電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

Steve Jobs(1955-2011)

2011-10-12 22:29:25 | デジタル・インターネット

 スティーブ・ジョブスが逝った。晩年の風貌は、まるでガンジーのようだった。そして、ガンジーは、ジョブスが尊敬する人だった。AppleのHPにある写真は、もう少しジョブスが元気だった頃の写真だ。しかし、風格ある写真ではある。私は、Appleの製品は、ほとんど使ったことがない。MacもiPhoneもiPodもiPadも持っていない。勿論、会社にはそれらが置いてあるので、使ったことはある。だからといって、私は、Windows派だったわけではない。Windowsを使いながら、Linuxで遊んでいた。もっとも、今はもう、忙しくて、Linuxも使っていない。だから、私はスティーブ・ジョブスやビル・ゲイツより、リーナス・トーバルズの方が、好きだった。

 いつの間にか、ビル・ゲイツはマイクロソフトから去り、そしてスティーブ・ジョブスもいなくなってしまった。元々、地味なリーナス・トーバルズも今何をしているか、私はよく知らない。そう、いつの間にか、OSがどうだとかいう時代は終わっていた。そういう意味では、なくなったジョブズが最も最先端を行っていたのかもしれない。GoogleやFacebookなどの若い企業に対抗して、インターネットを利用した新しい世界を創造してきたのは、スティーブ・ジョブスだった。彼は、戦いの半ばで逝ったという印象を受ける。今日のNHKのクローズアップ現代で、孫正義が、ジョブスが最後にやりたかったのは、iRobotではないかと言っていたが、ひょっとしたら、そうかもしれない。

 テレビや新聞、インターネットで、スティーブ・ジョブスの死について、様々な追悼の言葉が流されていた。でも、何となく私にはしっくり来なかった。彼は、一体何をしたのだろうか。そんなとき、朝日新聞の次の記事を読んだ。

 製品にも質があるが、体験にも質がある。日本のメーカーがとことん製品の質を迫求して、世界最軽量・世界最薄などを謳う高品質の製品を開発しているときに、アメリカではひとつの企業が、ユーザーに質の高い「体験」を提供しつづけることを迫い求めて、他の追随を許さない世界を築き上げた。それが、スティーブ・ジョブスが率いたアップルである。(中略)
 大衆の期待を直感的に読み取って、それを即座に表現できるのがスターだとすれば、ジョブズはスターである。彼はマウスを発明したわけではない。パーソナルコンビューターを最初に売り出したわけでもない。スマートフォンの生みの親というわけでもない。
 ただ彼はマッキントッシュを大々的に売り出して、マウスで直感的に操作し、絵を描いたりデザインできるコンピューターを個人が所有する大きな潮流を作り出した。コンピューターを電子計算機から創造のエンジンに変えてしまった。iPodを売り出して音楽の聴き方を変え、iPhoneで誰もがスマートフォンを使う時代にしてしまった。ジョプズか設立したピクサー社は、それまで冷たい印象だったフルCGアニメを子どもでも親しみやすい世界に変えていった。彼は、私たちの体験を変えてしまったのである。(藤崎圭一郎・東京芸大准教授/「朝日新聞」2011.10.10朝刊)

 私には、すぐに納得できた。NHKの番組の中で、新潟の企業がAppleのiPodの裏の基盤を作るときの製品の質のこだわりについて語っていたが、ジョブズの完璧主義は、素晴らしい体験を提供するために必要だったのだ。私たちは、Appleの製品を解体したとき、多分、ジョブズのこだわりに驚くに違いない。そして、誰もが、解体された個々の部品は、Appleの創造したものではないことに気が付く。けれども、そこにあるのは、紛れもなく、Appleが発注して作らせた部品であることにも気が付くはずだ。そうした部品を組み立てて、Appleは、全体として、まったく新しい体験を提供しようとしたのだ。これは、一日本企業の問題ではなく、世界のすべての企業ができなかったことである。そして、おそらく、スティーブ・ジョブスという天才経営者がいたからこそできたことだと思う。

