瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

思考と瞑想の心理学08:無意識の選択作用

2010年07月05日 | 思考と瞑想の心理学
「目的のある思考」と違って「散漫な思考」の場合は、内外の様々な刺激からの連想によって思考の対象と内容は次々と変化していく。そこにはとくに「何々のために」という意図や目的はない。突然、われにかえって「今、どうしてこんなことを考えていたのだろう」と自問しても、答えられない場合も多い。つまり自分の思考について「無自覚」なのである。

「散漫な思考」は、一瞬一瞬移り変わっていくので、ほとんど記憶にすら残らない場合も多い。試して見れば分かると思うが、一瞬前に何を考えていたのかも覚えていない場合がある。それほど無自覚なのである。

「散漫な思考」は連想によっていくらでも展開し、拡散していく。何かの音をきっかけにして、それに関係する何らかの想念が浮かぶ、さらに、それに関係のある次の想念が浮かぶ、そして、それが延々と繰り広げられていく。

ところで、ある音(たとえば自転車がブレーキをかける音、救急車のサイレン‥‥)から、何を連想するかは、かなり大きな選択幅があり、人によって、場合によって様々である。そこに、無意識的な選択作用が働いている。

Aという外的刺激や自分の想念から、B、C、D‥‥のうちどの想念が連想されるかは、その人の心の中の無自覚な関心や執着に負っている場合が多い。だからこそ「連想」は、無意識を探求する大切な手がかりとなるのだ。精神分析でいう「自由連想法」は、もちろんこの考え方に基づいている。

ところでAという刺激や想念から、B、C、D‥‥のいづれかを連想した場合、直後に振り返れば、B、C、D‥‥のいづれであろうとAとの何らかの関連があって連想したのだと自覚できる場合もある。C、D‥‥はなくてBが選択された理由までは分からないにしても。

しかし、Aとの関連がまったく分からないような場合もある。たとえば急に3年前の旅行で見たある光景が浮かび上がったとする。しかしその直前の思考や外部刺激との関連がまったくつかめないような場合である。これは、無意識の世界では何かしら関連がありながら、本人にはまったく自覚ができないというケースである。日常的な思考を観察しているとこういう場合もかなりあると思うが、どうだろうか。

ともあれ私たちは、毎日、自分の中の無意識の力に突き動かされ、膨大な想念・思考を繰り返している。しかもそのほとんどが無自覚のうちに浮かんでは消えていく。そして、日常生活の大半を占めるこのような思考こそが、「私」という観念や、私のパーソナリティに深く関係している。だからこそ、私たちは、日常的な「散漫な思考」の特徴をもっと明確につかんでいく必要があるのだろう。
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思考と瞑想の心理学07:「自覚的」「無自覚的」

2010年07月04日 | 思考と瞑想の心理学
現在行っている作業は、とりあえず自己観察に基づいて日常的な思考をおおまかに分類することである。分類された概念は、まだ充分に吟味され、その意味内容が明確にされたものではない。作業仮説としてとりあえず提示したに過ぎない。

とりあえず提示された概念(たとえば「目的をもった思考」と「散漫な思考」)について、その意味内容を検討し、相互関係を明確にする。また関連領域との関係や関連する概念との異同を明らかにしていく。

また先行する関連研究があれば、それとの関係や違いも明らかにしていく。こうした作業を繰り返すことで、提示された概念の意味内容が精確化され、概念相互の関係も明確にされていく。その過程で日常的な思考の構造も徐々に明らかにされていくであろう。

そこで次に、「目的をもった思考」と「散漫な思考」の違いを「自覚的」「無自覚的」という述語を用いて検討したい。

「日常的な思考」の性質や構造を考えていくうえで重要な役割を果たすのが「連想」だろう。「散漫な思考」が、次から次へと対象や内容を変化させていくのは、外的な刺激や、直前の思考そのものなど、様々な対象からの連想によるだろう。そして、ある刺激から次に何を連想するのかについては、いろいろな選択の可能性があるはずだが、ともあれ特定の何かが連想されていく。そして、ある可能性の幅の中から何が選ばれて連想されていくかという、そのプロセスについては、ふつう無自覚的である。さらに、そのつどの思考のテーマについても無自覚的である。つまり「いま私は何々について思考している」というような自覚化はほとんどされないし、されにくい。

「目的のある思考」の場合はどうだろうか。街を歩いている時に、向こうから歩いてくる人が、携帯で誰かと話していたとする。そこから連想が働き、「あ、B氏に連絡をするのを忘れていた」と思い出す。この連想もほぼ無自覚的になされたと言ってよいだろう。

しかし、次にこう考え始める。「そうだ、あの件はかなり難しい問題をはらんでいるから、よほど誤解のないようにうまく説明しないとな。うん、まずは、こう言って……」などと思考を続けていくのである。これはもちろん「目的のある思考」である。ここでは考えるべきテーマが特定され、自覚化されている。つまり「B氏に誤解のないように話すには」というテーマが自覚的に特定され、それを巡って思考がしばらく続くのである。このテーマに集中している限りでは、連想によって思考対象が、恣意的に、無自覚的に移り変わっていくことはない。

