電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

スペイン音楽の午後

2005-08-07 22:48:36 | 日記・エッセイ・コラム
 私の住んでいる街の小さな喫茶店で、山田陽一郎さんのフラメンコ・ギターのミニ・コンサートがあった。お客はほぼ30人くらいで、皆何らかの関係で山田さんをよく知っている人たちだ。私も、義姉がフラメンコをやっていて、そのギタリストの演奏で踊っているのを見かけたことと、彼女のパーティーで何度がお会いしたことがあって一応顔見知りの仲間だった。コンサートは、2時半から3時45分までで、一月ほど前にギターの勉強にスペインに行っていたときの話などを織り交ぜて、楽しいひとときを過ごさせてもらった。
 演奏は、前半が「アルハンブラの思い出」「禁じられた遊び」「コーヒールンバ」「カプリッチョ・アラベ」で、後半が山田さん作曲の「光の中の影」「ラ・カレタ海岸」「ソレアレス」「赤の大地」だった。終わってから、アンコールに応え、4・5人のフラメンコ仲間の踊りと一緒に一曲演奏してくれた。私にはその曲名を知らなかったが、聞いたことがある曲だった。さすがに、狭いフロアでの踊りだったので、あの情熱的な踊りというわけにはいかなかったが、皆楽しそうに踊っていた。

 タルレガの「アルハンブラの思い出」は、とても懐かしい曲だ。私は高校生の頃、吹奏楽部に入っていて、クラリネットを吹いていたが、時々クラシックギターを練習したりしていた。アルバイトでためた金で、やすいクラシックギターを買い、クラシックの教則本を見ながら練習した。確かその教則本の一番後ろに載っていたのが、この「アルハンブラの思い出」だ。この曲は、タルレガがアルハンブラ宮殿を訪れたとき、とても感動してその夜のうちに作曲したと言われている曲だが、トレモロのところがとても美しい曲だ。そして、結局最後までそのトレモロが上手く演奏できなかった。

 私は、大学時の学園紛争の中で前歯を折り、クラリネットを諦めたが、実は高校の時稲刈りをしていて誤って左手の小指の先を少し切り落としてしまって、結局ギターを諦めた。前歯も小指もクラリネットやギターにとってとても大切な体の一部だ。勿論、私の場合は、プロのクラリネット奏者やギター奏者になるなどという大それた夢や希望を持っていたわけではなく、そのころ大好きだったバッハなどのバロックの音楽を少しでも理解できるツールになればいいと思っていただけだったので、挫折感があったわけではなかった。それでも、数日は悲しかった。

 コンサートに行くと、何故だか、私は金沢で過ごした学生時代のことを思い出す。私の学生の頃は、名曲喫茶というのが流行っていた。金沢には「モザール」という有名な名曲喫茶があった。有名ではあるが、もっぱらクラシックばかりをかける喫茶店でお客は少なかった。学生時代は、貧乏でとてもコンサートになど行く金がなかった。だから、有名な演奏家の演奏が録音されているレコードを友だちに借り、それを名曲喫茶に持って行ってかけてもらい、いっぱいの紅茶をゆっくり飲みながら聴いた。

 そのころ私は、バッハやモーツアルトの幾つかのすきな曲の楽譜を買い求め、それを持って名曲喫茶に行き、レコードを聴きながら、その楽譜を眺めていたことがある。当たり前だといえば当たり前だが、五線譜の上に書かれた記号と耳から聴いている音の流れとが見事に対応していることにとても驚いた。確かに、演奏家は、この譜面通りに演奏しているのだとそのとき思った。そして、この曲を書いたバッハやモーツアルトも同じように演奏したし、自分の耳で聴いていたはずだ。それがとても不思議な感覚だったように思われた。更に、不思議なことに、楽譜を眺めながら曲を聴いていると、なぜだがその曲が生まれてきたところに遭遇しているような感じがしたものだった。

 それは、学生の自意識過剰な思い入れに過ぎないが、そもそも学生は自意識過剰であることが特権のようなものだ。ある意味では、それでわかったつもりになっていたのだと思う。今では、もっと静かに、幸福感を感じることができる。学生の頃はそういうことは一人で聴くものだと決めていたのだが、今では回りに妻や友人がいても、気楽に聞けるようになった。年のせいかもしれない。勿論、我が家で一人留守番をしていて、紅茶でも飲みながら、バラック音楽を聴いていて本当に幸せな気持ちになることがあるが、それよりももう少し気楽に音楽を聴くほうが好きになっているようだ。

 私は、山田さんのミニ・コンサートには妻と二人で行ったのだ、隣の妻のことはすっかり忘れて、そんな昔のことを思い出しながら、スペイン音楽を楽しんだ。帰り際、「楽しかった?」と妻に聞かれて、「そうだね」と答えたら、「楽しかったと言いなさい!」と妻に怒られてしまった。私は、どうやら、妻の横で真抜けた顔をしながら演奏を聴いていたようだった。
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故郷中津川からの便り!

