瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

サティと白鶴

2008年03月03日 | 瞑想日記
最近、家族の問題で心に重くのしかかっていることがあった。それは将来へ向けての不安でもあった。時々、かすかな胸の痛みや悲しみとして、心の表面に浮上してくることもあった。

土曜、日曜あたりはとくに頻繁にそれがあった。そんな時、サティをすることが私にとってのひとつの救いだった。不安や悲しみは、もちろん具体的で個別の問題にかかわるものだったが、同時にそれは「生きている」ということにどうしようもなくついてまわる悲しみでもあった。どのような形にせよ、生きているということはそのような不安や苦しみや悲しみを伴うことなのだ。

サティをすることと同時に、私にとってのもうひとつの救いは、「白鶴」のイメージにしたがうことだった。どのような苦しみや悲しみがあろうと、いや、あるからこそ、人生を「白鶴」のように生きていくことが、救いにつながるのだ。

それは、どのような利害や損得、評価や毀誉褒貶にも惑わされず、その時々の与えられたなすべきことを、ひたすらに行い続けることだった。そのような生き方だけが、苦しみや悲しみの中にありながら、同時にそれらを超えた地平を生きることを意味した。それは、悲しみの中にありながら、悲しみを超えた生き方だった。毀誉褒貶の中にありながら、毀誉褒貶を超えた生き方だった。

サティを続けるということ自体が、人生のどのような苦しみや悲しみの中にあっても、それらによって汚されずに、それらを突き抜けた世界に根ざして生きる生き方なのであろう。
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瞑想合宿レポート06

2008年03月03日 | 瞑想合宿レポート
今回の合宿は、すべり出しが比較的順調だった。3日目には少食の効果が現れてきたのか、体の感覚もすっきりしてさらにサティが続くようになっていた。

しかし、4日目の午後から、瞑想がこれまでになく大きく乱れ始めた。座禅でも歩行瞑想でも、一呼吸ごと、一歩ごとに思考・妄想が次から次へと溢れてくる感じになった。仕方なく妄想が出るごとに立ち止まって確認した。ほとんど一歩ごとに立ち止まる状態だった。それでもなお止めどもなく妄想が現れては消えた。ついに妄想が出るごとに一つひとつノートに書きとめることまでした。ほとんど瞑想とは言えない状態だったかもしれない。

そこまでやってやっと、湧いては消える思考・妄想の傾向が自覚できた。ほとんどすべての思考・妄想が、人に少しでも高く評価されたい自分、価値ある人間と思われたい、思いたい自分に関係していた。

「あの時の自分の言動を、Aさんはどのように理解してくれて、どんな評価をしてくれたのだろうか。きっとこんなふうに思ってくれたにちがいない‥‥。」

「あの時、Bさんはあんなふうに言ったが、考えてみればそれは私を見下したような傲慢な言い方だ。とても悪意のある言い方だ。そういうことを露骨に断定的にいうBさんは、どうしようもない失礼な奴だ‥‥。」

まあ、こんな妄想のたぐいが延々と続くのである。
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