瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

グリーンヒル瞑想合宿レポート04

2006年08月25日 | 瞑想合宿レポート
◆飾り立てたロビーではない
そう気づいたのは、下山した直後に思い出したことがあるからだ。腹の動きへの集中が、まったく無意味に思え、腹が限りなく遠い。これはどこかですでに体験したことがあると思った。そうだ、はじめて瞑想合宿に参加したときだ。あの時も最初は、なぜ腹の筋肉運動への集中なのか分からなかった。そして腹が限りなく小さく感じられ、腹にまったく集中できなかった。

あの時と同じではないか。イメージのなかであの時と同じようなことを繰り返している。結局、ひと巡りして振り出しに戻ってきたということなのか。ただし今回は、無意味さを感じた直後に「しかし、やはりここにしか自分の入り口はない、ここに戻ってくるしかない」と女性のささやきに応じて確認している。心随観中心での合宿の展開から、もういちど基本の身随観に戻ってくることが必要だったということだ。

そう気づいたとき、3日目に見たイメージにも、やはり同様の二重の意味が隠されていたのだと思った。

私は半分夢のようなイメージのなかで必死に自分の入り口を探していた。最初はホテルのロビーのようなところだった。「ちがう、ここは私の入り口ではない」と思った。次に入ったのも、飾り立てたりっぱな入り口で、それが自分の入り口とは感じられなかった。そんなことを何回か繰り返したのち、自分自身の腹の動きの感覚に戻った。そこでやっと「ここが私の入り口だ」と感じ、安心した。

ホテルのロビーのような飾り立てた入り口は、私にとって豊かな知的世界への入り口だっただろう。と同時に、イメージの展開から自己洞察とへ進んでいく入り口だったかもしれない。しかし、そこを自分の入り口とは感じられなかったのは、もういちど身随観の基本に戻ってくることの必要性を暗示していたのかもしれない。
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グリーンヒル瞑想合宿レポート03

2006年08月23日 | 瞑想合宿レポート
◆心随観から身随観へ
3回目(劣等感)の合宿まで、私の中にはサマーディなど瞑想そのものの成果への渇愛がかなり強くあったようだ。4回目(天女)の合宿でもそれを引きずっていたかも知れない。それに加えて、よいレポートを発表したいという思いもあった。それらが不善心所となって、合宿最初の数日の瞑想をかき乱した。ところが結果は、予想もしなかったイメージの展開によって抑圧していた劣等感への洞察に導かれた。エゴが狙ったのとはまったく違う成果が得られてしまったのだ。

そんな経過の中で私はサマーディを狙う気持ちに自ずと制御をかけるようになっていたらしい。そして前回(5回目:修行と家族)は、瞑想そのものでの成果を狙うより、イメージの展開による自己洞察に期待をかけるようになっていた。「サマーディ狙いはもういい、イメージ展開による自己洞察で充分だ」と。ところがイメージの展開に期待をかければかけたで、その狙いもまたはずされてしまった。意味のありそうなイメージが出てこないのだ。そして今度は、まったく別の展開によって日常の行為の大切さへの気づきがもたらされた。

このような経緯が、サマーディなど瞑想そのもので成果を狙うことへのブレーキになっていた可能性がある。「それを狙ってもダメなのだ、かえって瞑想を乱すだけだ」と。

こうして振り返ると私のこれまでの瞑想合宿は、全体として心随観を中心とした展開になっていた。成果も抑圧していた内面への気づきが中心だったのである。

ところが、今回(6回目)の合宿は、終わってから振り返ると、心随観ではなく身随観こそがテーマであった。そのことを女性のささやきが暗示していたように思う。「結局、ここに戻って来てしまったのね」というのは、心随観から身随観に戻ってきた、振り出しに戻ってきた、という意味もあったのだと、今は思っている。
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グリーンヒル瞑想合宿レポート02

2006年08月22日 | 瞑想合宿レポート
◆ここにしか入り口はない
これら二つのイメージは、象徴的だったと書いたが、合宿を終えてこうして全体をふり返ってみると、合宿中に考えていたよりもかなり広い視野から、今回の合宿全体を予告するような重要な意味をもっていたらしいことに気づかされ、驚いている。

もちろん私はヴィパッサナー瞑想に取り組むものとして、腹の筋肉の動きや足裏などの身体感覚に集中する身随観の重要さをじゅうぶんに分かっているつもりだった。言葉や観念によって歪められる以前のありのままの現実(法)をとらえること。そのためにいちばん基本となるのが、今この身に起こっている感覚を、観念による歪曲なしにストレートに観る訓練(身随観)だった。

今ここで起こっている現実をそのままに(如実に)観るのではなく、言葉や自我の想念による編集をかけて、次々と歪曲していってしまう、そして自分が作り上げた観念の世界に心を奪われて喜んだり悲しんだりする、‥‥ここに苦の原因がある。だからこそ、腹や足裏の感覚を、言葉や思考による編集以前の姿のままに如実に観つづける身随観が、ヴィパッサナー瞑想のなかで重要な意味をもっているのだ。

それはじゅうぶんに分かっているつもりだった。にもかかわらず、腹のふくらみ縮みを注視しつづけることが、知的な世界の探求に比べて「限りなく無意味だ」と感じてしまう感覚が、私のなかにいまだに残っていたのか。それがひとつの葛藤となって疲れや眠気やからだの痛みに悩まされていたのか。これは私にとって意外な発見だった。

しかし、修行を進めるためにはもう一度、腹のふくらみ縮みというなまの感覚に戻って来るほかない、ここにしか私の入り口はない。‥‥イメージ中の女性の言葉でそうとらえ直すことが出来たとき再び腹に集中することが出来るようになったのだ。

以上が、あのイメージについての合宿中に感じた意味だった。

ところが、女性たちがささやいた「結局ここに戻って来たのね」という言葉は、合宿を終えた今ふり返ってみると、もう少し長いスパンの中で別の意味ももっていたように感じられる。それは、2001年夏に参加した最初の瞑想合宿から今回までの6回の合宿全体をふり返ったときに浮き上がってくるような意味だった。
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グリーンヒル瞑想合宿レポート01

2006年08月21日 | 瞑想合宿レポート
◆「膨らみ縮み」は無意味?
「今回の瞑想は、どのような状態でスタートするのか」、これが最初の関心事だった。これまでたいてい最初の何日かは「絶不調」に苦しんだ。瞑想への期待が執着となって、それが出だしの瞑想をがたがたにしてきたのだ。

今回もやはり眠気と妄想に悩まされるスタートとなった。おまけにかなりの疲労感とからだの痛みまである。辛かった。初日の夜は、就寝時間が早く来ないかと待ち遠しかった。

2日目は、夜中クーラーで体が冷えたためか、さらに軽い頭痛まで加わった。そんな状態で腹の動きに集中しようにも意識がなかなか腹まで届かない。腹が限りなく遠い。

喫茶コーナーでぐったりしていると、象徴的なイメージが来た。インターネットの検索ウインドウの場面が見え、そこに文字を打ち込んで何かを調べようとしている。それは私にとって重要な知的な行為だった。それと比べるかのように腹の膨らみ縮みのイメージが見えたが、それは何とも言えずつまらない行為に感じられた。限りなく無意味な行為だった。「腹の動きに注意をしつづけることなどに何の意味もないじゃないか」と思考していた。

喫茶コーナーに座ったまま、それでも瞑想を続けていると、少しは腹への注意が続くようになった気がする。すると何人かの女性たちの姿がぼんやりと見えた。彼女たちがつぶやいている。「結局、ここに戻ってきてしまったようね」と。私も思った、「ここが、腹の膨らみ縮みが、結局は私の入り口なのだ、ここから入っていくほかないのだ」と。

その後、不思議に瞑想はよくなっていった。腹への集中がふつうに、少なくとも自宅で行っているときぐらいには出来るようになったのだ。
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夏の瞑想合宿レポートアップ

2005年11月11日 | 瞑想合宿レポート
このダイアリーに連載した今夏のグリーンヒル瞑想研究所での瞑想合宿レポートをまとめたものを、本サイトの「瞑想世界の旅」にアップすることができた。

  瞑想合宿レポート・修行と家族

最初の方は少し整理したが、結局後半は、それほど大きな書き変えはない。しかし通して読んでいただくと、連載中とはまた別の感じが得られるかもしれない。私自身、連載中にはなかった引き締まった力が少しは出たかなと思う。
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