2005-01-07 21:56:05 | 日記・エッセイ・コラム
 中津川市と山口村の合併のことをブログに書いたら、中津川市民からトラックバックがあった。そして、山口村が岐阜県に来なくても、中津川市が長野県に行ったらどうかという記事を読んで、不意をつかれたような気がした。中津川市と山口村は昔から因縁のある地域で、いずれ合併すべきだが、もし問題が山積みなら、岐阜県とか長野県とかにこだわらなくてもいいのではないかという発想は、斬新な発想だと思った。
 私は、中津川市立東小学校、中津川市立第2中学校、中津高校(吹奏部)を卒業するまで中津川に住んでいた。その後、大学に行き中津川から出てしまった。中津川にいた頃、私は、岐阜市も長野市も行ったことがなかった。遊びに行ったのは、たいてい名古屋市だ。中津川からかなりの人たちが、名古屋まで働きに通ったりしていたと思う。だから、何か大きな買い物だといえば、松坂屋に行くといって、名古屋まで出いたように思う。つまり交通の便や生活の便だけから考えれば、中津川市は愛知県に属する。

 私が中津川にいた頃、まだ馬込はほとんど観光地として知られていなくて、中学生になり、国語で島崎藤村を知ってから、馬込を意識するようになったと思う。でも、馬込に行った記憶はない。私が、馬込に行ったのは大学生だった頃で、田舎に戻って友達と行ったような記憶がある。「馬込の歴史」を見ると、馬込が観光地として有名になり始めたのもそのころのようだ。そのころ、「フォークジャンボリー」などというものも中津川で行われていたりして、中津川は若者の脚光を浴びていたりした。

 内田康夫のミステリー『皇女の霊柩』で馬込のサービスエリアから歩いてすぐ「馬込の宿」まで行けることを知った。内田康夫のミステリーでは、犯人がこのサービスエリアに車を止めて「馬込の宿」まで行き、そこで人を殺し何食わぬ顔をして東京へ戻るという設定になっている。その小説のせいか、それ以来中津川に行くときは、「恵那山トンネル」を抜けてすぐにあるこのサービスエリアで一休みして、それから「中津川インター」から市内に入るようにしている。毎年、1,2回は、中津川に行くが、馬込も中津川もずいぶんと変わってきた。とにかく、綺麗になった。また、市町村合併で中津川市も大きくなり、変わっていくのだと思う。
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雪の元旦

2005-01-01 23:52:37 | 日記・エッセイ・コラム
 新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事 
      ──万葉集巻20の最後(4516番)の大伴家持の歌

 今年の元旦は、晴れだったが、昨日は日本中が荒れ模様で、関東も雪に見舞われた。その雪が、家々の屋根や道路や畑を真っ白にしていた。東京で大晦日に雪が降り、元旦を白一色にしたのは久しぶりのことだという。それはとにかくとして、大伴家持の歌のように、今年1年いいことが沢山起こることを期待したい。

 我が家恒例の年末行事として、神棚のお札を神社に納め、1年間のお礼をし、翌年のお願いをし、新しいお札を頂きに行くことにしている。今年は、昨日妻と二人で箱根神社に行った。雪になるという天気予報を聞いて、朝7時半に家を出、高速道路を乗り継いで、箱根神社に着いたのが10時少し過ぎ。1時間ほど、お参りをしたり、お札やお守りを買ったりした。10時半頃から箱根神社も雪になった。帰りが気になり、11時少し過ぎに箱根神社を出て、芦ノ湖沿いに北に進み、乙女峠を越えて御殿場を抜け、途中「鈴廣」により蒲鉾を土産に買い、山中湖経由で大月インターに向かう。雪は激しくなり、チェーン規制に入っていた。

 スノータイヤでゆっくりと雪の中を高速道路を走る。行きは2時間ほどで走った道を帰りは6時間ほどかかった。何度か不安になった。中央高速以外は、通行止めになっている。妻と二人で、何とか通行止めにならないことを祈りながら、八王子を抜け、国道16号線をゆっくり川越の方に向かう。福生を抜ける頃から雪が雨になり、道路も路面が見えるようになった時は、心の底からほっとした。