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『いいね!フェイスブック』

2011-04-24 21:11:56 | デジタル・インターネット

 野本響子著『いいね!フェイスブック』(朝日新書/2011.4.30)を読む。とても読みやすくて2日で読み終えてしまった。フェイスブックというのは、アメリカで生まれた今はやりのSNS(Social Network Service)のことである。もちろん私も利用している。今まで読んだフェイスブックの入門書の中で、一番分かりやすく親しみやすい。たぶん、それは、著者のフェイスブックを利用しているスタンスが、分かりやすいからだと思う。樺沢紫苑著『Facebook仕事術』(サンマーク出版/2011.3.25)という本もいい本だが、これは、やはり、フェイスブックを使い込み、それでビジネスをしている人という立ち位置がはっきり現れている分、たぶん、普通の人は少し抵抗があるに違いない。

 野本さんは、「あとがき」で、「友達は増やしすぎず、知り合いだけを承認するというスタイルで、ゆるく関わっていくつもりである」と述べているが、この立ち位置がいい。そういう野本さんだから、次のようなことに興味を感じるのだと思う。

 では、削除も利用解除(停止)もしないまま、現実世界で死亡してしまったら? 実はアカウントが残るのだ。
 友達が「亡くなった」ことをフェイスプックに知らせると、亡くなったユーザーは「追悼アカウント」になる。
 迫悼アカウントは、その人のお墓のようなもの。ログインはできなくなり、友達だけがプロフィールを見られるようになる。追悼アカウントになった人のウォールには、家族や友達が追悼メッセージを書き込める。
 人の生き死にまで考えて作られているフェイスプック。とことん、現実世界の人とのやり取りを写し取る仕掛けが施されている。
(野本響子著『いいね!フェイスブック』(朝日新書/2011.4.30)p119)

 利用解除の話は、誰でも触れるが、もし、自分が使い続けて死んでしまったらどうなるだろうという興味の持ち方は、おもしろい。この本では、勿論、第2章で、フェイスブックの基本的な使い方について書いているが、それはそれで、さし当たり使うには十分な内容であるが、フェイスブックは常に変化しているので、基本的なこと以外は、役に立たなくなってしまう。その意味で、フェイスブックの特色を中心に書かざるを得なくなっていている。そして、誰もが、フェイスブックを使い始めて突き当たる次ような問題をいちばん大きな問題として取り上げているのも適切な解説だと思った。

 しかし、人は自然と顔を使い分けている。会社での顔、家庭での顔がまったく同じ人のほうが少ないのではないだろうか。これまで上手に使い分けていた人は、両方に同時に見せる自分を作ることに疲れてしまうかもしれない。一般に人は年齢を重ねるほど、社会的な立場が強くなればなるほど、見せる顔が増えていく。これは、社会人ではなく現役の「学生たち」が作ったフェイスプックならではの問題かもしれない。フェイスブックが成長していく段階でも、やはりこの問題は議論されている。
 大人のユーザーには「自分用のプロフィール」と「楽しめるソーシャル用プロフィール」の両方を用意すぺきだという声もあったが、フェイスプックの創設者でCEOであるマーク・ザッカーパーグは常に反対した。「仕事上の友だちや同僚と、それ以外の知り合いとで異なるイメージを見せる時代は、もうすぐ終わる」と彼はいう。「2種類のアイデンティティーを持つことは、不誠実さの見本だ」(『フェイスプック若き天才の野望』より)
 このザッカーバーグの言葉は興味深い。果たして、彼の言う通りに、フェイスプックの登場で世界はより誠実になっていくのだろうか。
(同上・p92)

