久々の「本の紹介」
拙ブログと作家友だちのブログと比べると、圧倒的に「本の紹介」が少ないですわぁ。
それを狙っている所もあるので、「いいんだもんねー」と開き直っております、ワタクシメ。
でも、夏休みも近くなり、魔の読書感想文のシーズンに先駆けて(笑)
「イチオシ! 課題図書」と思える作品をご紹介いたします。
「夜間中学へようこそ」・山本 悦子 (岩崎書店– 2016/5/14)
優菜は両親とおばあちゃんとの四人暮らし。春から中学生、
入学式が間近になったある日、70才半ばのおばあちゃんが「私も学校へ行く」と言い出します。
「学校」というのは夜間中学のこと。
おばあちゃんは子どもの頃まずしくて「義務教育」すら受けておらず、文字の読み書きができないのでした。
それをフォローしてくれていたのは、夫である「おじいちゃん」。
おじいちゃんが亡くなるまでの何年間、通院していた病院のそばに「夜間中学」があり、おばあちゃんは「学校に入ろうか・・・今さら・・・」とずっと迷っていたと言います。
年賀状などをおじいちゃんとおばあちゃんが寄り添うようにして、読んでいたことを優菜は思い出します。
それは単に「夫婦仲が良かった」だけでなく、おばあちゃんが文盲であることを他の家族に知られないための行為だったのです。
「おばあちゃんは文盲らしい」と気づいていたのは、息子の嫁であるお母さんだけでしたが、お母さんもおばあちゃんからカミングアウトするまで「気づかぬふり」をしていました。
おばあちゃんは幼い息子の持ち物に名前を書いてやれなかったことを何十年も悔やみ悲しみ、「お父さん」になっている息子に詫びるのです。
「夜間中学に問い合わせたら、電話に出た人が『どなたでも、いつからでも、いいですよ 云々』と言ってくれた」とおばあちゃんはその言葉に勇気をもらい、自ら踏み出します。
ーーワタクシメ、このあたりから泣けてきました。
他にもいろいろな想いがあって、おばあちゃんは入学を決めてくるのですが、それを一番反対しネガティブに考えるのは「息子@お父さん」でした。
息子には息子の「切なさ」があるんですが、オトコって・・・どいつもこいつも面倒臭い(苦笑)
ーー家庭内のバトルが、我が家と似ていて笑えました(^O^)
さて、夜間中学校へ通い出したおばあちゃんが足を捻挫したために、介助が必要となり、優菜が付き添うことになります。
優菜が夜間中学をとおして、様々な人生を知ります。
「おばあちゃん」と同様に貧困な時代に生まれ学校へ行くことができなかった老人。
イジメにあい、登校拒否し続けていた少年。
軽度の障がい者。
外国人労働者などなど。
みんな「学びたい気持ち」を強く持っていました、
そして、その人たちの手助けをする先生たちや、励まし合う仲間、地域の人たちの優しさも、きめ細かく描かれています。
おばあちゃんの世代の「貧しさ」は戦争が生んだものですから、戦中戦後の混乱も軽く触れています。
サラリと描かれたエピソード、短いフレーズが、逆にぐさりと胸に刺さりました。
ワタクシメの老眼鏡が涙でグチュグチュになったのは「名前」を書く場面でした。
おばあちゃんの名前は「さち」。「幸」と書きます。
おばあちゃんは夜間中学で初めて、その漢字の意味を知り、「幸」と名付けてくれた親に感謝するのです。
また「優菜を呼ぶ時『優・菜』と漢字で呼ぼう」と言います。
ーーこの章で・・・マジ号泣しました。
小説を読んで鼻水たらしたのは「火垂るの墓」以来かも(?_?)
「学ぶ」ということはどういうことなのか?
「学校」の真の役割とは何か?
「普通の中学生@優菜」の目線、完成で、考えさせられる一冊です!
