電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

ドラキュラとヴァン・ヘルシング

2004-09-24 09:45:50 | 文芸・TV・映画
 昨日は、学校も仕事も休みだったので、親子3人で、映画を見に行った。映画館は「ユナイテッド・シネマ入間」。2005年6月30日まで実施されている夫婦のどちらかが50歳以上なら夫婦(2人)で2,000円という入場割引サービスを使う。だから、親子3人で3000円。映画は、スティーブン・ソマーズ監督の「ヴァン・ヘルシング」。

 ヴァン・ヘルシングとは、もともと、ブラム・ストーカーの小説「吸血鬼ドラキュラ」に登場する原因不明の病気の世界的権威のヴァン・ヘルシング教授をモデルとしているようだ。小説で60歳だったヴァン・ヘルシングは、ここでは全く新しいヒーローに生まれ変わっている。また、アナ王女も、小説の主人公の英国の弁護士ジョナサン・ハーカーの婚約者ミナがモデルだと思われる。小説のミナは、ドラキュラ伯爵がワラキア公国の王ヴラド・ドラクル伯爵の生まれ変わりだとすれば、その妻エリザベータの生まれ変わりだ。

 映画『ヴァン・ヘルシング』では、そうした小説『ドラキュラ』のことを半分忘れた方がいいかもしれない。先ほどの『ヴァン・ヘルシング』の公式サイトでは、次のようにヴァン・ヘルシングが紹介されている。

……19世紀、ヨーロッパ。夜の闇にモンスターの影がうごめいていた時代。ローマ・バチカンの秘密組織から命を受け、そのモンスターを狩る男がいた。男の名はヴァン・ヘルシング(ヒュー・ジャックマン)。彼の行く先々には必ず死体が残された。モンスターであることから開放された人間の死体が。彼はそのために各地でお尋ね者となり、また一方で謎に包まれた境遇から聖者とも呼ばれた。しかし、果たして彼が本当は何者であるのか、それは彼自身ですら知らない。過去の記憶の一切を失った彼は、その答えを探して、戦いと冒険の日々を続けているのだった。


 また、アナについては、次のように紹介されている。

……彼女の名はアナ(ケイト・ベッキンセール)。代々、ドラキュラと闘い続けてきたヴァレリアス一族の王女だった。そして彼女の兄ヴェルカン(ウィル・ケンプ)は、闘いのさなか、ウルフマンに変えられドラキュラ伯爵の手に落ちていた。突然現れたよそ者、ヴァン・ヘルシングを警戒し、反目するアナ。しかし、共通の敵、不死身のドラキュラを倒すため、二人は行動を共にすることになる。


 これらのことについて詳しく知るためには、「映画の森てんこ森■映画レビュー」の『ヴァン・ヘルシング』と『ドラキュラ』についての解説が参考になる。こういう親切なサイトがWeb上にいっぱいある。もちろん、映画専門のブログサイトもあり、いろいろな情報が手にはいる。

 いずれにしても、物語の荒唐無稽さと手に汗を握るスリリングな展開のために、私たち親子はとても満足した。グロテスクで不気味な怪物たちについても、『ロード・オブ・ザ・リング』を観ていたので、特別驚かなかった。久しぶりに、何の気兼ねもなく、映画に集中できた。

 ところで、「ドラキュラ伯爵」を調べていて、辻調グループのHPの辻調「食」の世界を見つけた。そこに、menu「食のコラム」があり、その中に「小説を食べよう! 小説の中の料理を再現」というコーナーがあり、『吸血鬼ドラキュラ』と「インプレタタimpletata」という料理についての記事がある。原作にはインプレタタについての詳しい記述がないが、それを再現して見せてくれる。

……珍しい料理を口にするつど、ジョナサン・ハーカーは、婚約者であるミナのために調理法をメモしているらしい文面が日記にあらわれるが、実際にそのメモは登場しない。文中に取り上げられているのは、ルーマニアやハンガリーでポピュラーな料理ばかりだが、その中で、「インプレタタimpletata」という名前の料理だけは見つからなかった。そこでこれを取り上げて再現を試みた。