もちろんここにも程度の問題がある。「自覚的」「無自覚的」という区別も、曖昧領域を含んでいる。B氏との用件の場合にも、「いま、私はこの件について考えている」という言語化された自覚がつねにあるわけではない。しかし、少なくとも一度は、「この件をしっかり考えておかなくては」という、意図の自覚があったはずである。程度の差はあるが、何を何のために考えているのかという意図の自覚が「目的のある思考」の特徴だといえよう。つまりそこには、もし聞かれれば答えることのできる「思考目的」の自覚が、多かれ少なかれあるということだ。
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思考と瞑想の心理学06:「目的のある思考」「散漫な思考」

2010年07月03日 | 思考と瞑想の心理学
これから日常的な思考の様々な側面を考察していきたい。まずは、自己観察から日常的な思考を大雑把に分類してみよう。分類の仕方も視点によって様々であろうが、私がまず思いつくのは、「目的のある思考」と「散漫な思考」である。

例を挙げよう。駅を降りて職場に向かって歩いているとする。職場での今日の段取りを考える。「まずはあれを終わらせ、次にあの件を部下に説明して行わせる。そうだ、こっちの件はA氏に確認をしてから手を打たねば‥‥」 

これは「目的のある思考」である。日常のなかで誰しも公私にわたって様々な仕事、課題、目的をもっている。大小様々あるだろう。それらについて適切な手段、方法を検討したり、迷いつつ条件を考慮して選んだり、という「目的を実現するための思考」である。重要な仕事上の思考から、「今日は妻の帰りが遅い。夕飯はどうしようか」というような日常些事にまつわる思考もあるだろうが、いずれも目的や課題がはっきりしており、それを実現したり、解決したりするための思考である。この場合は、思考の主題は、程度の差はあれ明確に存在している。

ところで、職場に向いながら今日の段取りを考えていると、急にセミの声が耳に入ったとする。小さな公園を通り過ぎたのである。「ああ、セミがないている」と思い、そこからつい先日の同僚との会話を思い出す。仕事中、外で急にセミが鳴きだし同僚は、「おう、今年始めて聞くセミの声だ」と言ったのである。そこからその同僚との別の会話を思い出す。「そういえば彼は先日あんなことを言っていたが、あれは皮肉っぽい言い方だった、そういえばあいつはときどき皮肉な言い方をする」という風に、次々と連想が始まるのである。さらに別の友人が自分に向かっていった皮肉を思い出したりする。こんな風に連想は延々と続いていく。

これが「散漫な思考」の例である。「目的のある思考」と「散漫な思考」は、とりあえず自己観察からこのように分類してみた。もちろん他の分類の仕方もあろうが、目的のあるなしという視点から仮にこのような分類もできるだろうということである。

日常の中では、二つの思考の間の境界は曖昧な部分もあるだろう。しかし、一般的に言ってどちらの思考が多いだろうか。これは、今のところ私の主観でしか言えないのだが、圧倒的に「散漫な思考」の方が多いのではないだろうか。外部の刺激や連想によって次々と内容やテーマが変化し、取りとめのない思考である。これをいわゆる「雑念」と言ってもよい。

しかし、極端な言い方をすれば、その「雑念」の内容、質が、その人のパーソナリティを規定していると言ってもよい。いや、逆にパーソナリティがその個人の日常的思考の内容を規定していると言えるのかもしれない。複雑な相互作用があるとも言える。「散漫な思考」こそが、人間の「自己」、パーソナリティ、感情、無意識等々との関係において、きわめて重要な意味をもっているはずである。これらの関係を追求することは、厳密な研究のテーマとなるはずだが、今のところそのような本格的な研究はないように思える。
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思考と瞑想の心理学05:二つ目の盲点

2010年07月02日 | 思考と瞑想の心理学
日常的な思考が私たちにとっての盲点になっている、ということには二重の意味があると、最初に書いた。ひとつは、まさに私たち自身が、自分の脳内おしゃべりに充分気づいておらず、多くの場合は、半ば無意識に、受動的におしゃべりが続き、時には強迫的に同じテーマをくりかえし考えている、ということだった。そして大切なことは、その受動的なおしゃべりの内容が、私たちのあり方を規定し、人格の質を決定しているということだ。無意識の思考がエゴを形づくり、強化している。「自分の思考」という思考との同一化がエゴの実態だろう。無自覚な脳内おしゃべりが、私たちの「無明」を、迷いの世界を形づくっている。

二つ目の意味は、学問的なものだ。これほどに多くの時間を脳内おしゃべりに費やし、しかもそれが、私たちの人格にとって決定的な意味をもっているにもかかわらず、日常的な思考のあり方を真正面からテーマして研究する現代の学問分野がない。私たちの日常のこれほと基本的な営みであるにもかわらずである。思考心理学というのはあるようだ。しかしそれはあくまで意図的、意識的な思考のあり方を研究するもので、私たちの誰もがひまさえあれば行っている日常的な思考を研究するものではない。