 ここのところは、本当は、もっと、考えてみる必要がある。「建前」と「本音」には、二つの使われ方がある。一つは、表側の意味と裏側の意味ということであり、意識された世界と無意識の世界と言い換えてもいいかもしれない。もう一つは、公私という意味だ。マーク・ザッカ―バーグが言っているのは、どちらかというと後者の公私のほうの意味だと思われる。まさに、公私の区別のないマークらしい言い方である。私たちは、多分、それはとても難しいことだと思われる。私は、公私両方に通用するように気を配りながらフェイスブックに書き込んでいるように思う。

 つまり、リアルの世界がそうであるように、インターネットの世界でも、実名で存在する以上は、常に第三者から目撃されているということは想定されていなければならない。確かに、表現されたものは、常に「ハレ」の世界に存在しているのである。本質的には、匿名掲示板においてであれ、表現されたものは「ハレ」の世界のものである。匿名掲示板の表現は、それ故、匿名の作者のものとしてしか存在できないのだ。「ハレ」は「ケ」に対応しており、「ケ」とは、日常性である。そして、「日常性」ということは、表現されないと同じことである。それは、無意識の世界のようなものだ。

 フェイスブックは「建前」の世界だ。会社や家族、親戚が見ているなか、本名で本音を語るのは難しい。だから実社会から離れたい人や、他人に気兼ねすることなく本音を語りたい人は結局匿名のSNSや掲示板を使い続けることになる。ポルノや暴力的な内容のものなど、フェイスプックの規約で禁止されているコンテンツもフェイスプックの外に置かれることになる。
 もちろん、そういったコンテンツのほかにも、匿名には匿名の良さ、気楽さというものがあることを忘れてはいけない。インターネット上では、決して悪意で匿名を使う人ぱかりではない。実名を出すからには人々は自分の立場を常に意識しなくてはならないが、匿名なら、立場を明かさないからこそ、気軽に他人を助けることができることもある。インターネットの掲示板で専門家がするアドバイスだって、匿名でなけれぱ数が減るだろう。署名をして意見を言うとき、人は慎重になるからだ。
 その意味で、実名制のフェイスプックと対局に位置するのは、日本では巨大掲示板の2ちゃんねるだろう。(同上・p221)

 ここで、野本さんは、フェイスブックは「建前の世界」であり、2チャンネルは「本音の世界」であると言っているように見える。しかし、それは、多分、間違っている。2チャンネルの世界もまた、「建前の世界」なのだ。匿名の人が「建前」述べていると考えるべきだ。彼は、匿名であるが故に、実名の世界に戻って来ることができない。

 2ちゃんねるには、匿名であるがゆえの「真実」も数多く含まれている。もちろん、匿名の掲示板でも警察が捜査すれば個人を特定することは可能だが、それでも初めから本名を出して語るより、心のハードルも低くなる。
 企業の従業員による内部告発や、いじめられている子ども本人へのアドバイスが書けるのもこういった匿名の掲示板なのである。
 結局人々の本音を知るためには、匿名の掲示板を見たほうがいいということになる。だから、2ちゃんねるなどの匿名掲示板は影響力を保ち続けるはずだ。
 実名を使った便利なツールの側面も持つフェイスプックとは対極の存在だが、どちらか一方しかない世界にはならない。道にも大通りがあれぱ、裏道もある。ネット・コミュニティーにもいろいろあっていいのだ。どれか一つに統一される世界のほうが気持ち悪くないだろうか。
(同上・p221・222)

 最後の所は、同意するが、匿名であることは、常に「真実」ではない。それが、真実だと証明されるのは、常にリアルの世界に戻ってこなければならない。それは、2チャンネルがやっていることではない。ただ、「真実」らしく見えるだけである。ここで述べられている「本音」と「建前」の区別は、しかし、あまり適切ではない。つまり、「建前」がフェイスブックの世界で、「本音」の世界は2チャンネルというのは正しくない。もしそうなら、それは、抑圧された表現の世界が「本音」の世界だということになる。つまり、それは、「建前」の世界が、抑圧された世界であるということであり、本当のことは言えない世界だということになる。勿論、そういう世界はある。それは、独裁国家だけの問題ではない。炎上していくブログなどを見ていると、よく分かる。