 そう言えば、映画『ヴァン・ヘルシング』には、食事の場面が一つもなかったような気がする。舞踏会の場面でも踊りだけだった。とてもスリリングで、スピーディに物語りが展開していて、食事のようなゆったりした場面は作り込めなかったのかも知れない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トム・クルーズの「ラスト サムライ」

2004-09-05 09:53:46 | 文芸・TV・映画
 甥の中学生が、「ラスト サムライ」のDVDを買った。彼が見終わったというので、息子がそれを借りてきた。我が家には、DVDプレーヤーがあるのだが、ビデオデッキとケーブルテレビの接続がしてあり、うまく立ち上がらない。仕方がないので、私のPCで見ることにする。

 21インチの液晶ディスプレーで、映画を見ることはできるが、横に長い画面なので、まあ、画面の半分くらいの大きさになってしまう。近づき過ぎてもいけないので、息子と二人で2メートルくらい画面から離れ、椅子に座り、部屋の電気を消して、観る。「映画館に行っているみたいだね!」と息子ははしゃぐ。

 「ロード・オブ・ザ・リング」とアカデミー賞を競ったくらいなので、かなり期待していた。それなりに面白かった。モデルは、多分西郷隆盛の西南戦争ではないかと思うが、スケールは少し小さい。サムライの世界が、あまりに昔風で、少しおかしい。あの村の造りから考えると、戦国時代の小さな地方大名の世界のようだ。私には、南北朝時代の楠正成を思い出した。楠正成と後醍醐天皇の関係を思い浮かべながら、観ていた。

 もともとアメリカの映画なので当たり前なのだが、日本が舞台で登場人物の大多数が日本人なのに、話す言葉が英語だというのは、奇妙なものだ。「侍とは、主人に仕える者のことをいう」と教えられた、個人主義の国、アメリカからやってきたトム・クルーズ扮する南北戦争の英雄ネイサン・オールグレン大尉は、日本の侍に惹かれていく。

 監督のエドワード・ズウィックは、「最初に黒澤明の『七人の侍』を見たのは17歳の時でした。それ以来、何度見たか覚えていないくらい繰り返し見ています」と語っているが、確かに農村の様子は、『七人の侍』とよく似ている。彼は、日本の歴史をよく勉強しているようだが、明治維新のイメージが少し誇張され過ぎているのだ。江戸時代は「古代」ではない。「プロダクションノート」によれば、ズウィックは次のように語ったという。
……「何よりもその時代は過渡期だったのです」とズウィックは言う。「どんな文化でも、古代から近代への移行期というのはとりわけ感動的でドラマチックです。それにビジュアル的にもとても魅力的です。ひとりひとりの人物、ひとつひとつの風景、ひとつひとつの部屋が、物語を、新旧の並列を語ります。山高帽をかぶった紳士が下駄を履いた女の横を通り過ぎ、ライフル銃を持った男が日本刀を振りかざす男と向き合うのです」
 刀だけで戦う侍が、百姓上がりの銃を持った歩兵に負けるというのは、明治維新後の話ではない。それは、戦国時代の織田信長の時代の話でもあるのだ。明治維新を実現するための西郷隆盛の武力は、すでに高杉新作らが作り上げた騎兵隊などを下地にした近代戦だ。日本の江戸時代は、古代ではないのだ。ある意味では、侍(武士)の時代はすでに終わっていたのだ。

 それはそれとして、南北戦争の英雄で、名誉のために戦った男、ネイサン・オールグレン大尉(トム・クルーズ)が、戦後の世界に失望して日本にやってきて、日本の侍、勝元(渡辺謙)に会い、彼や彼の家族、部下たちの侍としての生き方に心を動かされ、ついに、彼らとともに滅びの戦いに突入していくというのは、壮絶だ。ただ、「誇りと名誉」のために戦うというのは、しかし、つらく切ないものだと思う。そういうつらく切ない戦いというのは、しかし、過去の日本だけではなく、現代の世界でもまだ、続いているということを思うと、もっとつらくなる。我が息子は、この映画を観てどう思ったのか、よくわからないが、見終わるとすぐに寝てしまった。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夏の暑い日に『冬のソナタ』を観る

