瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

母性社会日本の意味(1)

2020年10月17日 | 普通の日記
いま、「日本文化の母性原理とその意味」という論文を書いており、ほぼ完成した。ある紀要に発表する予定だが、ここではその結論部分だけ、二回に分けて掲載しようと思う。

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戦後における日本人論、日本文化論は、R.ベネディクトの『菊と刀』で、日本の文化を「恥の文化」とし、西欧の「罪の文化と比較したのに始まると言ってよよいが、それは同時に二類型による比較文化論の代表例でもあった。この本は今日まで読みつがれ、またこの本に影響を受けたり、それを批判的に乗り越えようとするなどして、その後様々な日本人論が生まれた。母性原理の日本を論じる本稿とこの本の主題は、直接関係しないのでその内容にまでは立ち入らない。しかし、ベネディクトが、日本を「恥の文化」と捉え、西欧の「罪の文化」は内面的な行動規範を重んじるのに対し、恥の文化は外面的な行動規範を重んじるとしたとき、そこに価値判断が忍び込んでいたのは確かなようだ。恥という外面的な行動規範より、罪という内面的な行動規範のほうが優れているという密かな価値判断が見え隠れするのである。さらに言えば、「罪の文化」には、内面的で自律的な行動規範を重視する「近代的自我」に対応し、「恥の文化」は、外面的で他律的な行動規範に影響される「非近代的自我」が対応する。そしてベネディクト以来の、欧米人による多くの日本人論がまた、このような欧米的な価値観を基準にした分析だったのも確かである。

欧米の研究者だけではなく日本人の研究者が日本の社会や文化、そして日本人のこころの在り方を論じるときにも、西欧的な価値基準を絶対視し、それによって日本の在り方を論評するという姿勢から自由になっていない場合がいまだに多い。特に「近代的自我」は、近代民主社会の基盤としてほとんど絶対視される傾向があった。近代的自我を唯一の正しい在り方として捉えるかぎり、日本人の自我の在り方が批判的にしか見れないのは当然であろう。そこから「日本人には自我がない」とか、自己主張が弱く集団に埋没するだとかいう批判が生まれる。

しかし、日本人の自我が西欧人の自我に対して発達が遅れた劣ったものする見方は危険である。すでに見たように日本人は、外(他人)に対して自分を社会的に位置付ける場合、資格よりも場を優先する。資格によるヨコのつながりよりも、会社や大学などの枠(場)の中でのつながり(タテの序列的な構成になっている)の方がはるかに重要な意味をもっている。日本人のアイデンティティは、その個人が所属する「場」によって支えられる傾向がある。そして日本人の自我は、つねに「場」に開かれており、「場」との相互関係のなかで変化する。自他の区別は弱く、自我は曖昧な全体的関連のなかにあり、また自らの無意識との切り離しも強くない。そしてこの事実は、すでに確認してきたように、日本が縄文時代に深い根をもつ母性原理の強い社会を歴史的に形成してたことと深く関係し、この母性原理の社会こそが、日本人の自我形成の基盤となっている。

一方、西洋で生まれた「近代的自我」は、父性原理の一神教、とくにキリスト教の伝統を背景にして生まれたと言えよう。「包含」よりも「切断」を特徴とし、物事を明確に区分する父性原理の思考法は、個の独立という考え方と結びつきやすい。しかし、もちろん最初から個人主義や近代的自我が確立されていたのではなく、キリスト教の伝統が根強かった中世には、個人の意思や欲望が尊重されていたわけではない。父性原理の宗教の基盤の上に、絶対的な神との長い関係と戦いの中で、徐々に人間の自由意志や主体性を確立するに至った。父性原理的な宗教の伝統の中にあり、それに支えられていたからこそ、「個人」の重要性を認識するようになったのだろう。