 フェイスブックには、大きく「個人ページ」と「facebookページ」がある。「個人ページ」は、おそらくは、「年賀状」や「暑中見舞い」の葉書の世界だと思えばよい。年賀状は、普通、家族の全員が見せ合う。最近では、家族そろった写真を印刷して送ってくる人が増えた。これなど、まさしく、フェイスブックで代用されそうな世界だ。そして、こうした人たちは、「仕事上の友だちや同僚と、それ以外の知り合いとで異なるイメージを見せる時代は、もうすぐ終わる」というマーク・ザッカ-バーグの言葉を実践している人たちだということができる。

 ところで、こう書いてくると、フェイスブックの世界というのは、年賀状の自分の家族の写真を平気で載せられるようなプライベートをかくす必要のない場合しか上手く使えないもののように見える。野本さんの使い方は、基本的にそこまでを推薦している。彼女の節度は、そこまでについてなら、使った方がいいですよといっているのだと思う。それが外のフェイスブック推奨者と野本さんの違いであり、野本さんの良さだと思う。

 しかし、フェイスブックの進んでいる道は、多分、もっと過激な内容を含んでいるように思われる。野本さんが引用しているデビット・カークパトリック著『フェイスプック若き天才の野望』(日経BP社/2011.1.17)によれば、アメリカでさえ、企業の中での使いかたはぎこちないという。多分それは、インターネットの世界が、一種の広場だからだと思う。つまり、フェイスブックの世界とは、生産者や消費者という立場を棄てて市民として立つことを強制するからだと思われる。それが、「建前」ということの本当の意味だ。

 私たち普通の人が実名で不特定多数に表現するということは、すべての個人がある意味で自分の物語を表現するということを意味する。それは、文字通り作家と同じである。だから、会社や家族の中の出来事でも、ここに書くことにより、会社や家族の世界を越えて行くのだ。それは、ブログやツイッターの世界でも同じことが言える。ただし、ブログやツイッターは、登録者が個人とは限らない。しかし、フェイスブックは、あくまでも実名の個人が自分のページを持つのである。ここがポイントだと思う。個人として、表現を背負っていく人間を私たちは作家と呼ぶ。だから、フェイスブックの登録者は、すべての人が、自分の物語を作り上げて行かなければならない。それができなければ、多分フェイスブックは、名刺代わりであり、年賀状や暑中見舞いとなるだけだと思う。

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「ご入会ありがとうございます」というポップアップ画面

2010-10-24 14:49:58 | デジタル・インターネット

 あるアダルトサイトに行って、そこでダウンロードボタンを押したら、突然「ご入会ありがとうございます」というポップアップ画面が出て来た。そこには、「御入会お手続きが完了してあります。」と書かれ、ご丁寧にも「この度は有料アダルト動画サイトにご契約頂き有難う御座います。御入会に伴い料金が発生しておりますので、上記確認ボタンからご契約内容等の詳細をご確認ください。」という。勿論、確認のボタンは、クリックしないで、右上の終了ボタンを押して、消した。当然、放っておいていいと思ったが、数分経つと、同じポップアップ画面が出て来る。これが、消えてくれない。

 そんなサイトなど見るべきではないと言われれば返答のしようがないが、時にはそういうものを見てみたいと思うときがあるから仕方がない。私は、聖人君子ではないので、ゲームに熱くなったり、アダルトビデオを見たりする。そういう点では、あまり自分に自信がない。昨日も、自分に課したルール(1日2勝か2敗したら、その時点でネット碁を止める)を破って、3連敗してしまった。かなり前に、休みの日に熱くなって、8連敗したことがあるが、昨日は一応3連敗で止めた。と言うような心境で、ちょっとばかりアダルトサイトを覗いてみて、引っかかってしまった訳だ。まったく、自分が情けなくなる。でもまあ、そこが、私の若さ(?)だと思って、納得していたりする。

