電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

グーグルとWebの未来

2006-04-23 21:15:34 | デジタル・インターネット

 佐々木俊尚さんの『グーグルGoogle 既存のビジネスを破壊する』(文春新書/2006.4.20)を読んだ。梅田望夫さんの『Web進化論』を読んでからこの本を読むと、とても理解しやすい。梅田さんが、いわばグーグルの存在論を書いているとすれば、佐々木さんはグーグルの機能と役割を詳しく書いている。もちろん、二人が書いていることはかなりの部分で重なっているが、梅田さんがグーグルの存在のブラスの側面を強調し、佐々木さんがどちらかというとグーグルの負の側面をより多く取り扱っているのが特徴だと言えないことはない。いずれにしてもインターネットという存在が、やがてグーグルのような企業を生み出し、そしてそのグーグル(必ずしもグーグルでなくてよいのだが)がインターネットを支配していくようになるという必然性のようなものがこの二つの書物から理解できる。

 佐々木さんの本で、私が始めて知ったことがある。こんなことは、Webに詳しい人なら常識なのかも知れないが、グーグルの「アドワーズ」というビジネスモデルには更にモデルがあり、それがオーバーチュアの創設者のビル・グロスの発明した「キーワード広告」にあるということを教えて貰った。キーワード広告というのは、たとえば、ヤフーの検索サイトに行って、「雑誌」と入力してクリックしてみる。するとそのトップページの真ん中当たりに、「スポンサーサイト」という部分がある。「雑誌のオンライン書店はこちら!」という見出しと「雑誌ならヤフオクで」という見出しがある。これが、いわゆる「キーワード広告」というものである。そのほか、たとえば「教材」と入力してみる。こちらのほうは、「ディズニーの英語システム」などいくつかの見出しが出てくる。

 グーグルは、このビル・グロスの「キーワード広告」をまねて、「アドワーズ」というシステムを開発した。今度は、グーグルを開いて、同じように「雑誌」や「教材」で検索し見るとよい。グーグルの場合は、右側にスポンサーサイトというのがあることが理解できる。佐々木さんは、グーグルが既存のビジネスを破壊していきながら、自分の新しいビジネスモデルを創りあげていくところを解明している。「キーワード広告」が素晴らしい効果を示して成功した「B&B羽田空港近隣パーキングサービス」の例を取り上げているが、この「キーワード広告」というのが脚光を浴び始めたのはインターネットで「検索エンジン」がとても重要な機能を果たすようになったきたからだと言う。

 その変化が日本国内でも鮮やかに現れてきたのは、2002年ごろだったと思う。ネットレイティングスというインターネットの調査会社があり、ネットに関連するさまざまな調査を行っている。グーグルやヤフーなど主要な検索エンジンで使われた検索キーワードのランキングも調べているのだが、同社のこの年の調査結果に、「地図」や「アダルト」など従来からよく使われていた検索キーワードと並んで、「Yahoo!」「フジテレビ」「NHK」など、特定のホームページを表すキーワードが上位を占めたのである。
 それまでの検索エンジンは、何かを調べたい人が情報収集のために使うというのが、最も普通の利用方法だった。ところがこの時期から、明らかに検索エンジンの使い方が変わってきた。つまり「情報収集」ではなく、検索エンジンを「ナビゲーション(道案内)」として使う人が急に増えてきたということなのだった。(『グーグル』文春新書・p96・97より)

 この「検索エンジン」をナビゲーションとして使うということは、インターネットの世界に二つの機能をもたらす。ひとつは、既存のインターネットのビジネスモデルを破壊するような役割を果たすことになる。たとえば、楽天のようなモールは、楽天をポータルサイトとして使うことによって、より有効に機能する。しかし、「検索エンジン」でこのサイトに直接アクセスできるようになるということは、そうしたポータルサイトとしての機能を無効にすることを意味する。グーグルは、「グーグルニュース」という無料のサービスを提供しているが、ここへ行けば色々な新聞記事が分類され、記事ごとに調べられる。もう、誰も「朝日新聞」のサイトや「読売新聞」のサイトなどへ行かなくてもすむ。こちらでは、むしろ地方紙などが脚光を浴びたりすることになる。