ここで、本稿の冒頭近くで触れたことをもう一度確認したい。「母性原理」と「父性原理」にしても、あるいは「母性宗教」と「父性宗教」にしても、それは価値的な優劣を意味するものではない。現実の宗教そして文化は、両要素がさまざまに交じり合い融合しており、ともに重要な働きをなしている。どちらが強く働いているかの違いがあるだけである。だとすれば、父性原理をその背後にもつ「近代的自我」を基準として、母性原理に根差す「日本的自我」を一方的に批判するのは、あまり生産的とは言えないでろう。

★最近、筆者がアップロードしたYouTube動画もご覧ください。

→ Kiyosumi Garden・清澄庭園

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《関連図書》
日本人にとって聖なるものとは何か - 神と自然の古代学 (中公新書)
ユニークな日本人 (講談社現代新書 560)
日本の曖昧力 (PHP新書)
日本人の人生観 (講談社学術文庫 278)
古代日本列島の謎 (講談社+α文庫)
縄文の思考 (ちくま新書)
人類は「宗教」に勝てるか―一神教文明の終焉 (NHKブックス)
山の霊力 (講談社選書メチエ)
日本人はなぜ日本を愛せないのか (新潮選書)
森林の思考・砂漠の思考 (NHKブックス 312)
母性社会日本の病理 (講談社+α文庫)
日本人とユダヤ人 (角川文庫ソフィア)
アーロン収容所 (中公文庫)
肉食の思想―ヨーロッパ精神の再発見 (中公文庫)
日本人の価値観―「生命本位」の再発見
ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

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日本文化と精神世界

2020年10月11日 | 普通の日記
最近、日本文化の特徴を以下の9項目から総合的に把握する視点で、この項目に即して論文を書いている。(1)を昨年発表し、今は(3)にかんするものをまとめている。この9項目の中で注目してほしいのは(9)だ。日本文化の精神性について論じるものだ。このブログのテーマにに深く関係する。私の中のふたつの関心、つまり精神世界と日本文化がここで重なる。この9項目の全部を論文にまとめるのは少し先の話になると思うが、日本文化の精神性についても少しづつまとめていきたい。ほかの項目については、他のブログで論じていたのだが、(9)の内容はこのブログのテーマに重なるので、おりおりここでも触れていこうと思う。

(1)日本文化は一貫して、宗教などのイデオロギーによる社会と文化の一元的な支配がほとんどなく、また文化を統合する絶対的な理念への執着がうすかった。 その相対主義的な性格は、以下の項目と密接に関連して形成された。

(2)漁撈・狩猟・採集を基本とした縄文文化の記憶が,現代に至るまで消滅せず日本人の心や文化の基層として生き続けている。

(3)ユーラシア大陸の父性的な性格の強い文化に対し,縄文時代から現代にいたるまで一貫して母性原理に根ざした社会と文化を存続させてきた。

(4)ユーラシア大陸の穀物・牧畜文化にたいして、日本は穀物・魚貝型とも言うべき文化を形成し、それが大陸とは違う生命観を生み出した。

(5)大陸から海で適度に隔てられた日本は、異民族により侵略,征服されたなどの体験をほとんどもたず、そのため縄文・弥生時代以来,一貫した言語や文化の継続があった。

(6)大陸から適度な距離で隔てられた島国であり、外国に侵略された経験のない日本は,大陸の進んだ文明の負の面に直面せず、その良い面をひたすら尊崇し、吸収・消化することで,独自の文明を発達させることができた。

(7)海に囲まれ,また森林の多い豊かな自然の恩恵を受けながら、一方で,地震・津波・台風などの自然災害は何度も繰り返され、それが日本人独特の自然観・人間観を作った。

(8)西欧の近代文明を大幅に受け入れて、非西欧社会で例外的に早く近代国家として発展しながら、西欧文明の根底にあるキリスト教は,ほとんど流入しなかった。

(9)「武道」、「剣道」、「柔道」、「書道」、「茶道」、「華道」や「芸道」、さらには「商人道」、「野球道」などという言い方を含め、武術や芸事、そして人間のあらゆる営みが人間の在り方を高める修行の過程として意識され、それが日本文化のひとつの大きな特徴をなしてきた。

9番目の内容については、「道」の文化という日本文化の大切な遺産を、ほとんど忘れかけているのかもしれない。言葉としては残っていても、その内実を現代人はほとんど受けついていないのではないか。その負の面をも含め、もう一度私たちはこの大切な伝統を思い起こし、その良い面を積極的に現代日本に生かしていくことが、今後の日本の社会にとってきわめて重要なことだと思う。

私のYouTube チャンネル「Spiritual Japan」の最新の動画はこちら 

最新の動画 → Kiyosumi Garden・清澄庭園

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臨死体験の本の内容をYouTubeで発信?