 ところで、このサイトは、まず、自分が未成年かそうでないかでクリックしないと次の段階に行けない。そして、また、その次に、ビデオをスタートさせるボタンをクリックするという仕組みになっていた。少なくとも、私は、このサイトで、2回は、クリックした。すると、問題のポップアップ画面が出て来るのだ。とても巧妙だが、ひどいなと思うのは、ビデオはまったく始まらないと言う点だ。もし、かなり面白いビデオが見られるのなら、ひょっとしたら、お金を払わなければいけないのではと思うかもしれない。しかし、この場合は、ビデオも見ていないので、そういった罪悪感はまったく感じない。むしろ、ひどいサイトだと思うだけだ。私の知っているサイトでは、面白いサンプルビデオがアップされていて、もっと見たくなったら、入会してくださいと言うのが普通だ。

 さて、このポップアップ画面は、IEのツールから、履歴やクッキーを削除しても消えないし、再起動しても消えない。Windowsを立ち上げていると数分すると、また出現する。実にしつこい。もし、本当に申込をしてしまっていて、このまま放置していたら契約違反になると思い込んでいたら、確認ボタンを押したり、多少ならお金を支払ってもいいと思ってしまうかもしれない。実際、ネット上にいろいろな情報が載っている。ネットで「ご入会ありがとうございます」と入力してググってみるととても興味深い。

 いくつか有益なサイトがあったが、Yahooの知恵袋は、少し問題だと思った。確かに、回答の中に、「tsuruokakotaroさん」という人が「退会して必要に応じてお金を払いましょう。そのあと消えなければ、いやだと思いますが、リカバリーしましょう。」というものがあり、ベスト回答がそれに対する批判という点では、それでいいのだが、無料のスパイウエア駆除ソフトをダウンロードしてきてインストールしなさいというのは、よくないと思う。それは、別の危機に直面することになるかもしれない。特に、PC初心者にはよくないと思った。

 どうしたらいいかという点については、一応の回答としては、こちらのほうが、適切だが、こちらはこちらでおそらくPC初心者には理解できないと思われる。こうした場合は、本当は、よく知っている先輩に聞くとか、専門家に相談するというのがいちばんいいのではないかと思った。「マジプラ豆知識ブログ」というのは、多分専門家と思われる人のブログだが、なかなか適切な対応だと思う。また、こうした問題をIPAでは、「ワンクリック不正請求」に関する相談として報告しているが、なかなか大変な問題のようだ。

 さて、私は専門家ではないが、以上のような、サイトを参考にして一応問題を解決したので、何かの参考になるかもしれないし、自分の覚えのためにも、ここにまとめておく。

 何かトラブルが起きたときのツールとして、「Ctrl+Alt+Del」(タスクマネージャの起動)があるのでこれを利用する。まず、問題の画面になったとき、タスクマネージャを起動してみた。すると、すると今動いているプログラムが出て来る。分からなければ、その場で、先ほどのポップアップ画面を消してみる。そうすると、状態が変化する。そして、問題のタスクを選択して、プロセスを見てみる。そうすると「mshta.exe」というプルグラムが動いていることが分かった。でも、「mshta.exe」はWindowsの標準プルグラムであり、それを消すわけにはいかない。

次に、コマンドプロンプトの画面から、「msconfig」と入力して、実行する。すると、「システム構成」の画面が出てくる。そこで、常に勝手に出てくると言うことで、「スタートアップ」のタブをクリックする。そして、そこで、「mshta」というコマンドがどんなファイルを参照しているか確認して見た。すると、次のようなコマンドがあることが分かった。「mshta C:\ProgramData\adhhh\26262664.hta"」となっている。そして、場所は、「HKCU\SOFTWARE\Microsoft\Windows\CurrentVersion\Run」となっている。取り敢えず、スタートアップ項目のチェックを外し、適用をクリックして、無効にした。これで、一応、例の画面は出なくなった。