 もう一つの機能は、膨大なインターネットのサイト情報をデータベース化することにより、検索エンジンに乗らないサイトは、インターネットから存在していないことにされてしまう役割を果たすことになる。これを、「グーグル八分」というそうだ。つまり、グーグルに認められないと誰もそのサイトに行かなくなってしまうことになる。ある意味では、「検索エンジン」が全能の神のようになり、神に認められない限り、存在しないも同じだということになるわけだ。これに伴う、グーグルとのトラブルはかなり起きているらしい。中国政府と提携して、中国国内のグーグル検索エンジンではグーグルがある種の用語を検索できないようにしてしまったことは有名であり、そこではある種のサイトは存在しないと同じことになっているわけだ。

 いま、アメリカでは、このグーグルに対抗してヤフーとマイクロソフトが「検索エンジン」の強化に乗りだしているという。検索エンジンを制するものが、インターネットの世界を制するというわけだ。佐々木さんは、グーグルが今後どうなっていくかわからないし、グーグルが成功するかしないかは不明だが、たとえグーグルが企業として失敗しても、その時は、ヤフーかあるいはマイクロソフトが、さらにはまた全く新しい企業かも知れないが、だれかが「検索エンジン」と膨大なデータベースによってインターネットの世界を支配してしまうような時代が今すぐそこに迫っていると警告しているように思う。

 しかし、私は、インターネットはまた別の発展をしていくような気もする。孤立無援のHPが世界に存在を示すのは、「検索エンジン」に乗るか乗らないかだけではないと思われるからだ。たとえば、ブログのような存在やSNSのような存在は、インターネットの機能そのものを上手く働かせた存在でもある。トロット夫妻が開発したムーバブルタイプのブログでは、トラックバックとコメントという機能を通じて、リンクの輪を広げていくことができる。グーグルの検索エンジンは、「優れたHPから沢山リンクが張られたHPはいいHPだ」という論理だが、ブログは「私の選んだ友だちは本当の友達だ」という論理で成り立っているのだ。

 もちろん、すべてがそうだとは言えないとしても、インターネットの基本は、「友だちの友だちは友だちだ」という論理でリンクが成り立っていく世界であることも確かだ。それは、本質的なところで、「検索エンジン」の論理と相反するものを持っている。最も単純な理由は、「検索エンジン」は最終的には機械的な処理であり、コンピュータにすべてまかせることになる。これに対して、ブログのトラックバックは、人間が自分で操作しなければならないのであり、そのことに意味がある。そういう意味では、私は、ブログが単なるWeb日記などを越えたWebサイトとしてインターネットでの重要な役割を果たすような時代がきているのだと思う。

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松永英明というブロガーの過去と責任

2006-03-20 11:43:36 | デジタル・インターネット

 アルファブロガーと言われていた松永英明さんは、私がブログを始めるときに、最初にブログについてのノウハウついて教えて貰うために読んだ本(『ウェブログ超入門!』日本実業出版/2004.6.10)の著者だ。私は松永さんに会ったことはないが、本や彼のブログを読んだ限りでは、とても誠実そうな印象を受けたし、その印象は松永英明さんが実は、最近までオウム信者であるということ知ってからも変わらない。松永さんの自信のインフォーマルなブログによれば、松本・地下鉄サリン事件のときには、オウム第一上九・第5サティアンにいて「郵政省出版」に属し、新雑誌「ヴァジラヤーナ・サッチャ」の創刊の準備をしていたという。そして、オウムと完全に切れたのは、つい最近だと書かれている。