2004-08-31 12:10:20 | 文芸・TV・映画
 BIGLOBEストリームで、『冬のソナタ』の第1話と『秋の童話』第1話が配信された。『冬のソナタ』は、2話以降は、5話パック1500円で有料になるとのことだが、『秋の童話』は、無料配信されるようだ。私は、一応、2作とも観てしまった。気がついたら、2時間過ぎていた。

 『冬のソナタ』については、講談社が「冬ソナ通り」というサイトを立ち上げ、徹底研究をしている。「どこよりも詳しいあらすじ」と「冬ソナリンク」は参考になる。というわけで、『冬のソナタ』のあらすじの紹介とか、ヨン様に対するツッコミとかは、「冬ソナ通り」に任せて、私の感想を言えば、正直言って、面白かった。第1話については、<青木さやかの「拝啓、ヨン様」>の次のような感想は、私にも半分程分かる。

……なつかしい匂いがしました。
昭和の日本のドラマ、中学時代読みふけった少女マンガと表現したほうがいいかしら。
物欲とひきかえになくしてしまった幼い日のドキドキ恋心が、よみがえってきた。
転校生のヨン様と、たまたまバスに乗り合わせたヒロイン・ユジン(想像の中では私)が恋に落ちるという典型的なパターン。
いやまたそこがいいじゃない!
ユジンに想いをよせるは幼なじみサンヒョク。
ねぇ、サンヒョクってさ、数学教授の息子のわりに特に数学もできず。いい奴のわりにモテず。
インパクトないよね?
特にブレイクもせずダラダラTVに出続ける若手芸人みたいなモンでしょ?
そのうち消えるわ。
わかりやすく嫌な女友達・チェリンからも目がはなせない。
さとう珠緒どころの騒ぎじゃない!
あと、チンスクとヨングク。
グループ内のザ・ザコキャラ。
シャ乱Qでいうと、「はたけ」ね。


 ただ、私は、「冬のソナタ」は第1話と第12話と最終回の3回を観ただけだ。そして、観た順番も、第12話と最終回はNHKの総合テレビで観、第1話はBIGLOBEストリームで、ノーカット版で日本語字幕版をPCで観た。また、その第1話を観る前に、『秋の童話』なんていうのを観たために、変則的な見方になってしまった。『秋の童話』は1998年、『冬のソナタ』は2002年に韓国KBSで放送されたもの。どちらも同じユン・ソクホ監督の作品である。

 『秋の童話』は、主人公が小さな頃、自分のいたずらのために、生まれたばかりで保育室に入っていた妹のネームプレートが隣の女の子のネームプレートと交換されてしまうという仕掛けがしてある。主人公はもてる男の子だが、妹が大好きだった。その主人公に妹の同級生から愛の告白をされてしまう。その時は、お付き合いを断るのだが、実はその女の子こそ自分の本当の妹だった。そのことを主人公とその両親、相手の母親が知ってしまうというところが第1話のあらすじだ。私には、何となく、2年後、『冬のソナタ』ができあがる下地がそこにあるように思う。

 「冬のソナタ」は2002年1月~3月に韓国KBSで放送されたとき、平均視聴率23.1%という韓国ドラマ界異例の高視聴率だったそうだ。出演者のファッションが流行し、撮影(ロケ)場所が人気のデートスポットになったりしたそうだ。2004年の現在は、日本で「韓流」(中国語で韓国ブームという意味)が起こり、日本からの観光客も訪れているという。日本でも2003年4月からBS2にて放送、好評のため同年12月にも再放送し、今年の初めにNHK総合テレビで放映されたばかりだ。そして、秋から、またBSでノーカットの韓国版が放映される予定だ。私も、その時を楽しみにしている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