 しかし、そのデータを消したわけではない。そこで、「C:\ProgramData\adhhh」の中に何があるか確認したところ、次の3つのファイルがあった。「2.dat」、「 26262664.hta 」、「bg.2pg」である。「2.dat」は空ファイルだが、「bg.jpg」は、ポップアップに出てくる画像だし、「C:\ProgramData\adhha\」はIEで開くことができる、htmlファイルである。この三つのファイルを消した。これで、起動しないはずだが、試しに、「システム構成」の画面で、もう一度、有効にしてみた。すると、空のポップアップ画面が開いた。

 そこで、さらにコマンドプロンプトの画面から、「regedit」と入力して、レジストリーエディターを開いた。そして、「HKCU\SOFTWARE\Microsoft\Windows\CurrentVersion\Run」を探したが、そこには、そんなデータは入っていなかった。それで、「編集→検索」の画面で、「mshta」と「C:\ProgramData\adhhh」で検索をかけた。すると、「MuiCache」に中に、「mshta.exe」という名前と「Recent File List」の中のFile4と5に「2.dat」、「 26262664.hta 」というデータが設定されているのが分かった。多分これを両方とも削除してしまえば完璧のはずだ。今までのところ、特に問題は発生していない。その後、私の引っかかった事態は、「HTAを利用したワンクリックウエアの新たな手口」であることが分かった。

 ここまで、書いてきて、時間になった。今日は、日高市にある長澤酒造の酒蔵コンサートの日である。久しぶりにクラシック生演奏を聴いたり、美味しい吟醸酒を友人と飲んだりする。このコンサートについては、前にもブログに書いた

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iPadの可能性

2010-06-13 11:00:37 | デジタル・インターネット

 佐々木尚俊著『電子書籍の衝撃』(ディスカバー携書/2010.4.15)を読んで、私は、ほんの少し違和感を感じた。この違和感はなんだろうと考えていたとき、中国で、「iPadの競合製品発売 中国大手、アップルに対抗」という記事を読んだ。中国の電子書籍端末大手、漢王科技が、iPadに似た新製品「TouchPad(タッチパッド)」を発売したというのだ。佐々木尚俊は、この本では、iPadを電子書籍端末という文脈の中でとらえているが、私はもっと広い意味での通信端末ととらえたほうがよいと思った。むしろ、ある意味では、パーソナルコンピュータの世界の革命だと思ったほうがいいのではないかと思った。

 iPadは、Macで培ったノウハウと最近のiPodやiPhoneでつかんだノウハウを統合したアップの最終的なパーソナルコンピュータなのだと思う。WindowsPCを越えられるかどうかが、今試されようとしている。日本の電子書籍ということについて言えば、遠からずすべての書籍は電子化されて、通信端末で読むか、紙ベースで読むか選択できるようになるに違いない。これは、速くやってくるのか、ゆっくりやってくるのかとい時期の問題だ。iPadの登場は、iPodがミュージックの世界に衝撃を与えたように、その速度を速めるかもしれないが、それがiPad登場の核心的な問題ではないと思う。「iPadの衝撃」は、もっと後になってどんな意味をもっていたがが分かるのだと思われるが、わたしの予想では、パーソナルコンピュータの進化という問題に関わっているのだと思う。

 PCがこれだけ発達したのは、その汎用性にある。そして、iPadがこれからPCとWebの時代で最先端を走り続けるためには、その汎用性をどのように実現するかにある。アップルは、ある意味では、汎用的な商品を作ってこなかった。それは、アップルがハードまで作ってきたからだと思う。今回のこのiPadもアップルが作ったハードである。もし、問題があるとすれば、そこである。ハードもソフトもアップルというやり方をしてしまうと、アップルは、多分、その先に行けなくなるに違いない。それは、Macで経験済みのはずだ。