 松永さんについては、現在のところ大体3つの評価が行われている。一つは、当然の疑いでもあるわけだが、彼はまだ隠れオウム信者であり、これから何をするか分からない人間であり、とうてい許すことができないという意見である。二つめは、これと反対で、一応過去と決別したようであり、彼の誠意ある発言を信じて、今後を見てあげようという意見である。三つ目は、どちらかといえば後者に近く、多少松永さんに同情的であるが、現在の彼はたとえオウム信者ではないとはいえ、松本・地下鉄サリン事件のときにオウム信者であったのであり、そのことは直接的ではないとはいえ、間接的に責任があるはずであり、その責任は何らかの形で取るべきだという意見だ。

 私の知っていた松永さんはとても誠実そうに見えるが、それでも私にはこの三つともすべてが当たっているような気がするのだ。ある意味では、人は多重人格でありうると思っているといった方がいいかもしれない。なぜなら、松永さんが、完全にオウムと切れたのは、つい最近である言っていることからも分かるように、松永英明というペンネームを選んで、ブロガーとして活躍を始めてからも彼はオウム信者であったわけだし、完全なオウムとの決別は、松永英明=河上イチロー説が出て来てからのような印象を受ける。その時に、松永さんは、たぶんは、今のままの中途半端な立場はよくないと気づいたように見える。

 現在もオウム信者は、名前を変えたとはいえ教団を作っている。おそらく、その教義はかなり変質しており、松永さんのブログを呼んだ限りではかなりルーズな組織になっており、むしろオウムを辞めて、別の世界で生きていくのが困難な人たちが寄り集まっているような印象を受ける。私たちは、オウム信者が教団を作るのも嫌だと思っているし、かといって彼らが教団を解散して、私たちの隣人になるのも嫌だと思っているところがある。つまり、彼らはまだ犯罪者であり、そのためには教団としてまとまっていた方が安心だと思っているところがあるのだ。これは、偏見だと言えば偏見だが、普通の感覚でもある。中国や韓国の人たちが、未だに日本人を嫌っている構図と似ている。

 松永さんは、おそらく、やっとことの重大さに気づいたのではないかと思う。彼は、松永英明という名前で、新しい自分を発見したように思えるが、河上イチローであった自分の清算が済んでいるわけではない。松永英明という名前でやっていることは、教団とは一切関係がないというように言っているが、そして、おそらくそれは正しいのかも知れないが、しかし、彼はオウム信者としてやっていたことは確かだ。やっと松永英明という名前で現実社会からそれなりの存在意義を認められたときに、オウム信者であると暴露されて狼狽している様子がとてもよく分かり、彼と関わってきた人たちが不審のまなざしで見られることに対して、困惑しているのもよく分かる。

 村上春樹さんの『アンダーグラウンド』(講談社文庫)の「はじめに」の中で、村上さんは『アンダーグランド』をまとめようと思ったきっかけになったという、雑誌に投書欄に掲載されていた読者の手紙のことを書いている。

 手紙は、地下鉄サリン事件のために職を失った夫を持つ、一人の女性によって書かれていた。彼女の夫は会社に通勤している途中で運悪くサリン事件に遭遇した。倒れて病院に運び込まれ、数日後に退院はできたものの、不幸にも後遺症が残り、思うように仕事をすることができなくなった。最初のうちはまだよかったのだけれど、事件後時間が経つと、上司や同僚がちくちくと嫌みを言うようになった。夫はそのような冷たい環境に耐えきれずに、ほとんど追い出されるようなかっこうで仕事を辞めた。(『アンダーグランウンド』p16より)

 この女性の夫は、社会から二重に暴力を受けたことになる。一つは、サリン事件による無差別殺人事件の直接の被害者になってしまったことである。これは、オウム真理教団によって意図されたものではあるが、本人にとっては不運としか言いようがない。もう一つは、その結果の後遺症で仕事が上手くできなくなり、結局会社からはじき出されたということだ。これも本人にとっては、不運としか言いようがない。こうしたまるで不条理な事態について、村上春樹さんは、次のように語る。