NHK大河ドラマ『新撰組』

2004-08-30 09:22:47 | 文芸・TV・映画
 NHKの大河ドラマの『新撰組』は欠かさず観ている。これがどのくらいの視聴率で、どういった層に人気があるのかよくわからない。しかし、久々に、面白い展開だと思って観ている。もちろん、自分なりの新撰組像があり、それと微妙にずれたところで、ドラマは進行していく。だから、そのずれ具合を確かめ、自分の新撰組像をほんの微調整したりもする。

 昨夜の内容は、第34回「寺田屋大騒動」で、近藤勇が深雪太夫を身請けするころだ。こういうところは、とても安心して観ていられる。前回の第33回「友の死」で山南敬助が切腹をするところなどは、とても観ていられないような気持ちだった。どうも、私は、この新撰組が歴史の歯車の中でやろうとしていることが、とてもあぶなかしっくってあまり観ていられないようなのだ。

 私たちは、明治維新の担い手である、若い勤王の獅子たちのうち、多くの人たちが、特に坂本龍馬を初めとして、暗殺されたり、戦いの中で死んでいったことを知っており、その人たちを無惨だったと思っているからだ。新しい日本のために努力したのに、新しい日本を見ずに死んでいった人たち。そうしたことに荷担していた新撰組。そして、残って明治維新を実現したのは、何となくダメな人間ばかりだったような気がしたりもする。そういう意味では、彼らは明治の世界を見なくて死んだ方が良かったのかもしれない。

 高田祟史著『QED 龍馬暗殺』(講談社NOVELS)は、龍馬暗殺の面白い仮説を提起している。実際に手を下したのは、今井信郎たち見回組だが、裏で手引きしたのは西郷隆盛であること。龍馬が簡単にやられてしまったのは、寺田屋での襲撃で手を切られていて、ピストルを使えなかったからだし、そのために刀も十分に使えなかったからだということ。そのことは、西郷は十分に知っていたらしい、という仮説だ。それが本当かどうかよくわからない。しかし、十分あり得る仮説ではある。

……いや。確かに彼らはみんな純粋であったと思うよ。それは否定しない。しかし、純粋でありさえすればそれでいいのか、というとまた話が違ってくる。純粋無垢な思想が、美や正義と結びつくことは、歴史上を見渡しても意外なほどに少ないんじゃないかね。だからあの維新戦争も、果たして官軍側全員に、本当に国に殉ずるような大義や主張、そして高邁な思想があったのか、と問えば──どうだったんだろうか?としか答えようがないだろう(P325)

 そういう目で見ていけば、新撰組も違って見えてくる。彼らもまた、高杉晋作の騎兵隊ではないが、近藤勇にしても、土方歳三にしても多摩の百姓出身であり、「士道」を大事にしているが、志さえ同じくすればみんな「武士」になれるということであり、時代の動きに参加できると言うことを主張していたのではないだろうか。高田祟史さんの言葉を借りれば、「明治維新というのは、関ヶ原負け組の、徳川幕府に対する復讐戦だったんだ」ということもいえる。「士農工商」という身分制度が崩壊していく大きなうねりの中で、「薩摩藩」と「長州藩」は、徳川幕府をあくまでも武力で崩壊させたかったのかもしれない。そのためには、徳川慶喜をかっていた坂本龍馬を必要としなくなったのかもしれない。

 私は、新撰組の展開がちょっとつらくなってくると、『新撰組!』with ほぼ日テレビガイドを見て、息抜きをしたりする。これは、どう考えても『新撰組』の応援団なのだが、こういうのを読んでいると、何となくほっとするのはなぜなのだろうか。前回の第33回「友の死」について、糸井重里さんは次ようなことを言っていた。