 途中、何台も車が道路の脇の方に寄せられ放置されているのを見た。多分、もう運転するのは無理だと判断して放置された車だと思う。私たちは、何とか無事家にたどり着くことができた。途中、私が「途中で泊まらなくてはいけなくなるかも知れないね」と不安を口にしたとき、妻は「大丈夫よ!私たちは神様にお参りに行ったんだから。もっと前向きに、明るく考えましょうね!」と叱られてしまった。こんな時は、本当に妻の度胸の良さに感嘆してしまう。おかげで私たちは沈むことなく、陽気に道中を過ごした。

 今日は、昨日とはうって変わって、よく晴れていた。近くの神社で初詣を済ませ、近場の親戚周りをした。雪以外は、とてものどかなお正月だった。夕食後は、妻と子どもと3人で、借りてきたビデオを観た。ビデオは、「ビーンストーク(ジャックと豆の木)」で、親子3人で観るのに丁度いい映画だった。ジャックが大きくなった豆の木を登って天国に行き、そこに住んでいる悪い大男をやっつけて宝物を持ち帰ったというのは嘘で、巨人こそいい男であり、ジャックが天国から盗んできた宝物こそ天国を天国たらしめる力を持っている宝であり、そのために天国は荒れ果ててしまったという話だ。そして、ジャックの子孫がその償いをするというストーリー。なんだか、とてもいい気分にさせる映画だった。

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「突然の死」と「覚悟の死」

2004-11-21 22:46:50 | 日記・エッセイ・コラム
 「突然の死」というのは、いわば突然に死がやってきて、心の準備もなく、本人も死んでいく自覚がないまま死を迎える場合をさす。これに対して「覚悟の死」というのは、自殺も含めて、本人が死んでいくことを知っている死をさす。人が癌だと宣告され、死んでいく場合も「覚悟の死」と言える。この場合、その死を「受け入れている」ということがポイントだと思う。「受け入れていない」のであれば、おそらくどんな死も「突然の死」と言うことになる。中学校の同窓会の旅行中に、同行した友人が心筋梗塞でなくなったというのは、典型的な「突然の死」だと思う。
 「突然の死」というのは、いわば突然に死がやってきて、心の準備もなく本人も死んでいく自覚がないまま死を迎える場合をさす。これに対して「覚悟の死」というのは、自殺も含めて、本人が死んでいくことを知っている死をさす。人が癌だと宣告され、死んでいく場合も「覚悟の死」と言える。この場合、その死を「受け入れている」ということがポイントだと思う。「受け入れていない」のであれば、おそらくどんな死も「突然の死」と言うことになる。中学校の同窓会の旅行中に、友人が心筋梗塞でなくなったというのは、典型的な「突然の死」だ。

 不思議なことだが、「覚悟の死」の場合は、本人だけでなく周りの私たちも死を受け入れているものだ。だから、そんなに早く死んでしまうのはとても無念だと思うが、心のどこかで、本人も了解しているのだ思うのか、その死を受け入れやすい。そして、素直に冥福を祈ることになる。しかし、突然に目の前で、訳もなく発作を起こし死んでいくのを見たとき、その死はとても受け入れられないことになる。況や、一緒に行動をしていれば、その行動にたとえ彼が賛同し、彼が喜んでいたとしても、自分たちに責任があるように思えてくる。

 私の友人の場合は、夫婦も含めて仲のよい中学の同級生が三重県の「相差(おうさつ)」というところに一泊二日で旅行したときに、その「突然死」があった。彼は、私にそのときの様子と気持ちを「『相差』という名の町を知っていますか?」という文章にしたためて、添付ファイルにしてメールで送ってきた。「相差」というのは、三重県の鳥羽から車で25分くらいの漁港の町だ。観光案内には、海の怒りを静める観音様や神社などがあり、「願いが叶う御利益コース」というのがあると言う。

 1日目は楽しい宴会をし、部屋に戻って懐かしい昔話に時を忘れたようだ。悲劇は次の日の朝食の時に起きた。夫婦で来た友人の夫のほうが、朝食に出てこない。その友人は、前に脳梗塞をやったそうで、そのせいかもしれないと近くの診療所の医者に連絡する。医者は検査が必要だということで、診療所に運べと言う。そこへ運ぶ途中に、心筋梗塞の発作が起こり、診療所についていろいろ処置したが、そこで呼んだ救急車が来る前に亡くなったようだ。

 友人は、友の口にくわえさせた酸素を送るパイプを支えながら、心臓マッサージをする医師を見たり、点滴を準備する看護士のおぼつかない様子を見たりしていたようだ。おそらく、半分呆然としていたらしい。その間、30分くらいの出来事だったらしい。救急車が車での時間がとてももどかしく感じたという。しかし、結局は、それは間に合わなかったという。彼は、「こんな旅行を企画しなければ」とか「もっと設備の整った病院に運ぶことができたら」とか、いろいろ後悔をしている。