蛇足ですが ~゜・_・゜~
「長編」が描けなくなったり、頓挫しているワタクシメが言える立場じゃーございませんがぁ。
児童文学において長編は必要なのかなーとチョット悩んでいるんです。
「長編」に挑める読解力のある子なら、大人の小説も読めるだろうし、そうでない子は分厚いハードカバーを見ただけで引いちゃうと思うんですよね。
単純に「児童文学はR15」と定義づけてもいいですが、すでに小学生でも別の分野で「R18」以上のモノを見聞きしていますから、「R15」にとらわれることはないでしょう。
「夜間中学へようこそ」は優れた児童文学ですが、「大人の小説」として描いたら、もっと深い所まで掘り下げられた気もします。
このあたりは・・・むずかしいですぅ_(_^_)_
拙ブログと作家友だちのブログと比べると、圧倒的に「本の紹介」が少ないですわぁ。
それを狙っている所もあるので、「いいんだもんねー」と開き直っております、ワタクシメ。
でも、夏休みも近くなり、魔の読書感想文のシーズンに先駆けて(笑)
「イチオシ! 課題図書」と思える作品をご紹介いたします。
「夜間中学へようこそ」・山本 悦子 (岩崎書店– 2016/5/14)
優菜は両親とおばあちゃんとの四人暮らし。春から中学生、
入学式が間近になったある日、70才半ばのおばあちゃんが「私も学校へ行く」と言い出します。
「学校」というのは夜間中学のこと。
おばあちゃんは子どもの頃まずしくて「義務教育」すら受けておらず、文字の読み書きができないのでした。
それをフォローしてくれていたのは、夫である「おじいちゃん」。
おじいちゃんが亡くなるまでの何年間、通院していた病院のそばに「夜間中学」があり、おばあちゃんは「学校に入ろうか・・・今さら・・・」とずっと迷っていたと言います。
年賀状などをおじいちゃんとおばあちゃんが寄り添うようにして、読んでいたことを優菜は思い出します。
それは単に「夫婦仲が良かった」だけでなく、おばあちゃんが文盲であることを他の家族に知られないための行為だったのです。
「おばあちゃんは文盲らしい」と気づいていたのは、息子の嫁であるお母さんだけでしたが、お母さんもおばあちゃんからカミングアウトするまで「気づかぬふり」をしていました。
おばあちゃんは幼い息子の持ち物に名前を書いてやれなかったことを何十年も悔やみ悲しみ、「お父さん」になっている息子に詫びるのです。
「夜間中学に問い合わせたら、電話に出た人が『どなたでも、いつからでも、いいですよ 云々』と言ってくれた」とおばあちゃんはその言葉に勇気をもらい、自ら踏み出します。
ーーワタクシメ、このあたりから泣けてきました。
他にもいろいろな想いがあって、おばあちゃんは入学を決めてくるのですが、それを一番反対しネガティブに考えるのは「息子@お父さん」でした。
息子には息子の「切なさ」があるんですが、オトコって・・・どいつもこいつも面倒臭い(苦笑)
ーー家庭内のバトルが、我が家と似ていて笑えました(^O^)
さて、夜間中学校へ通い出したおばあちゃんが足を捻挫したために、介助が必要となり、優菜が付き添うことになります。
優菜が夜間中学をとおして、様々な人生を知ります。
「おばあちゃん」と同様に貧困な時代に生まれ学校へ行くことができなかった老人。
イジメにあい、登校拒否し続けていた少年。
軽度の障がい者。
外国人労働者などなど。
みんな「学びたい気持ち」を強く持っていました、
そして、その人たちの手助けをする先生たちや、励まし合う仲間、地域の人たちの優しさも、きめ細かく描かれています。
おばあちゃんの世代の「貧しさ」は戦争が生んだものですから、戦中戦後の混乱も軽く触れています。
サラリと描かれたエピソード、短いフレーズが、逆にぐさりと胸に刺さりました。
ワタクシメの老眼鏡が涙でグチュグチュになったのは「名前」を書く場面でした。
おばあちゃんの名前は「さち」。「幸」と書きます。
おばあちゃんは夜間中学で初めて、その漢字の意味を知り、「幸」と名付けてくれた親に感謝するのです。
また「優菜を呼ぶ時『優・菜』と漢字で呼ぼう」と言います。
ーーこの章で・・・マジ号泣しました。
小説を読んで鼻水たらしたのは「火垂るの墓」以来かも(?_?)
「学ぶ」ということはどういうことなのか?
「学校」の真の役割とは何か?
「普通の中学生@優菜」の目線、完成で、考えさせられる一冊です!
蛇足ですが ~゜・_・゜~
「長編」が描けなくなったり、頓挫しているワタクシメが言える立場じゃーございませんがぁ。
児童文学において長編は必要なのかなーとチョット悩んでいるんです。
「長編」に挑める読解力のある子なら、大人の小説も読めるだろうし、そうでない子は分厚いハードカバーを見ただけで引いちゃうと思うんですよね。
単純に「児童文学はR15」と定義づけてもいいですが、すでに小学生でも別の分野で「R18」以上のモノを見聞きしていますから、「R15」にとらわれることはないでしょう。
「夜間中学へようこそ」は優れた児童文学ですが、「大人の小説」として描いたら、もっと深い所まで掘り下げられた気もします。
このあたりは・・・むずかしいですぅ_(_^_)_
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