 その気の毒な若いサラリーマンが受けた二重の激しい暴力を、はたの人が「ほら、こっちは異常の世界から来たものですよ」「ほら、こっちは正常な世界から来たものですよ」と理論づけて分別して見せたところで、当事者にとっては、それは何の説得力も持たないんじゃないか、と。その二種類の暴力をあっちとこっちに分別して考えることなんて、彼に取ってはたぶん不可能だろう。考えれば考えるほど、それらは目に見えるかたちこそ違え、同じ地下の根っこから生えてきている同質のものであるように思えてくる。(同上・p18)

 私には、現段階の松永英明さんがブログに書いている文章を読んでいる限りは、松永さんはこの若いサラリーマンの立場に自分がいると思っているような気がしてならない。彼がたまたま入信したオウム真理教が松本・地下鉄サリン事件のようなことを起こしたことが信じられないという思いと、そのオウム信者であるが故に社会からつまはじきされてしまうことに対する怒りのようなものが、松永さんの文章には感じられる。もし、私の印象が正しいとしたら、それは、間違っているというしかない。少なくとも、オウム真理教団が存在しなければ、『アンダーグランウンド』の世界は成り立たなかったことだけは確かである。

 松永さんは、一種の自己批判を込めて、「オウム/アレフの物語 」を書き始めたようだ。まだ、書き始めたばかりなので、これについてのコメントは差し控えるが、サリン事件が起きたときに、オウム信者であり、かなりの情報をもっていたと思われる人の文章としてどんなものになるか注目していきたいと思う。松永さんは、「松永英明」というライターとして生きていきたいと思っているらしいのだから、彼は自分で自分の「過去と責任」を文章を書くことによって果たすべきだと思う。そして、おそらく、その課題は一生背負わなければならないことになると思われる。

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知の世界の再編成

2006-03-05 09:57:27 | デジタル・インターネット

 「世界中の情報を組織化(オーガナイズ)し、それをあまねく誰からでもアクセスできるようにすること」というのが、グーグルという会社のミッションだという。梅田望夫さんの『ウェブ進化論──本当の大変化はこれから始まる』(ちくま新書/2006.2.10)には、梅田さんの友人でグーグルにつとめている人の「世界政府っていうものが仮にあるとして、そこで開発しなければならないはずのシステムは全部グーグルで作ろう。それがグーグル開発陣に与えられているミッションなんだよね」という言葉が紹介されている。

 ティム・バーナーズ=リー著『Webの創世』(毎日コミュニケーションズ/2001.9.1)の中で述べられていた「Semantic Web」(意味を持つWeb)という世界について一番理解をしめし、その本質的な部分に今一番近づいているのがグーグルかも知れない。もちろん、ティムが求めていたのは、「Semantic Web」を実現することであり、そのために、XMLという規格を作り、検索エンジンが情報を組織化できるようなWeb世界をつくることだった。しかし、いま、グーグルの検索エンジンの成功は、あらゆる人たちがグーグルに検索されるようになるために、より「Semantic Web」に近いWebサイトを作ろうという動き加速させているようだ。

 私は、今流行のAjaxを少し勉強しようとして、Ajaxで作られているというWebサイトとして、グーグルの「グーグルローカル」や「google suggest」を時々見に行く。それらのサイトは、遊んでいても楽しいのだが、グーグルの提供するWebサービスは、徹底していて、それらは私たちが自分たちのビジネスで利用することが許されている。実際「グーグルローカル」を利用した、大企業のサービスとしては、NTTコミュニケーションズの「ブログ人マップ」や不動産検索エンジンの「Smatch」として利用されている。Ajaxは、基本的には全く新しいテクノロジーというわけではない。名前が「Asynchronous JavaScript+CSS+DOM+XMLHttpRequest」の略だと言うことから分かるとおり、XMLの規格も使われている。