2020年04月16日 | 普通の日記
葛飾区立石の桜通り


しばらくこのブログも更新していなかったが、このフォットチャンネルという機能ができているのを知って、これを利用しながら再開してみるのもいいなと思った。最近は、海外向けにツイッターやフェイスブックで発信するのが中心になっている。またここ数週間はユーチューブにもチャレンジしている。そんな活動を紹介しながら自分の心境を語ってみるのもいいなと思ったのである。

ツイッターも海外向けだし、ユーチューブも外国の人々を対象に考えている。とすると英語が問題になるのだが、ここ数回、実験的にユーチューブで発信してみて、英語での発信に少し自信を得た。これで今後、ユーチューブ発信にかなり本格的に打ち込めると思った。何を発信するのかというと、一つは、かつて出版した「臨死体験研究読本」の内容を要約したものを何十回かのシリーズで発信するというものである。実は、すでに一つ、それ関連の動画を投稿し、地味だが着実に見る人が増えているのである。かなり共感したというコメントも2・3もらったので、きっと耳を傾けてくれる人はいると自信をもったのである。英語発信である程度、視聴者を得たら、日本語で発信するのも面白いかなと考えている。

ところで、上の立石の桜は、ユーチューブの動画としても投稿している。以下の動画である。
   ⇒ Cherry Blossoms in my Neighborhood(わが町周辺の桜並木)
ただしこれは英語でのナレーションはなく、動画のみである。

英語のナレーションがあるのは、たとえばこれ。Why do Japanese love cherry blossoms?

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現実を打ち破る夢

2013年12月24日 | 普通の日記
今年は、高校3年生を教えている。卒業文集の原稿の依頼が来たので、次のような文を書いた。文集が出来るのは卒業直前だろうが、偶然私の原稿を見たという若い先生が私のところへ来て、感動しましたと伝えてくれた。その原稿とは以下のようなものだ。

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「現実を打ち破る夢」

夢が現実によって打ち砕かれることはいくらでもある。しかし、夢が現実の壁を打ち破ることだってある。夢を持ち続けてこそ、それが現実になっていく。

どうすれば夢がそれだけの力をもつのか。「創意工夫」は、その答えの一つだと、今の私には思える。

私は、創意工夫が好きだ。たとえば勉強での創意工夫。勉強なんて嫌いと思うなかれ。知識をばかにする風潮が今の若者にはあるという。しかし、日本をここまで築いてきた先輩達がどれほどの情熱をもって新しい知識を吸収してきたか。だからこそ、日本はいち早く明治維新をなしとげ、めざましい発展を遂げた。

そんな大きな話でなくとも、君たちがこれから社会に出て、知識がどれだけ人生を豊かにするか、思い知るだろう。自分自身の創意工夫があれば、勉強は楽しくなる。これは私の実感だ。たとえば本を読みっぱなしにせず、小さなノートに大切なところを抜き書きする。あとからそれを数回読む。これだけで知識は確実に身につく。人との会話が楽しくなる。人脈が広がる。様々な意味で、それが君の人生を豊かにし、夢を実現する力になる。

自分なりの創意工夫をし続けることで、夢に現実を打ち砕く力を与えよう。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

その若い先生が、「いつかゆっくりお話しを聞かせてください」とのことだった。もし「創意工夫」のことを知りたいのなら、私はほかにどんな創意工夫をしているだろうと思った。ノートを取るというのはもう何年も続けている。読みっぱなしにすると残るものがあまりないが、小さなノートにメモを取り、気軽に持ち歩いて何回か読み直すと確かに頭にしっかり残る。

他にやっている主なことは、インターネットを自分なりに利用していることだろう。今は主にクールジャパンのブログの方で、日本文化関係の読んだ本については、その本に触れながら自分の論も展開するという形でアウトプットするので、その意味でも読みっぱなしにならない。

ツイッターは、インターネット上のニュースを小まめに見て、関心のあるもものは、かんたんなコメントをつけてツイートするようにする。ただ記事を読むより能動的な行為なので、これも自分なりの視点の世の中の動きを見る訓練になる。

ともあれ、私は自分なりの「創意工夫」をすることが好きだ。元来不器用な人間だが、少しずつ工夫を積み重ねることで、少しづつ改善していくというのが好きだ。それを続けているかぎり、たとえわずかでも毎年成長していくのを実感する。

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実践コミュニケーション

2013年05月05日 | 普通の日記
現在、埼玉県の高校で週2日半、「政治経済」と「国際関係」を教えている。これまで「現代社会」や「世界史」を教えてきた蓄積があるので、それらの経験を活かしながらともに楽しく教えている。時間的な余裕があるので準備に充分時間を使ってあれこれ工夫ができ、自分の勉強にもなるので、教えることがすごく楽しい。それに最近の高校生は、全体としてすごく落ち着いてきていると感じる。これについては追って書いてみたいが、ともあれ授業でほとんどストレスを感じない。

また一昨年から都内のある短大で「実践コミュニケーション」という講座をもっている。これは週に一回、それも後期だけなので本年度はまだ始まっていない。講座名通り、ほとんど実践というか演習を主とするものだ。その内容については以下のブログに少し実践内容を報告してある。→実践コミュニケーションの講義をめぐって

これもある程度、演習内容の蓄積ができてきたので、本年度はさらに改良して楽しくできそうだ。

本年度、新たに取り入れてみたいのは、ロールプレイ的な要素を取り入れた演習だ。これまでもペアを数分ごとに次々と変えながら「雑談力」を鍛える演習をしたりしていたが、本年度はこれをさらに発展させて、たとえば一方が幼稚園児や小学校低学年の子どもの役割をおこない、子どもとコミュニケーションをとる演習をしたり、さらには一方が老人の役割を演じ、老人とのコミュニケーションの演習をしたりすることを考えている。子ともとのコミュニケーションのロールプレイでもいくつかのバリエーションが考えられる。たとえば落ち込んでいる子どもとのコミュニケーションのロールプレイは、次のステップへの橋渡しとなるだろう。

これらをウォーミングアップとし、最終的には一方が何かでひどく落ち込んだ人の役割を演じてもらう。その場合、会話の内容はフィクションでよいが、自分が落ち込んだ時の状態を思い出しながら実感を込めてロールプレイをしてもらう。こうして落ち込んでいる相手との深いコミュニケーションをとる演習をするわけだが、一方落ち込んだ人を演じる人も、ある程度自分の体験をもとにするので、期せずして自分の内面に直面する体験にもなる。

これまでの演習の実践から、学生たちは表面的なコミュニケーションの演習にはほとんど抵抗なく入ってくるが、少し個人の悩みなどに話題を深めて演習をしようとすると、あまり話が深まらない傾向が強かった。しかし、以上のようなロールプレイをしながら、段階的に深いコミュニケーションに進んでいけば、学生もあまり抵抗がないのではないか。

落ち込んだ人を「演じる」という形で、しかも自分の落ち込んだ時の状態を思い出しながら演じるので、あくまでもフィクションとして語りながら、しかも自分の体験に根ざして語ることになる。相手の話を傾聴する側も、どのようにすれば相手の話により沿いながら聴けるか、現実の場面に近いかたちで体験し、学ぶことができるだろう。

これはまだ演習として実際に試してはいないので、学生にとって意味のある演習になるかどうかは分からないが、ともあれ、今からこうして演習のいろいろなパターンを工夫しておくのが、すごく楽しい作業になっている。いまから後期の演習が始まるのを楽しみにしている。
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