なぜなのか。まさに盲点だからなのだが、ではなぜ盲点なのか。おそらく私たちのあまりに主観的で、しかも日常の意識にとって盲点になっている営みなので、学問的な研究の対象になりにくいからだ。瞑想を行えば、私たちの日常的な思考のあり方がある程度見えてくるが、瞑想を行うなどしなければ、私たちの頭の中をたえず流れている思考のざわめきを問題としてとらえることもないだろう。ましてや、学問的な研究の対象として捉えることもない。

4年前に別ブログで同様の内容をアップしたとき、いくつかのコメントを頂いた。たとえば、初期仏教が日常的な思考を詳しく研究し、これらを「浄心所25種、不善心所14種、同他心所13種に分類している」ということだ。もちろん仏教は、「迷いから悟りへ」を目指す以上、迷いの世界の分析にも並々ならぬ情熱を注いできた。ただ問題は、現代心理学が現代の研究成果を参照しながら、私たちの意識の大部分を占めている「日常的な思考」のあり方を、なぜ研究対象としないか、ということなのだ。

また、認知行動療法やポジティブ心理学は「日常的思考」を扱っているのではという別のコメントを頂いた。しかし、これらは全体として常態での「日常的思考」を対象とするのではなく、特定の症状の治療や特定の目的という限られた視点から取り扱っているに過ぎないのではないだろうか。これらを何らかの形で参考にしていくことは、もちろん大切であるが。
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思考と瞑想の心理学04:夢と似る日常的思考

2010年07月01日 | 思考と瞑想の心理学
以下は、2009年の7月30日にこのブログにアップした内容を、少し整理したもの。瞑想と思考の心理学のシリーズに関係が深いので、ここに組み入れてみた。次回分も同様である。

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日常くりかえしくりかえし行っている脳内のおしゃべりは、私たちにとって二重の盲点となっている。

私たちは、日常たえず脳内おしゃべりを続けながら、その事実およびおしゃべりの内容にほとんど無自覚だ。それが第一の盲点である。

たえず脳内の独り言を続けているという事実そのものに無自覚である場合もあるが、たとえその事実に気づいても、その内容についてはほとんど無自覚である場合が多い。「そんなはずはない」と思うなら、数分前、いや一分前に自分が考えていたことを思い出してみるとよい。ほとんど忘れている場合が多いだろう。

なぜ無自覚の脳内おしゃべりが問題となるのか。それがほとんど受動的に続けられていく習慣性の思考だからだ。同じようなことをくりかえしくりかえし考えながら、そのくりかえしに気づいていない。そして何回もくりかえされる脳内おしゃべりにこそ、本人が無意識のうちに執着している何かが隠されている。

私たちの脳内おしゃべりは、なかば夢に似ている。多くの場合それは、何かを意識的に考えようとして始まるのではなく、自分の自覚的な意図とは関係ないところで始まり、展開していく。夢が自分の意図とは関係なく展開していくように。

脳内おしゃべりが展開する仕方にはいくつものパターンがあるだろう。よくあるパターンをひとつあげてみよう。

(1)家の外のクラクションの音→(2)クラクションの音に関係する思い出Aのこと→(3)その思い出にかかわる人物Xのこと→(4)人物Xにかかわる別の思い出①‥‥‥

こんな風に思考が展開していったとしよう。きっかけはクラクションの音だが、そこからなぜ思い出Aが連想されたのかは、多くの場合、無自覚だろう。思い出BやCが思い出されず、Aだったのはなぜか。意図的に振り返れば理由がわかるかもしれないが、わざわざ振り返ること自体が特殊ケースだろう。多くは、無意識のうちにAが連想されるのだ。(3)の人物Xについても同じことが言える。人物YやZが連想されても不思議ではないが、なぜXだったのか。これも無自覚のうちの連想だ。

このようにして無自覚のうちに、次から次へと連想が展開していく場合が、日常的な思考の多くの部分を占めている。その意味で日常的な思考は、同じように無自覚のうちに展開していく夢に似ている。

夢と日常的な思考は、似ていない部分もある。夢はイメージ中心に展開するが、脳内おしゃべりは、言葉による。しかし、ぼーと何かを考えているうちにイメージの展開が中心になっていたなどということもあるだろう。ハッと我に帰って今日の仕事の段取りを考え始めたとすれば、それは意図的な思考となる。

結局は、私たちは絶えず脳内おしゃべりを続けていながら、そのおしゃべりについて、無自覚で受動的だということだ。自分で充分コントロールもできず、なかば気づくこともない何かが、頭の中でたえず活動しているのに、とりたててそれを問題にしない。問題にする必要も感じていない。それが「盲点」という言葉で言いたかったことだ
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