 私たちは突然、グーグルのような企業が生まれたことに驚く。梅田さんが言うように、グーグルは、おそらく、ITの世界で言えば、IBMやマイクロソフトに続く、第3の何かだと思う。IBMはビジネスの世界に導入されたコンピュータのというものの象徴であったし、マイクロソフトはパソコンの普遍的なプラットホームというものの象徴であった。グーグルは、インターネットの世界で検索エンジンの果たす本質的な機能に対してもっとも遠くまで見通した企業だと言うことができるが、グーグルが最終的に何になろうとしているかは、今のところ未知の領域に属する。ただ、少なくとも、マイクロソフトを越える企業があり得るとしたらおそらくその最右翼がグーグルだと思われる。

 ところで、梅田さんは『ウェブ進化論』で、「ネット世界の三大法則」という新しいルールに基づき新しい世界が発展し始めたということを主張している。この三大法則はリアル世界では絶対に成立しない法則だという。三大法則の前提には、ITの世界における「インターネット」「チープ革命」「オープンソース」という「次の10年への三大潮流」がある。「チープ革命」とは、「ムーアの法則」よるもので今後も、コンピュータのハードの技術が倍々で進化していくということである。つまり、一年足すと同じものが半値になってしまうということだと思えばいい。

「三大潮流? どの話も、無料とかコスト低下とか、儲からない話ばっかりじゃないか」と反射神経的に反応される読者も多いかも知れない。そしてそれは、日本の大企業幹部の典型的反応でもある。そうその通り。旧来の考え方で営まれるビジネスや組織に対して、この三大潮流は破壊的に作用する傾向が強い。慣れ親しんだ仕事の仕方を変えずにいると、年を経るごとに、少しずつ苦しくなっていく。しかし、三大潮流に抗するのではなく、その流れに乗ってしまったらどうだろう。その流れが行き着く先を正確に予想することはできないが、流れに身を任せた知的冒険は、きっと面白い旅になるのではあるまいか。(『ウェブ進化論』p29・30)

 さて、梅田さんの言う「ネット世界の三大法則」とは次のようなものだ。

第一法則:神の視点からの世界理解
第二法則:ネット上に作った人間の分身がカネを稼いでくれる新しい経済圏
第三法則:(≒無限大)×(≒ゼロ)=Something、あるいは、消えて失われていったはずの価値の集積

 第一法則の「神の視点からの世界理解」ということでは次のようなことが例としてあげられている

 検索エンジンというのは、検索したい言葉をユーザが入力し、結果としてその言葉に適した情報のありかが示されるサービスである。これが顧客の利便性という視点からのごく普通の理解だ。しかし同時に検索エンジン提供者は、世界中のウェブサイトに「何が書かれているのか」ということを「全体を俯瞰した視点」で理解することができる。そしてさらに、世界中の不特定多数無限大の人々が「いま何を知りたがっているのか」ということも「全体を俯瞰した視点」で理解できるわけだ。(同上・p36)

 第二法則については、次のように説明されている。

 第二法則とは、「ネット上にできた経済圏に依存して生計を立てる生き方」を人々が追求できるようになったことである。ネット上に自分の分身(ウェブサイト)を作ると、リアルな自分が働き、遊び、眠る間も、その分身がネット上で稼いでくれる世界が生まれた。個人にある種の才覚とネット上での行動力さえあれば、リアル世界に依存せずとも、ネット上に生まれた十分大きな経済圏を泳ぐことで生きていける可能性が拡がりつつある。(同上・p36)

 最後の第三法則は、次のようなものだ。

 第三法則とは、序章で例に出した「一億人から三秒弱の時間を集める」ことで「一万人がフルタイムで一日働いて生み出すのと同等の価値を創出する」というような考え方のことである。たとえばお金であれば一円以下の端数、時間ならば数秒といった、放っておけば消えて失われていったはずの価値を「不特定多数無限大」ぶん集積しようという考え方である。もしその自動集積がほぼゼロコストでできれば「Something」(某かの価値)になる。リアル世界の発想では「無」だったものが「Something」になるのだから大事件である。(同上・p37)