……ようするに、ほんとうに連合赤軍だし、ドストエフスキーの『悪霊』の世界ですよね。平和のためにだの、革命のためにだので、武器を振り回したり、建物を破壊したときに、爆破したビルの中に勤めているふつうの人がいるわけでさぁ。その人たちが死んじゃうのはしょうがない、というくらいの大事なことをやってるつもりなんですよね。それで、あとで泣くようなことじゃ申しわけがたたないですよね、ほんとうは。ぼくは今回はそのまわりにある柔らかいものに対して泣けましたけど。最後のぐずぐずの場面はね、あれ、もう、甲子園の高校生みたいですよね。だからよく演じてるよね。とくに山本くんはねえ。実は、つられて泣いちゃったりはしてるんだオレも。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『エイジ』

2004-08-29 15:49:11 | 文芸・TV・映画
 昨日は、土曜日、久しぶりに子どもを連れて市ヶ谷の日本棋院まで行った。JR市ヶ谷駅前の「宮脇書店」で、本を何冊か買った。その中の一冊に重松清著『エイジ』(新潮文庫)がある。「エイジ」というのは、ageのことだとばかり思っていた。読んでみて、14歳の少年の名前で、「高橋栄司」のことだと初めて知った。

 「エイジ」は、東京郊外の進学中学校の2年生。成長期の子どもがかかる「オスグット・シュラッター病」(膝小僧のすぐ下にある、骨がぷくんと盛り上がった箇所──脛骨結節というところが痛む)で大好きなバスケット部を休部し、「帰宅部」に属している彼は、暇をもてあましながら、何となくテレビのホームドラマのような日常生活に違和感をおぼえていた。そんなとき、町に連続通り魔事件が発生し、逮捕された犯人は、同級生の石川貴史だった。

 この作品は、「朝日新聞」で1998年に連載を開始し、朝日文庫になっており、第12回山本周五郎賞を受賞している。私は、重松清編著の『教育とはなんだ』(筑摩書房)を読んでいたので、この作品の名前だけは、知っていた。今年の夏、新潮文庫になったので、初めて読んだ。

 『エイジ』は、今日の午前中に一気に読み終えた。静かに感動した。しかし、私は、自分の中学生の時代が今すぐ思い出せない。エイジの時代と場所もかなり違うのだが、それでも同じようなことがあったような気もするし、そうでもないような気もする。小学校時代、高校時代、大学時代というのは、いろいろと事件があり、それなりにエピソードが記憶の彼方から蘇ってくる。しかし、中学時代は、ほとんど思い出せない。かろうじて、よく勉強したような気もするし、好きな女のことを考えていたような気もする。

……今年の秋は雨が多かった。急に暑くなったり寒くなったりした。エルニーニョがどうしたとか、地球温暖化がどうしたとか、オゾンホールがどうしたとか、難しいことはよくわからないけど、地球は大変なことになっているらしい。それに比べれば、日本の、桜ヶ丘ニュータウンの、ガシチュウの、2年C組の、ぼくなんて、死ぬほどちっぽけで、だけど、ちっぽけはちっぽけなりに、いろいろ大変なんだ。
 でも、相沢志穂みたいに言おう、何度でも言ってやろう。
 負けてらんねーよ。

 相沢志穂というは、エイジの好きな女の子だ。エイジの相沢志穂への思いは、私にもとても懐かしいような気がした。そんなようなことが、私にもあったような気がするのだ。この小説には、エイジや相沢志穂の外に、「岡野」や「ツカちゃん」、「タモツ」、「タカちゃん」というような個性的な中学生が登場するが、彼らにもどこかであったような、さもなければ自分の中のどこかでであったような気がする。

 ところで、この小説のすばらしいところは、事件を起こした同級生の「タカちゃん」が戻って来たとき、みんなが彼を受け入れるところを描ききったこと。タカちゃんは、おそらく保護観察処分となり戻ってきたのだろう。それを、同級生たちは、しっかりと受け入れた。つい最近も、中学生や小学生の殺人事件が起きている。私たちは、事件の性格ばかりを分析する。しかし、当事者だけでなく、その当事者と関係していた周りの人たちは、きっと複雑で苦しい、言葉では分析できない気持ちがあるに違いない。彼らへの、重松清からのエールのような気がした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする