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電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

「宿儺かぼちゃ」ありがとう!

2004-09-03 09:02:09 | 日記・エッセイ・コラム
 昨年の今頃、出張で岐阜県へ行ったとき、岐阜県に住んでいる友人に会った。そのとき、初めて「宿儺かぼちゃ」の話を聞いた。確か、「乗鞍の方へ旅行にいったとき、変わったかぼちゃを見たので、買ってきて食べたら美味しかった。そのかぼちゃが、近くのスーパーで売っているそうだ。簡単に手に入りそうだから、手に入ったら送るよ」と言っていたのだが、結局売り切れで、手に入らなかったらしい。そのかぼちゃが、昨日届いた。2003年10月15日の「朝日新聞」27面の記事「皮薄く、甘く、ほくほく 岐阜・丹生川の宿儺かぼちゃ」のコピーと一緒に。

 息子が、「これ、なあに?」と聞いた。妻は、「さあ、ヘチマかしら?」という。宅急便の伝票を見て、「あ、かぼちゃだって! ぼく、こんなの食べたくない!」というと、「皮薄く、甘く、ほくほくってかいてあるわよ」と妻が説明していた。私も、最初、大きな長い箱に入っていた「宿儺かぼちゃ」を見て、一瞬ぎょっとした。「かぼちゃ」という言葉と、送り主を見て、ああ、あれかと納得した。しかし、よく忘れずに送ってくれたものだと、感激した。

 「朝日新聞」の記事は、もう見られないが、「宿儺かぼちゃ」については、日本農業新聞のe農Netの「食と農のかけ橋 採れたてレシピ」に写真入りで詳しく載っている。また、買いたいときは、飛騨丹生川村の「にゅうかわアグリ.net」で買うことができるようだ。

 「宿儺かぼちゃ」の「宿儺」は、「すくな」と読む。「宿儺」という名前は、この地方に伝わる「両面宿儺(りょうめんすくな)の伝説」から取ったそうだ。「宿儺」については、「人に宿る悪いものを追い払うという」意味があるということだが、その由来は、『日本書紀』の「両面宿儺の戦い」にあるようだ。

……「日本書紀」仁徳天皇六十五年(五世紀初葉)に「両面宿儺の戦い」が記載されていますが、当村の千光寺や飛騨金山鎮守山・美濃国武儀日龍峰寺・同肥田瀬暁堂寺では『飛騨国蜂賀の岩窟より宿儺出現』と伝えられております。
丹生川村・日面区の伝承では出羽が平(現在の飛騨大鍾乳洞近辺)の岩窟より宿儺は出現したとなっています。宿儺の姿は異形にして、身の丈一丈・躯は一つにして両面・四手四足と伝わっていますが、人並み外れた技と武勇の比喩とも思われます。
宿儺は飛騨・美濃の各地に残された恩顧の伝説から、神祭りの司祭者として飛騨から美濃に及ぶ地域を統率し、農耕の指導者としても偉業を成しました。
この地の人々は宿儺さまと呼んで崇拝しました。

 「両面宿儺」については、原田実さんの「原田 実 Cyber Space」のコラム「両面宿儺伝説をめぐる奇想」では、さらに発展させて妄想をたくましくしている。原田さんは、「両面宿儺の伝説」は、「東海系王朝の王族が飛騨で再起を図った」ことの名残だという楽しい「奇想」を描いてくれている。

……東海系王朝が畿内進出の基地としたのは美濃の泳宮だが、その遺称地、久久利村(現岐阜県可児郡可児町)は飛騨川の水系で両面宿禰ゆかりの地、丹生川村とつながっている。記紀ではっきり死んだとされている忍熊王が、越前に逃れたという伝説もあるくらいだから、東海系王朝の皇位継承圏を持つ人物が泳宮の縁で美濃へ、そしてさらに飛騨へと向かったとしてもおかしくはない。
 東海系王朝の王族が飛騨で再起を図った(あるいはそのような噂が流れた)、それが両面宿儺の正体だとすれば、追討のため、タケフルクマほどの有力な将軍が飛騨の奥地まで派遣されたのも当然である。
 東海系王朝が滅ぼされた後も、その威光の名残は、勝者の側に潜在的恐怖となってのしかかった。だからこそ彼らはヤマトタケルが伊吹山に阻まれて畿内には帰れないという説話を作り、また想像の中で両面宿儺のような怪物を生み出してしまったのである。

