5月9日から11日まで、三重県の松阪・伊勢・鳥羽へ旅行に行きました。実は、昨年もまったく同じ日程で、二見浦、伊勢神宮内宮、外宮に行ったのですが、今年は松坂城と本居宣長記念館、伊勢神宮内宮と倭姫宮・神宮徴古館、それに、斎宮跡に行きました。そのときに撮った写真を少しずつ出していきたいと思います。
近鉄電車に乗って近鉄郡山駅から大和八木駅まで行き、そこから、特急に乗って1時間ほどで松阪駅に着きました。
ここが松阪駅です。
松阪は江戸時代の有名な国学者本居宣長ゆかりの地として有名です。本居宣長は荷田春満、賀茂真淵、平田篤胤と共に国学の四大人と呼ばれています。実は、私は三重県の小学校だったので、御木本幸吉と本居宣長の二人を三重県出身の偉人として習いました。それで、松阪は憧れの地でした。駅前にある大きな鈴は浜田藩主松平康定から宣長に贈られたとされる鈴をかたどったものだそうです。
町の中を歩いているとこんな建物がありました。その横にライオン像があります。
説明によると、松阪は三井家発祥の地で、三井家の始祖である三井高利が呉服商越後屋を興し、それが三越になったということです。その三越のシンボルであるライオン像を寄贈してもらい、来遠像と名付けて置いているそうです。
建物の内部はこんな風になっていました。
来遠像からちょっと行ったところに本居宣長宅址がありました。宣長はこの場所で12歳から72歳までの60年間医師を開業する傍ら、日本の古典の研究をしたそうです。
居宅自体は松坂城へ移され、今残る家は宣長の長男春庭の旧宅と土蔵だそうです。
そして、松坂城跡に着きました。松坂城は蒲生氏郷が1588年に建てたとされています。
大和郡山にある郡山城と同じで、城の建物は残っていないのですが、城壁はえらく立派でした。
お昼を食べていなかったので、売店でうどんを食べました。大きなネギの入ったうどんで、出汁がおいしかったです。
その売店の向こう側に藤棚がありました。
さらに、歩いていくと本居宣長旧宅と本居宣長記念館の入り口が見えてきました。ここから先は有料ゾーンになります。
旧宅は後で見ることにして、まずは記念館に行ってみました。記念館入り口に受付があり、記念館と旧宅の見学を合わせて一人400円でした。
記念館内部の様子です。椅子があって座ることができて、また、映像を見せる部屋などがありました。展示は二階になっていて、その様子は次回に回します。
近鉄電車に乗って近鉄郡山駅から大和八木駅まで行き、そこから、特急に乗って1時間ほどで松阪駅に着きました。
ここが松阪駅です。
松阪は江戸時代の有名な国学者本居宣長ゆかりの地として有名です。本居宣長は荷田春満、賀茂真淵、平田篤胤と共に国学の四大人と呼ばれています。実は、私は三重県の小学校だったので、御木本幸吉と本居宣長の二人を三重県出身の偉人として習いました。それで、松阪は憧れの地でした。駅前にある大きな鈴は浜田藩主松平康定から宣長に贈られたとされる鈴をかたどったものだそうです。
町の中を歩いているとこんな建物がありました。その横にライオン像があります。
説明によると、松阪は三井家発祥の地で、三井家の始祖である三井高利が呉服商越後屋を興し、それが三越になったということです。その三越のシンボルであるライオン像を寄贈してもらい、来遠像と名付けて置いているそうです。
建物の内部はこんな風になっていました。
来遠像からちょっと行ったところに本居宣長宅址がありました。宣長はこの場所で12歳から72歳までの60年間医師を開業する傍ら、日本の古典の研究をしたそうです。
居宅自体は松坂城へ移され、今残る家は宣長の長男春庭の旧宅と土蔵だそうです。
そして、松坂城跡に着きました。松坂城は蒲生氏郷が1588年に建てたとされています。
大和郡山にある郡山城と同じで、城の建物は残っていないのですが、城壁はえらく立派でした。
お昼を食べていなかったので、売店でうどんを食べました。大きなネギの入ったうどんで、出汁がおいしかったです。
その売店の向こう側に藤棚がありました。
さらに、歩いていくと本居宣長旧宅と本居宣長記念館の入り口が見えてきました。ここから先は有料ゾーンになります。
旧宅は後で見ることにして、まずは記念館に行ってみました。記念館入り口に受付があり、記念館と旧宅の見学を合わせて一人400円でした。
記念館内部の様子です。椅子があって座ることができて、また、映像を見せる部屋などがありました。展示は二階になっていて、その様子は次回に回します。