 もし、iPadに汎用性がなかったら、早晩、ゲーム機として使われることになるか、iPhoneの大型機ということで終わってしまうに違いない。その場合は、むしろ、任天堂のゲーム機がどうなるかということの方が心配だ。まだ、iPadの活用というところがあまり見えないが、私にはiPadの汎用性こそが、iPadの今後のキーになると思われる。iPadは、おそらくWeb端末という点で発展していくし、そこにいちばんの可能性があり、そこに成功の鍵があると思われる。そのためには、Webを通じて、今までのPCの世界と互換性を持たなければならない。そのためにも、汎用性が必要なのだ。

 iPadの革新性のポイントは、キーボートをなくしたことだと思う。つまり、コンピュータのインタフェースをまったく変えたと言うことだ。もちろん、入力をするとき、iPadもキーボードを画面に表示し、そこから入力できる。しかし、物理的なキーボードはない。ソフト的に処理しているのだ。iPhoneでやったことは、ある意味では、同じことだった。携帯電話から入力用のキーを取り外してしまった。そして、その延長上に、iPadがある。これが、iPadの革新性だと思う。これが、新しいPCの世界を切り開いていくことだけは確かだが、それでiPadが最終的に勝利するかどうかは、現在のところ不明だ。

 ニュースで見た限りでは、今のところ、iPadで読書をやろうというのはそれほど強くなさそうだ。むしろ、買った人たちは、なんとかビジネスに使おうと思っているようだ。そのためには、iPadにはいっているソフトに汎用性が必要だと思われる。こちらの方面は、多分、これから拡張されていくに違いない。iPadで、ワードやエクセル、パワーポイントが使えるようになるのかどうかは分からない。しかし、ケータイとパソコンを越えた通信端末としては、それだけのことができるようになるべきである。ある意味では、Webにつながり、Webを通していろいろな仕事が素早くどこでもできるようになるということが問題なのだ。

 「iPadの衝撃」という記事があちこちで踊っているので、iPadについて、私なりの感想を書いてみた。iPadによって、アップルは、WindowsPCを越えようとしているのではないかというのが、私の最初の印象だった。WindowsPCを越えるというのは、とても大変なことである。そして、おそらくiPadは、今のままではWindowsPCは越えられないと思う。しかし、越える可能性があるのではないかという気がしている。iPadがソフトバンクだけの商品になって登場したことがとても残念だ。もし、海外のようにSIMロックがかかっていなかったら、もっと、違った展開が日本で起きたに違いない。そして、日本のガラパゴス化したケータイの世界が、もっと速く変わっていくことができたに違いない。

 一つの薄い画面があり、そこですべてのことがソフト的に処理できるとしたら、それは本当に新しいPCだと思う。入力がキーボードから離れることにより、私たちは、次の新しい可能性を見つけるに違いない。そして、その画面は、世界と繋がった新しい端末なのだ。ケータイでもなくパソコンでもない新しい何かが今生まれようとしている。キーボードがないというのは、ほんの些細なことのように見える。しかし、入力という点では、一つの大きな変化だと思われる。それが、どんなに革命的なことかは、これから少しずつはっきりしてくるに違いない。アップルのiPadは、私にそんなわくわくした可能性を予感させた。

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ネットの可能性

2007-05-13 21:11:38 | デジタル・インターネット

 梅田望夫と茂木健一郎の『フューチャリスト宣言』(ちくま新書/2007.5.10)を読んだ。これほどインターネットの可能性に楽天的な文章を読んだのは初めてだ。確かに、タイトルがそうなのだから、インターネットの可能性を信じるしかないのだが。ただ、私も、彼らと同じように考えているところがあって、素直に納得しているところもある。Web2.0という言葉には色々な定義があるが、ある意味では、インターネットは紙以上の存在になってしまったということだ。もう既に、インターネットは、メディアでない。それは、一つの大きな共同の仮想空間だというべきだと思う。大前研一風に言えばそれは、新大陸だ。この本では、梅田望夫の発言のほうが面白かった。

