました。しかし武者の世になると、貴族社会も「男社会」になっていったのかもしれません。
建仁元年(1201)後鳥羽院は「和歌所(和歌を掌る役所)」を設置します。寄人(職員)に指名されたのは定家を含む新風歌人ばかりで、和歌所を中心に濃密な活動をおこないます。そしてそこを舞台に勅撰「新古今和歌集」が撰進されることになります。異例なことに、後鳥羽院は撰者を(定家を含む)6名も選びながら、政務を放り出して歌の選考過程に自ら深く関与し口を挟み続け、とうとう約二千首の歌をすべて暗記してしまったそうです。
後鳥羽院は「歌合(うたあわせ)」も大好きでした。実力主義で勝負させることでとにかく「良い歌(を詠める歌い手)」を求めていたようです。ところが時に開催される匿名での歌合では、判者は苦悩することになります。単に歌の優劣を決めるだけなら能力のある歌人ならそれほど難しくありませんが、中に後鳥羽院の歌も混じっています。これに「負け」をつけるのは、恐れ多いことなのですが歌い手が匿名の場合非常に難しいことになります。定家も「今日の歌合わせで、院の歌を負けにせずにすんだ。ほっとした」なんて日記をつけています。実力主義の世界は能力がない者には残酷ですが、能力がある者にも厳しい世界だったようです。
後鳥羽院は、和歌だけではなくて、蹴鞠・小弓・競馬・相撲・囲碁・将棋・双六などにも夢中でした。「勝負事」「競争」という共通点がありますが、だからその「共通点」を和歌の世界にも持ち込んだのかもしれません。ただ、そういった上皇の下で文化は興隆しました。有能な人間が上皇の周囲に結集し、宮廷には諸芸の家が確立します。
和歌所からはじかれた人々の中にも有能な人間はいます。その代表が鴨長明です。それ以外にも、後鳥羽院の趣味には合わないが優秀な歌人はいました。そういった人たちは“別の所”で活動することになりました。
そして「承久の乱」。後鳥羽院は隠岐に流され、その下に集まった人たちはそれぞれの運命を生きることになります。後鳥羽院は「我こそは新島守よ隠岐の海の荒き浪風心して吹け」と強気の歌を詠んでいますが、その心の底にはネガティブな感情が満ちあふれていたはずです。定家は本心を明かしません。承久の乱の前後「明月記」はみごとに欠落しています。ただ、定家が撰した小倉百人一首では99番目に後鳥羽院の歌が選ばれています。その内容が定家の(そして後鳥羽院の)心情を語っているのかもしれません。
人を攻撃することが大好きな人間は、権力者にはなれるかもしれませんが、賢者にはなれません。
【ただいま読書中】『淮南子』楠山春樹 著、 本田千恵子 編、明治書院、2007年、1000円(税別)
「淮南子(えなんじ)」は、紀元前140年頃(前漢武帝の頃)に成立したと言われる、諸子百家の説の美味しいところばかりを集めた「雑家」と言われる立場の本です。淮南国の王である劉安の下に集まった食客の説を劉安が編集した、と言われています。
「巻三 天文訓」では「まずカオスがあり、太始と名付ける。それが広がり宇宙を生じた。宇宙からは気が生じ、気の軽いものは集まって天となり、重いものは地となった。重いものが集まるのには時間がかかるから,天が先にできて地があとからできた(私の意訳)」なんて、まるで見てきたようなことが書いてあります。ここで旧約聖書の創世記を思い出す人が多いでしょう(こちらでも、初日はカオスで、「天」が作られたのは「第2日」、「地」は「第3日」です)が、日本書紀の天地開闢のところもそっくりです。人間の発想はどこでも似たようなものなのでしょう(日本書紀は淮南子をぱくったのだろう、が定説のようですが)。
宇宙に関するスケールの大きな話から、人生訓のようなものまで、いろいろなものが雑多に含まれていて読んでて飽きません。たとえば「朝礼の訓話のネタに困った」なんて人も、本書をぱらぱらめくったらいろんなアイデアが湧いてくるかもしれませんよ。
もしも「どう死ぬか」が選択できるのだったら、それはその人が「それまでどう生きたか」を反映するはずです。
【ただいま読書中】『地上最後の刑事』ベン・H・ウィンタース 著、 上野元美 訳、 早川書房、2013年、1600円(税別)
半年後に巨大な小惑星が地球に衝突し、大激変で人類は絶滅すると予測され、悲観した人々は次々自殺していました。そういった社会で、普通の自殺に見えた死体(名前はゼル)に奇妙な点があることから、ヘンリー・パレス刑事は殺人の疑いを持ちます。疑いを持っただけではなくて、捜査を始めます。半年後に滅びることが確実な世界の中で。「自殺に決まってるだろ。何をやってるんだ?」という周囲からの奇異の目にもめげずに。
いやあ、なんとも魅力的な舞台設定と登場人物です。これが普通の世界を舞台にしていたら、ごく普通の警察小説になるしかなかったでしょう。しかし「半年後に亡びる」という設定が、それだけで舞台そのものを「ハードボイルド」にしています。だからその舞台ではごく普通の行動をしてもその行動は異様な波紋を描くことになります。
パレス刑事に協力してくれる同僚はいません。こんな時代に、なぜ熱心に職務に励むんだ?と。だから刑事は一人で靴をすり減らしながらこつこつと事件に取り組みます。
地球は不安と恐怖の「影」に覆われています。そして、パレス刑事にも「陰」があります。それが何に由来するものであるか、私はページをめくりながら追い求めることになります。
手がかりはベルト。マクドナルドの身障者用トイレで首を吊るのに使われたのは、ゼルの身なりとは不釣り合いな非常に高級なベルトだったのです。刑事は、ゼルの職場、アパート、姉の家を次々訪問します。何を探しているのかはわかりませんが、何かを見つけなければなりません。
訪問先で得られた質問に対する答には、嘘と「人類滅亡」が常にくっついています。さらにパレス刑事は時々「あなたは自殺を考えていますか?」とも聞きます。これはきっと彼が、自分はなぜ自殺しないのか、自分はなぜ真摯に仕事をしているのだろう、と不思議に思っているからでしょう。
ついに「ゼルは自殺」で話は決着します。95%はそれで間違いなさそうです。しかし、残りの5%は?