 それは、とにかくとして、私は、友人から送られてきた「宿儺かぼちゃ」を見ながら、迷った。これは、すぐ食べるべきなのか、少しみんなに見せてからのほうがいいのか。まず、その形をみて、みんなびっくりするのだから。そしたら、横から、「後で、料理してあげるよ。少し多いから、お母さんのところにお裾分けね」と妻が言う。よく考えたら、まず食べてみることだ。そして、もっと食べたくなったら、注文すればよい。「宿儺かぼちゃ」は、商標登録され、特産化を目指してつくられており、みんなにPRして上げたほうが喜ばれるに違いない。

 友人にお礼のメールを書こうとして、つい、「宿儺かぼちゃ」の「宿儺」の意味に、深入りしてしまった。私も岐阜県の生まれで、父の実家が高山の少し南側あり、乗鞍へは何度も行ったことがあるが、こんなかぼちゃがあることは知らなかった。地元ではずいぶん昔から細々と栽培されてきたらしいが、トマト、ホウレンソウに次ぐ新しい特産品作りとして、2002年に丹生川村宿儺かぼちゃ研究会が結成されたということなので、大々的に売り出したのはつい最近の話だ。 収穫は8月中旬から10月中旬までだそうだ。

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森林公園・ウォーターランドプール

2004-08-19 20:59:03 | 日記・エッセイ・コラム
 昨年は、やはり夏休みの今頃、時々ぽつりぽつりとしていた空模様の中で、サイクリングで森林公園を一周した。約14Kmあり、途中昼食を取ったり、休憩したり、見学したりと約3時間のコースだった。

 今年は、天気も良いので、昨晩決断して、プールに行くことにした。森林公園のWebサイトはあるのだが、プールの状況よく分からない。しかし、妻の友人から、天気が良ければ、穴場だと言われ、9時半に家を出る。

 狭山・日高・飯能から圏央道に入り、関越自動車道を通り、東松山で降り、「熊谷東松山道路」を熊谷方面へ向かう。真っ直ぐ進むと、まず森林公園南口の看板があり、その次に、北口・中央口の看板がある。事前の地図情報により、西口に入る。西口にはいるとすぐに、大きな駐車場がある。まだ、20台くらいしか止まっていなかった。

 運良く、30周年特別割引というのをやっていて、大人1800円(普段は2200円)、子ども800円(普段は1000円)で入場できた。この中には、森林公園内の入場料もは行っている。中に入って、びっくりした。森林に囲まれたゆったりしたプールがあった。プールの周りには、パラソルがつけられるデッキがかなり用意されていた。東京にいるときは、夏休みなると毎日のように豊島園に通っていたが、豊島園より、気持ちの良いところだ。もちろん、土日になると多分また違った様相を見せるかもしれない。

 妻と子ども私の三人は、ゆったりとした気持ちで、泳いだり、本を読んだり、飲んだり、食べたり、優雅な1日だった。仕事のことも忘れ、愛も憎しみも忘れ、というか、いろいろな感情が全て中性になり、あたかも時間だけがゆったりと流れるのが感じられるようなひととき。そういうときは、必ず必要だ。人間の感性は、そんなに強くなく、壊れやすい。特に今の時代は、時間に追われ、時間が人間を支配しているような感じだ。そういう時間は、いろいろなチャンネルを通じて、いろいろな情報となってやってくる。

 プールには、10時半から3時頃までいた。こんなに近くに、こんなに優雅なプールがあるとは、知らなかった。おそらく、これから、毎年くることになるだろう。パラソル付のデッキは、3000円かかった。これは、豊島園でも同じくらいだった。もちろん、豊島園より、日陰は多いので、パラソル付のデッキ以外でも涼しい場所は沢山ある。

 というわけで、天気のいい、暑い夏にはおすすめのコースだ。森林公園のHPには、プールの紹介が少ないので、フォトアルバムを作った。

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我が家の家紋

2004-08-17 22:59:46 | 日記・エッセイ・コラム
 我が家の家紋を意識した最初は、母親がなくなったときだ。墓石を立てるために家紋を必要とした。そのときに、私は自分の家の家紋が「丸に立ち沢瀉」だとはじめて知った。昔、父に我が家の先祖は武田につながる家系だといわれたことがあるが、それでてっきり、「たけだびし」が我が家の家紋だと思っていた。ただ、その話は二転三転して、最後は源氏の落ち武者だという話になった。確かに、岐阜県の下呂の近くに、父の実家があり、そこはそのの半分が同じ姓だった。