 この三大法則を上手く組み合わせたところにこれからのインターネット上のビジネスモデルができることになる。アマゾン・コムがやったこともこの三大法則にかなっている。アマゾン・コムでは、一度買い物をすると、次にこんな本がありますよといって情報提供をしてくれる。これは、第一法則に基づいている。また、最近流行のブログなどのアフィリエイト機能は、第二法則の応用だということができる。そして、そのアフィリエイト機能は、第三法則にもかなっている。アマゾン・コムは、自分では何もしなくても、不特定多数の無限大のウェブサイトにアフィリエイト機能をつけることにより、膨大な購読者を集めることができることになる。

 ところで、この第三法則は、とても興味深い性質がある。IT世界で最近使われるようになった言葉に「ロングテール」という言葉がある。「ロングテール」には「恐竜の首」が対応している。たとえば、2004年の新刊本の販売部数を売れたものから順に棒グラフにしていくと、一番左に『ハリー・ポッター』が来て、それから順に幾つかの本が並ぶことになるが、ベストセラーが終わると急に販売部数は下がりそれからずうっと約七万点ほどが並ぶことになる。最初のベストセラーの部分は「恐竜の首」のように高いが、残りは「長いしっぽ」のようになるというわけだ。

 さて、リアル書店や、リアルの出版社は、このベストセラー(恐竜の首)で利益を上げ、いい本だが売れない本の損失を補って、文化に貢献してきた(売れなくても文化の創造は必要だし、それに寄与しているからこそ再販制は維持しなければいけないという主張をよくする)ということになる。こうした現象はパレートの法則として、「80対20の法則」として有名だ。「ある集合の20%が、常に結果の80%を左右する」という法則である。つまり、新刊本の二割の本が、八割の売上を稼いでいるというように言ったりする。会社でいえば、あまりいい表現ではないが、二割の社員が八割の貢献をしていると言ったりする。

 梅田さんによれば、アマゾン・コムでは、その法則が通用しないのだという。つまり、アマゾン・コムでの本の売り上げのうち三分の一は、リアル書店では売れない本によるのだという。つまり、「ロングテール」とは、いわゆる「負け犬」の本のことだ。アメリカの場合は、再販制もないので、この「ロングテール」のほうが、利益がいいらしい。この辺はとても興味深い。そして、「ロングテール」は、リアルの世界では、どうしても切り捨てられる世界であり、インターネットを活用しなければ永久に救われない世界であるともいえる。

 昔、1年で100万冊売れて終わりという本と、100年間で100万冊売れてきた本ではどちらが価値ある本かということを論じあったことがある。出版社にとっては、明らかに1年で100万冊売れる本のほうが価値があるに決まっている。100年も商売を続けることは並大抵ではない。しかし、100年間売れ続けるということは、すごいことである。おそらく、その本は更に何百年も売れ続けることになるだろう。いわゆる古典になっていく本だ。そうした本は、リアル書店では「負け犬」であるかも知れないが、生き残った本でもある。「ロングテール」が本当に生きてくるのは、インターネットの世界だけかも知れない。また、どのように生き残っていくのかはこれからの問題でもある。

 もちろん、Webの世界は、儲けることだけではなく、知的な冒険でもとても面白い現象を呈していると思うのだが、梅田さんの『Web進化論』もとても知的でエキサイティングな内容だと思った。梅田さんは、最近は、自分より年下の人としか付き合わないようにしていると言っているが、私より一回り若い梅田さんから私などはもう相手にされないというのは残念だが、まあ、こうした本を読むことによって私にも最先端に触れることができるのは、幸せだというべきか。