そこでパレスはやっと気づきます。終末が迫る地球で、殺人をしたくなる動機として,何がある? そう、殺人事件を成立させるのは「動機」と「手段」なのです。そして事件は(その他の諸々も)大きく動き始めます。刑事は(恐らく人生最後の)恋に落ち、刑事の妹は無分別なことをしでかそうとし、新しい死体が見つかります。滅びようとする世界の中でも、ただぼんやりと死を待つのではなくて精一杯「生きよう」とする人々がいたのです。問題は、その努力をする人の中に、犯罪者もいたことですが。
番組が何だったかは忘れましたが、「明日死ぬのなら、最後の晩餐に何を食べたいか?」をテレビで聞いていたことがあります。それと同様に「半年後に死ぬことが確実なら、崩壊しつつある社会の中でどう生きるか?」の問いを本書で読者は突きつけられます。本書はエンターテインメントですよねえ。だけど、とっても思索的なエンターテインメントです。三部作の第一作だそうですが、図書館に残りがあるかどうか、今から捜索です。
「エネルギー」って、「日本語」ではどう言えばいいんでしたっけ?
【ただいま読書中】『エネルギーの科学史』小山慶太 著、 河出書房新社、2012年、1300円(税別)
「熱とは何か」という問いに対して、1724年オランダのブールハーヴェは「カロリック説」を唱えました。カロリック(燃素)という重さのない流体が流れ込むことで熱膨張がおきる/カロリックの密度が高いところから低いところに移動するのが熱伝導/摩擦でカロリックが絞り出されるのが摩擦熱、というなかなかエレガントな説です。ラヴォアジエは『化学原論』(1789年)で33種の元素の一つにカロリックを含めました。しかし1798年ランフォードは、砲身の中ぐり作業で摩擦が続くかぎり熱が発生する(=カロリックが無限にあるということになる)現象に注目し、「熱は運動である」と提唱します。しかし「分子や原子の運動」が言われるようになるのは19世紀後半、そのためランフォードも「運動の主体」は名指しできず、しばらくの間、二つの説は共存することになります(地動説と天動説もしばらく共存していたことを私は連想します)。
異なる金属の接触で電流が生じてそれに吊された蛙の脚が痙攣することを発見したのはガルヴァーニでした。彼は「動物電気」を唱え、そこから『フランケンシュタイン』と「ヴォルタの電池」が生まれることになります。電池の研究から電気分解という技法が生まれます。さらに電気と磁気の間に関係があることがわかってモーターや発電機が開発され、さらに電磁気学と光学が融合して20世紀の通信革命をもたらすことになります。
1895年レントゲンは偶然X線を発見しました。それを知ったベクレルは関連の実験をするつもりで偶然「ウラン鉱石が放射線を発生する能力(放射能)を持っていること」を発見してしまいました。電気の歴史でも「偶然の連鎖」がありましたが、ここでも「偶然」が連鎖しています。なお「放射能」はマリー・キュリーが提唱した言葉で、「半減期」という概念はキュリー夫妻の論文から始まっています。それまでの「エネルギー」は、基本的に人の目で確認できるものを扱おうとしていました。しかし20世紀からは原子核の内部という「目では絶対に見えない領域」に科学の手が入っていくのです。
そういえば「原子論(物質は原子でできている)」が定着するようになったのも20世紀前半のことでしたね。
反物質、ディラックの海、ヒッグス場、と話はどんどん進みます。「真空」は「空っぽ」だったはずなのに、粒子やらエネルギーやらが満ちている「場」になってしまいますが、かつて真空に「エーテル」が充満していた(と信じられていた)ことを覚えている私としては、「結局真空には何かがつまっているのね」と呟きたくなります。「自然は真空を嫌う」という有名な言葉がありますが、実は「人は真空を嫌う」のかもしれません。私も真空は好きではありません。何が詰まっているにしても、私は息ができませんから。