 その次に意識したのは、妻と結婚したときだ。紋付袴というが、妻の着物の紋は、私の家の紋と同じ「丸に沢瀉」だった。これは、妻の亡くなった父の墓参りの時に、知った。妻の実家は、埼玉県の日高市である。その後、妻と妻の母親を私の実家の母の墓参りに連れて行ったとき、義母が驚いていた。もちろん、お寺の方は違っている。妻の実家は、真言宗であり、私の実家は臨済宗妙心寺派である。というわけで我が家の家紋は、「丸に沢瀉」である。

 ところで、「沢瀉」の家紋については、播磨屋さんの「家紋World」に詳しい。

……オモダカは、池や沢などに自生する水草で。愛らしい花が咲く。その昔、この植物を「勝ち草」といって、戦いに勝つことにかけていたという。葉の形が矢ジリに似ている、また、沢瀉威の鎧ということばもあって、「攻めても、守ってもよい」ということから勝ち草とよんだという。毛利氏も副紋にこの「沢瀉紋」を使用している。(丸に立ち沢瀉)


 家紋というのは、世界的に見れば、紋章の一種であるが、日本の家紋は、特殊である。家紋は元々、平安時代の貴族の車が、誰のものか区別がつくように作られたのが始まりだと言われているが、その後、武士の時代になると、合戦の時に自分が誰だか明確に示すために、旗や武具に紋章をつけるようになって普及したという。

 伊沢元彦さんの『逆説の日本史 8 中世混沌編』(小学館文庫)を読んで面白い記述に出会った。

……江戸時代になると、庶民の階級まで家紋は普及した。庶民でも婚礼の際には「紋付袴」を着た。「紋付」と言えば家紋(紋所)をつけた羽織のことだが、「羽織袴」という代わりに「紋付袴」という言葉が通用するほど、家紋は普及していたのである。姓の無い家はあっても、家紋の無い家はない。どうしてもなければ、氏子となっている神社の紋を代用したり、新たに作ることもできた。たとえば歌舞伎役者の家紋は、従来からある紋に一工夫加えて、華やかを強調したものが多い。
 庶民が勝手に姓を名乗ることにはうるさかった幕府も、葵の紋など一部の特赦の紋を除き、紋の使用には寛大だった。(P463)


 私の家も妻の家も、そういう意味では、由緒のある紋ではあるが、出自が由緒正しいかどうかは、よく分からない。

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三峯神社参拝

2004-08-16 22:52:23 | 日記・エッセイ・コラム
 子どものスポーツクラブの海合宿があったため、8時少し過ぎに、埼玉県の飯能駅まで車で送っていった。8時38分のレッドアロー号で池袋まで出、それからJRで東京駅に行き、千葉の岩井海岸まで行くことになっている。一泊二日の合宿だ。幼稚園の頃から、合宿には参加していたので、親から離れて、過ごすことには慣れている。元気に出かけていった。

 私は、今週は夏休み。家に帰ると、不燃ゴミを整理し、市の清掃局まで運び、処分を依頼した。1400円也。その後家に帰り、ガソリンスタンドにより、ガソリンを満タンにして、三峯神社に妻の運転で向かう。出発時間は、10時頃。299号線に入り、一路秩父路へ。西武秩父駅の近くで左折し、140号線に入り、秩父市役所の横を通り、三峯神社へ。私は、20年ぐらい前に一度来たことがあるだけだ。妻ははじめてだという。ロープウェーには乗らず、神社の入り口にある「大滝村村営駐車場」まで車で行く。

 途中で三つの「道の駅」に寄った。「道の駅」といのはある意味で高速道路のサービスエリアのようなものだ。最初は「果樹公園あしがくぼ」、次が「荒川村」、そして三峯神社入り口の近くにあるのが「大滝温泉」である。最初の「果樹園あしがくぼ」は、今年3月にオープンということで、新しく、気持ちの良いところだったので、帰りにも寄って、土産を買った。

 ところで、どうして、三峯神社へ行ったのかというと、今三峯神社にお参りに行くと、私の将来にいいことがあるということを、妻がどこからか聞いてきたのだ。というわけで、会社の繁栄と私の仕事の充実を祈願して来た。私は、特別信心深いわけではない。ただ、妻の気持ちを尊重し、自分の気持ちも晴れやかになるように一緒にお祈りした。妻は、私が無神論なのを知ってか知らずか、あちこちの神社へ私を連れて行く。私は、美しい自然の中で森林浴をしながら、すがすがしい気持ちになる。それは、精神的にとてもいいことだと思う。疲れや、仕事の悩みが少し軽くなったような気がしてくる。だから、妻の気持ちにいつも感謝している。