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「スーツ」と「スイート」

2005-11-23 22:21:10 | デジタル・インターネット
 「Adobe Creative Suite」というのは、アドビというソフト会社のPhotoshop,Illustrator, InDesignなどがセットになったデジタル・デザインのプラットホームとでもいうべきものだ。私たち出版に関わるものにとってはなじみ深いソフトであり、私のPCにもそれがインストールされている。ところで、私はそれをいままでずっと「アドビ クリエイティブ スーツ」と読んでいた。どうも、そうではなく、アドビ社の人たちは、「アドビ クリエイティブ スイート」と読んでいるようだということを、先日若い女性編集者に教えてもらった。
 彼女は、アドビのセミナーに出ていて、アドビの人たちが「スイート」と読んでいることに気がついたらしい。そこで彼女は、「suit」と「suite」という文字の違いに気がついたという。英和辞典を調べると「suit」には、「ひとそろい」とか、「一組」とかいう意味もあるが、主として服のひとそろい、洋服のスーツを意味している。そして、「suite」もまた「ひとそろい」とか「一組」という意味がある。「一組のソフトウェア」という意味で使うときは、当然「suite」であり、「a suite of software」(ソフトウェア一式)と言うように使う。違いは、前者は動詞としても使われるが、後者は名詞だけであることだ。

 ところで、小学館の「Progressive English-Japaniese Dictionary」によれば、「suite」は「スーツ」とも発音するそうだ。特にアメリカでは、その傾向が強いようだ。だから、本当は、「アドビ クリエイティブ スーツ」と読んでも間違いではなかったらしい。もちろん、そう読んでいる人が、「suite」を「suit」と間違えて読んでいたのか、それとも、アメリカ人の発音を聞いていて単純に「スーツ」と読んだのかどうかは、不明であるが、私の場合は、「suite」を「suit」と間違えて読んでいたようだ。

 私はこのとき、はじめて、ホテルの「スイート・ルーム」の「スイート」をまた違う意味で勘違いしていたことに気がついた。私は、「sweet」と「suite」を間違えていたのだ。特に新婚旅行などにこの部屋を予約することが多いことや、「スイート・ルーム」という英語があるものと思い込んでいたので、「甘い部屋」「気持ちのよい部屋」という意味を考え、その分高級な部屋だと思っていたらしい。本当は、「suite」という単語一つで日本語の「スイート・ルーム」の意味を表していたのだ。彼女は、「スイート・ルームというのは、幾つかの部屋が組み合わさった部屋のことですよ」と教えてくれた。「間違ってもダブルベッドが置いてある部屋という意味ではありませんよ」と彼女は念押ししてくれた。

 英語で、「 We rented a suite in the resort's best hotel.」というのは、「 私たちは、そのリゾート一高級なホテルのスイートルームに泊まった。」という意味であり、「a suite room」とは言わないらしい。「英辞郎」によれば、「特別室」という意味もあるらしい。もっともその「特別室」のもともとの意味は、「一続きの部屋」という意味であったようだが。「ウサギ追いし かの山」というのを、「ウサギ美味し かの山」と理解していたのと同じような間違いを私はずっとしていたことになる。この年になるまで、このことに気がつかなかったことはとても恥ずかしいことかも知れないが、考えてみれば私が「スイート・ルーム」を予約したのは、新婚旅行に行ったときのたった一回だけだったのだ。
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碁盤と碁石と碁笥

2005-07-12 22:06:17 | デジタル・インターネット
 囲碁は論語などにも登場し、紀元前700年ごろの中国でたしなまれていたようだ。この辺の歴史については、日本棋院のHPの中の「囲碁の歴史」が参考になる。古来の中国では、「琴棋書画」を君子のたしなみとして、子供の頃からしっかり学ばせていたようだ。三国志演義のよれば、ケガをした関羽が、麻酔の代わりに、囲碁をしながら医者に毒矢の傷の手術をうけたという話があるが、関羽は武力に優れていただけでなく、君子のたしなみももっていたらしい。
 囲碁がいつの頃日本に伝わったかは不明であるが、遅くとも奈良時代にはかなり普及していたようだ。701年に定められた「大宝律令」の中の僧尼令に「スゴロクやバクチは禁止するが、碁琴は禁止しない」ということが決められているが、これによれば僧侶や尼の中にもかなり普及していたことが伺われる。碁琴の碁は、もちろん囲碁のことだが、平安時代になれば、源氏物語絵巻にも貴族の女性達が囲碁に興ずる場面が登場しいている。平安時代の貴族の女性達には囲碁の教養は必修科目であったようだ。