 私は彼の文章を読んで、その友人の夫人の様子がどこにも書かれていないことに気がついた。ただ一行、「医師の指示で夫人は夫から離されて、私達男3人が孤軍奮闘する若き医師の救命措置の手助けをすることになる」と書かれているだけだ。おそらく、友人の「突然死」を前にして、彼はとてもその友人の夫人など見ている余裕が無かったのではないだろうか。まして、死んでからの夫人の様子などとても見ていられないということかも知れない。それにしても、夫人のことが書かれていないのがいぶかしかった。

 後日彼は、友人の葬儀に出席し、成人した3人の遺児や、昨年誕生したばかりの孫娘の姿を見たりしているのだから、夫人の様子は知っていたはずだと思う。私は、彼の文章を何度か読み返して見て、彼はおそらく意識的に書かなかったのだと思った。たぶんは、夫人は取り乱していたと思われるし、夫人をなんと言って慰めていいかわからなかったに違いない。あるいは、友人の死だけを呆然と眺めていて、そのときに夫人がどんな気持ちでどこにどうしていたかなど考えもしなかったかも知れない。そして、その結果、彼は、書くことをしなかったのだと思う。

 「突然の死」というのは、突然にやってくる天災のようなものだ。そのときは、ただただ、突然の災難にあたふたするだけであり、その後、時間がたつにつれた事態の大きさに驚くことになる。そして、精神的に重荷になって来るに違いない。そういう意味では、新潟中越地震で被災し死んでいった人たちと同じ事態なのかも知れない。私は、友人の手紙にまともな返事など書けなかった。前にも紹介したが、次の良寛の手紙を、私は何度も読み返してみた。私にも、半分くらいはわかるような気がしてきた。

地しんは信に大変に候
野僧草庵は何事もなく
親るい中死人もなくめで度存じ候

うちつけにしなばしなずてながらえて
かかるうきめを見るがわびしさ

しかし災難に逢う時節には災難に逢うが
よく候 死ぬ時節には死ぬがよく候
是はこれ災難をのがるる妙法にて候

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父親が退院した!

2004-11-16 20:19:10 | 日記・エッセイ・コラム
 15日・16日は岐阜県中津川市に行っていた。14日の日曜日に大腸癌の手術をした父親が退院した。一応、手術については抜糸も終わり、普通に動いてよいし、普通の生活をしてよいとのこと。前にも書いたが、リンパ節の切除が完全ではないので、今後再発しないとはいえない。かなりの高齢なので、抗ガン剤などの投与は見合わせ、今後は月一回の検査を定期的にしてようすを見ようということになる。病院にいるよりは、自宅にいて普通の生活をしたほうがよいらしい。
 14日の日曜日の夜は、自分で風呂に入ったそうだ。15日の夜は、私と弟夫婦と一緒に夕食を取ったが、大好物のカツ丼をぺろりと平らげていた。普通の食事でも大丈夫のようだ。食後の団らんの時に、家の中にいろいろなものがたまり、置き場に困っているので少し整理したらと言うと、それは捨ててはいけないという。相変わらずだ。自分が使うと言うことではなく、みんながこれから必要になるかも知れないという。私たちは、当分父親の好きなようにさせることにする。

 それにしても、1日に大腸を15センチほど切り取る手術をしたのだが、丁度2週間で退院したことになる。先生の話では、上行結腸でよかったという。S字結腸や直腸だと切除しただけでは済まなくなる。切ってつなぐというのがこんなに簡単だとは思わなかった。まるで盲腸の手術のような感じだった。父親も84歳とはとても思えなかった。大腸癌Ⅲ期bで、5年後生存率が50%と言われているが、もっと長く生きていて欲しい。

 今週は弟たちが交代で父親のところに泊まることになる。そして、来週は、ヘルパーさんを中心にして、様子をみることにする。父親としては、大丈夫だというが、何となく心細そうだ。すぐしたの中津川に住んでいる弟が、できるだけ立ち寄るようにすることになった。今年のお正月には、場合によっては、埼玉でゆっくりしてもらってもいいと思う。当分は、父親が自分に自信を持つまでは、できるだけみんなで中津川に行くように確認した。

 今日は、中津川から帰って来てから、しばらくぶりにPCの前に座り、ブログを書いてみた。先週の金曜日から、仕事のこともあり、ブログにはかまっていられなかった。そのせいか、何となく気持ちはゆったりしていた。もう少し、落ち着いて、ゆとりを持って書いていくことにしようと思った。時々は、休んでみることもいいことだ。
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