 ヤフーやMSNのトップページは、まだ、何となく雑誌の表紙か目次のような印象を与える。しかし、グーグルのトップページは、まさしく、Web2.0に相応しく、グーグル的としか、言いようがない。このグーグルのトップページについて、梅田望夫は次のように語っている。

グーグルの画面というのは、深い思想に基づいています。そのときのユーザーが必要としている情報しか出さないということです。その人が必要としているときに必要としている情報を正しい場所に出す、という考え方が貫かれているわけです。つまりグーグルにポンと飛んできた人は、検索をしたいだけで広告を見たいわけじゃない。だからあそこには一切広告は出さない。デザインの美しさから画面を真っ白にしたいんじゃなくて、検索したくてグーグルに飛んできた人に広告を見せる気はないという意思表示なんです。(『フューチャリスト宣言』p23より)

ところで、グーグルは、広告収入で莫大な利益を上げている。言っていることとやっていることが矛盾しているようだが、その点について、梅田は次のように解説している。

グーグルという会社はいろんな意味で思想を先に作ります。「我々は邪悪なことはしない」とかね。そんな大げさなことを言うから「邪悪とはなんぞや」といろいろもめるんだけど、そういう思想の一つに、必要とされるところにのみ情報を置くんだというのがある。広告とは情報である、という思想なんです。検索した後に出てくる広告というのは、検索した言葉が既に入力された以上、その人にとって価値がある情報のはずだ、だからそこに出しているんだ、そういう論理です。その思想に合わないところの場所には、一切広告はださない。(同上p24より)

 何となく分かったような分からないような言い方だが、グーグルというものの存在の意義については、何となく分かる。今のところ、グーグルもユーチューブを買収して映像というものの意味を探っている状態だが、インターネットを流れるデジタルのテキストのレベルにおいては、世界と支配しつつあり、インターネットの世界に一つの革命をもたらしたことだけは確かのようだ。そして、それはマイクロソフトに対抗しうる企業が初めて現れたということでもある。グーグルのような企業は、どこかの会社に属していたらおそらく実現できないものである。

 勿論、ユーチューブのような企業を作ることでも、おそらく日本ではできないと思われる。日本の優良なデジタル企業で、ユーチューブのような発想をしたら、すべて潰されてしまうに違いない。それほど、日本の企業の場合は、お互いに依存しあっているところがある。それなら、企業に属さないで、こうした起業が可能だろうか? それは、今のところ分からない。一部、ITバブルの頃、渋谷の一角が日本のシリコンバレーと呼ばれたことがあったが、いつの間にか、損沿いそのものが忘れ去られようとしている。私には、携帯にうつつを抜かしている日本の国家戦略が間違っているような気がする。携帯の害というのは、本当は携帯がダークサイトとつながるからではない。

ネットの上で何かを中途半端に有料にして生計を立てようというのは、うまくいきません。パスワードが入って検索エンジンに引っかからなくなるから、ネットは絶対に有料にしちゃいけないんです。無料にしてそれで広告が入るかといったら、先進国でまともな生活ができるほどは普通は入らない。一方、リアルというのは不自由だからこそ、お金を使って自由を求めます。だから永久にリアルの世界でお金が圧倒的に回る。この二つの世界での生計の立て方とか、それから知的満足のしかたとか、いろいろ組み合わせて戦略的に考えていく必要があります。(同上p105・106より)

 私には、この梅田の言葉が、よく分かる。携帯サイトは、常にリアルを引きずっているのだ。リアルの中の便利さ、心地よさ、人間関係づくりに依存して存在しているのが、携帯サイトのあり方だ。だから、携帯電話でのビジネスは、インターネットに吸収されない限り、どうしても限界に突き当たる。残念ながら、今のところ、人がどれほど批判しいようが、検索エンジンによって検索されないサイトは、存在しないと同じであるのだ。おそらく、SNSの世界と携帯電話の世界は、かなり似ているように思われる。

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