 ところで、囲碁をするためには、碁盤と碁石と碁笥が必要である。碁笥(ごけ)というのは、碁石を入れておく器のことである。碁盤は、桂(かつら)と榧(かや)が多く使われているが、榧の碁盤は最高級品となっている。値段の方も、榧の方が一桁高い。碁石は、古くは本物の白い石、黒い石が使われていたが、1700年頃、白石用に貝殻が使われるようになった。白石には日向産の蛤が最高級品とされているが、現在大部分がメキシコ産の蛤貝を使用している。碁石は、厚みがあり、純白で縞目の多いものほど高級品とされ、蛤のどこの部分からくり抜くかによって雪印・月印・実用品に分類されている。黒石のほうは、三重県熊野産の那智黒が最良とされている。碁笥の方は、いろいろで、桜があったり、栗があったり、かりんがあったりと様々で、木目の美しさを競っている。

 勿論、普及品としては、碁石はガラス製のものとプラスチック製のものがあり、碁笥もプラスチックのものがある。私たちが普通に囲碁をするときは、たいてい桂碁盤の足のない平碁盤で、碁石はガラスで、碁笥はプラスチックというのが多いようだ。現に我が家の囲碁セットもそうである。ガラスやプラスチック製のものは、加工が可能で、最近は目に優しいグリーン碁石というものまである。このグリーン碁石というのは作家の夏樹静子さんが考案したものだということを「カラフルな毎日」というブログを書いているりつさんに教えて頂いた。

 昔は、1日に10数局囲碁を打っても平気だったが、今はとてもそんなに打てない。義理の兄が初段くらいで、私と時々打つが、休みの日に酒を飲みながら打ってもせいぜい3局くらいで終わる。碁盤に向かってじっと集中して考えているのが疲れる原因だと思ったいたのだが、ひょっとしたら、黒石と白石のコントラストが疲れさせるかもしれない。ただ、いい碁盤と碁石があれば、とても目に優しいので、そんなに疲れないとも思われる。むしろ、インターネットの場合は、パソコン上のモニターで見るので、これは確実に疲れるように思われる。

 だいたい、一時間半くらいじっとパソコンのモニターを眺めているのはかなりの目の酷使のような気がする。これも一緒のテレビゲームと同じようなことになるのかもしれない。勿論、画面はただ単に碁盤のシミュレーションであり、そこにどんなバーチャルの世界も存在していないのであり、ただそこに手で打つのではなく、自動的に浮かび上がってくる相手の碁石が誰の意志によってそこにおかれたのがが不明だということだけがこちらを不安にさせるだけだ。

 いま、私は、囲碁のことばかりを書いたが、将棋も同じような問題をもっていると思う。私の将棋の腕前は囲碁よりだいぶ落ちるが、それなりにできることはできる。将棋は、囲碁と違って、日本独自のルールであり、囲碁ほど世界的でない。将棋に対してはチェスが対抗馬だが、こちらはコンピュータが名人と対戦するほど進歩している。将棋の方は、囲碁と同じで、まだまだプロには勝てないようだ。これは、囲碁も将棋も取られたところに打てたり、どこに打ってもよかったり、将棋の場合は取った駒を使えたりと、チェスとはかなり様相を異にしていて計算がとても難しいためである。チェスの場合は、最初の駒の配置からただ一定のルールで動くことにより王様を取るだけなので、その分計算が簡単(それでもIBMの超大型コンピュータで計算するのだが)らしい。

 そういう意味では、私より強い相手がコンピュータであることはあり得ないのであるが、理論的な問題とは別に、私の感性は相手がコンピュータであるかのような錯覚を覚えることになる。もっとも前にも述べたことであるが、それは私にそれだけの力量がないだけの話であり、いつか、私にもそうした高度な世界での人間らしさを感じることができるときがくることを願って、囲碁をもう少し勉強してみようと思うようになった。何となく向上心に目覚めたりしている今日このごろではある。
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