 家に帰る途中、近くのレンタルビデオ店で『ティアーズ・オブ・ザ・サン』を借りる。寿司と軽いサラダをおつまみにして白ワインで夕食後、妻と二人で残ったワインを飲みながら、映画鑑賞。この映画については、Misa'さんの映画日記紹介がぴったりだ。

……米国海軍特殊部隊シールで、任務遂行に100パーセントの実績を誇るウォーターズ大尉(ブルース・ウィリス)は、内戦の激化したナイジェリアからアメリカ国籍の女医リーナ・ケンドリックス(モニカ・ベルッチ)救出を命じられ、精鋭部隊を率いてジャングルの奥地へ赴く。が、リーナは難民と一緒でなければこの地を離れることはできないと拒否する。一旦は無理矢理リーナのみを救出用ヘリに乗せ飛び立ったものの、上空から難民の惨劇を目にしたウォーターズは軍の命令を無視し難民を助ける為に引き返すアメリカ軍の命令に背いてまで 自分の良心に従い、決死の救出作戦を敢行した米国海軍特殊部隊ウォーターズ大尉(ブルース・ウィリス)の勇気と、7人の部下との信頼の絆を描いた感動作。


とてもアメリカ映画らしいと思った。しかし、イラクと違って、うまくいきすぎているところが映画なのかもしれない。

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二宮金次郎の像

2004-08-13 21:23:33 | 日記・エッセイ・コラム
 妻が、実家の物置にあったという二宮金次郎の鋼の像をもらってきた。我が家の猫の額のような庭の赤と白のハナミズキの間においた。それはそれで、落ち着いた。息子の担任が家庭訪問に来て、庭の金次郎の像を見て、「気持ちが和みますね」と言ったという。
 
 息子は、薪を背負いながら本を読んでいる姿をうさんくさそうに眺めている。「どうせ、ぼくにも、本を読みなさいと言うことでしょう!」などと叫んだりする。そう、何となく分かるものだ。

 ところで、この金次郎の像については、山ちゃんガハハ / 考証 紅蜻蛉団が、面白い考証と追跡調査をしている。金次郎の像には、大きく二つあり(もちろん、後の調査でもう少しバリエーションがあることが分かったそうだが)、グループA (鳩豆R型)とグループB (鳩豆L型)とに分かれるそうだ。

……グループ間の違いを2つ挙げよ…そのような試験が出されたらどうしますか ? …何の試験だ。
ちなみに僕の二宮金次郎イメージは、両手で本を持っているはずだったが違ったようでした。

さて、答えですけどね、  
まず共に共通するのは、右手で軽く薪を押さえ、左手だけで本を持つところです。
次に違い…いいですか、この発表は世界を揺るがしますからね。
グループAのR型は、着物の裾が出ている。そして必ず右 (R) 足が前になっている。
グループBのL型はモンペを履いて裾が出ていない。そして必ず左 (L) 足が前になっている。
つまり、着ているものと足の出方には統一性があるのだっ。


 しかし、これについては、いろいろな人からの報告があり、さらに、次のような金次郎の像があるそうだ。

拝んでいるニノキン
草鞋を差し出すニノキン
物を読んでいるのではなく、書いているニノキン
大人のニノキン…この場合「尊徳」さんなので"ニノソン"


 ちなみに、我が家の金次郎の像は、グループA (鳩豆R型)の典型で、一番左上の像とほぼ同じである。

 それは、とにかく、金次郎について、金次郎の生き方と像とを結びつけながら、面白い報告をしている。よくこれだけ、調べたなと感心する。現地調査をして、写真まで撮っている。山ちゃんガハハさんのサイトは、この外にも、とても面白い記事がたくさんあり、身につまされる思いがする。
 
 私も昔、二宮金次郎の伝記を書くために、資料を読んだり、小田原や今市へ行ったりしたことがあるが、こういう視点があるということには、思いもつかなかった。私が見て来た金次郎の像の形は、今我が家にある像の形のものばかりだったような気がする。

 ところで、金次郎の経営哲学は「勤労・分度(倹)・推譲」であり、「勤労」とは徳に報いるために働くこと、「分度」とは収入の範囲内に支出をおさえること、「推譲」とは勤労、分度をしてたまった物を将来のために残したり、人に与えたりすることである。こういうことは、今の政府の役人にしっかり見習って欲しいところである。特に、国家の予算と経営は、こういう哲学で実行されて欲しいと願う。
 

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