帰宅時、職場から駅まで40分弱歩いている。その間、意識が移りゆく対象に言葉てラべリングすることで気づきを継続するというサティの行を行う。うまく続くときもあればそうでないときもある。
かつて
『呼吸による癒し』珠玉の言葉
にラリー・ローゼンバークのこの本『呼吸による癒し―実践ヴィパッサナー瞑想
』のなかの印象的な言葉を選んで、私の感想を入れながら掲載した。それを読み返すと、いまでも瞑想のヒントとなる。
◆「修行にとりつかれて、何かを獲得しようという考えが潜入してくる典型的な場面のひとつは、呼吸と共にとどまることを仕事にしてしまうときです。私たちはシンプルな指導を受ると、呼吸と共にあるときは成功でそうでないときは失敗なのだと、すぐに成功や失敗のドラマを作りあげてしまいます。実際には、呼吸と共にあること、心がさ迷い出してしまうこと、さ迷ったことを知ること、穏やかに戻ってくること、そのすべてのプロセスが瞑想なのです。戻ってくるときに、自分を責めたり、裁いたり、失敗したという感じを抱かずに戻ってくることがとても大切です。五分間座っていて、千回戻ってこなければならないのならば、ただそうしなさい。それを自分で大問題にしない限り、問題はないのです。」
上の文章では呼吸を中心対象として選んでいるが、歩く瞑想の時は、そのつど意識の中心になった対象に気づきを入れていく。それでも心がさ迷いだして、サティ(気づき)を忘れ、雑念に溺れることがある。それを失敗ととらえるの必要はない。さ迷いでたことも、さ迷い出たことに気づくことも、穏やかに戻ってくることも、いい悪いの問題ではなく、そのすべてが瞑想のプロセスなのだ。どれほど心がさ迷い出ても、それを大問題とせず、何度でも戻ってくる、それ自体が瞑想なのだ。
◆「究極的な目標――それは簡単にできることではなく時間もかかります――は何かというと、たとえば怒り、寂しさ、絶望といったあらゆる経験がそのエネルギー共に浮上してくるままにすることです。これらのものが沸き起こってくるのを受け入れ、意識の光のもとで変容させるのです。こうした意識状態には莫大なエネルギーが存在しており、私たちは多くの時間そのエネルギーを抑圧しています。そのため、そのエネルギーを失ってしまうばかりか、抑圧のためにまた大量のエネルギーを使っているのです。私たちが徐々に学んでいくのは、怒り、寂しさ、絶望といったものの出現を許し、それがおのずから変容し、そのエネルギーが開放されていくようにすることです。この修行においてあなたは問題を解くのではなく、問題を溶かしてしまうのです。」
歩く瞑想をしていると、悲しみの感情が何度ともなく沸き起こってくる。その出現をゆるし、それがおのずから変容するにまかせる。これもサティを行ずるときの、とても大切な心がまえだ。何度でも自分に確認しなければならない。
前の記事で紹介した『やさしいフォーカシング―自分でできるこころの処方
』で、自分のからだを観察して、何か感じをつかんだら、その感じをただそのままそこに置いておく、というのも、ほぼ同じことを言っている
「あなたの感情をあるがままに置いておくことができたなら、その時こそ、感じが変わるのです。変えようとすると、変わらないのです」、つまりおのずから変容するにまかせるということだ。
かつて
『呼吸による癒し』珠玉の言葉
にラリー・ローゼンバークのこの本『呼吸による癒し―実践ヴィパッサナー瞑想
◆「修行にとりつかれて、何かを獲得しようという考えが潜入してくる典型的な場面のひとつは、呼吸と共にとどまることを仕事にしてしまうときです。私たちはシンプルな指導を受ると、呼吸と共にあるときは成功でそうでないときは失敗なのだと、すぐに成功や失敗のドラマを作りあげてしまいます。実際には、呼吸と共にあること、心がさ迷い出してしまうこと、さ迷ったことを知ること、穏やかに戻ってくること、そのすべてのプロセスが瞑想なのです。戻ってくるときに、自分を責めたり、裁いたり、失敗したという感じを抱かずに戻ってくることがとても大切です。五分間座っていて、千回戻ってこなければならないのならば、ただそうしなさい。それを自分で大問題にしない限り、問題はないのです。」
上の文章では呼吸を中心対象として選んでいるが、歩く瞑想の時は、そのつど意識の中心になった対象に気づきを入れていく。それでも心がさ迷いだして、サティ(気づき)を忘れ、雑念に溺れることがある。それを失敗ととらえるの必要はない。さ迷いでたことも、さ迷い出たことに気づくことも、穏やかに戻ってくることも、いい悪いの問題ではなく、そのすべてが瞑想のプロセスなのだ。どれほど心がさ迷い出ても、それを大問題とせず、何度でも戻ってくる、それ自体が瞑想なのだ。
◆「究極的な目標――それは簡単にできることではなく時間もかかります――は何かというと、たとえば怒り、寂しさ、絶望といったあらゆる経験がそのエネルギー共に浮上してくるままにすることです。これらのものが沸き起こってくるのを受け入れ、意識の光のもとで変容させるのです。こうした意識状態には莫大なエネルギーが存在しており、私たちは多くの時間そのエネルギーを抑圧しています。そのため、そのエネルギーを失ってしまうばかりか、抑圧のためにまた大量のエネルギーを使っているのです。私たちが徐々に学んでいくのは、怒り、寂しさ、絶望といったものの出現を許し、それがおのずから変容し、そのエネルギーが開放されていくようにすることです。この修行においてあなたは問題を解くのではなく、問題を溶かしてしまうのです。」
歩く瞑想をしていると、悲しみの感情が何度ともなく沸き起こってくる。その出現をゆるし、それがおのずから変容するにまかせる。これもサティを行ずるときの、とても大切な心がまえだ。何度でも自分に確認しなければならない。
前の記事で紹介した『やさしいフォーカシング―自分でできるこころの処方
「あなたの感情をあるがままに置いておくことができたなら、その時こそ、感じが変わるのです。変えようとすると、変わらないのです」、つまりおのずから変容するにまかせるということだ。