電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

父が癌だと知らされて

2004-10-06 10:53:58 | 日記・エッセイ・コラム
 昨夜、10時少し過ぎた頃、名古屋に住んでいる弟から電話があった。父が、大腸癌だという。初期ではないようだという。今日、中津川市民病院で検査の結果説明を中津川の次男と一緒に聞いてきたらしい。私には、信じられなかった。父方の家系は、脳梗塞や動脈硬化などの循環器系の病気で亡くなった人が多いが、癌で亡くなった人は、私の知る限りいない。母も、脳塞栓で亡くなった。

 しばらく、今後の対策や連絡の仕方などを打ち合わせる。これから1週間くらいかけて、もう少し正確な検査をして今後の治療計画を立てるらしいので、検査が終わった頃に中津川に行き打ち合わせをすることにする。呆然としていると、隣の部屋で寝ていた妻が起きてきて、生姜湯を作ってくれた。そういえば、妻の父は、私と結婚する前に、癌で亡くなった。丁度私の母が、脳塞栓でなくなったのと同じ頃だ。妻の祖母も癌でなくなったそうだ。

 「初期症状でない限り、絶対手術なんてしない方がいいよ!おばあちゃんも、お父さんも、手術して、その上放射線治療で苦しんで、死んでいったんだから」と妻が言う。また、「そういえば、おばあちゃんが癌になったとき、お父さんが、おばあちゃんの癌はおばあちゃんの人生のおまけだと言っていた」とも言った。義母の話によれば、妻は義父を独り占めしていて、看病も最後までほとんど一人で付き添っていたと言う。だから、医者を信じていないところがある。まるで、敵のように話す。

 眠れない夜、隣に眠る息子を眺めながら、短歌を作ってみる。

癌という言葉を聞いて疑えり
          五月に会った我が父の顔
考える端から言葉が消えてゆく
          八十四の父五十六の我
癌と知りおろおろ我に妻が言う
          父の人生のおまけだと思え
癌と聞き妻でないころ最愛の
          父をみとりし女を思う
頼りない息子でどうもごめんねと
          癌と知らされ深夜に祈る


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1千億の不思議

2004-10-02 17:38:51 | 日記・エッセイ・コラム
 これまでに地球上に生存したすべての人間の数は、1千億人と言われている。また、全く偶然にも銀河系には、1千億個以上の星が存在するといわれている。更に、人間の脳の神経細胞(ニューロン)の数も1千億個だそうだ。人間は1人ずつ自分の星を持っているのだし、人間の脳の神経細胞も銀河系の1千億個の恒星と1対1に対応しているのかもしれないという楽しい想像ができる。

 これは、全く偶然であり、現在では銀河系の星の数は2千億個といわれているし、地球の人口は爆発的に増加しているが、私たちは大きなロマンを感じることができる。銀河系のすべての星々が、それぞれ万有引力によって関係づけられている。地球上のすべての人間も何らかの関係を持ちながら生きている。さらに、人間の脳の1千億の神経細胞(ニューロン)は、それぞれシナプスと呼ばれる数千以上の結合を他の神経細胞と作り上げ、複雑なネットワークを形成している。

 銀河系の星、人間、神経細胞の間には、特別の関係が発見されているわけではないが、いつか何らかの関係が、発見されるかもしれない。なぜなら、それらは、もともと、同じ物質からできているのであり、宇宙の進化の中で発生してきたものだからだ。関係ないわけがないのだ。しかも、おそらく、そこには思いもかけない関係があるように気がする。

 量子電磁力学の繰り込み理論の完成で、朝永振一郎と一緒にノーベル物理学賞を受賞したアメリカの物理学者、R.P.ファインマンが「人類の至宝」といった、オイラーの公式は、
e + 1 = 0
と表現される。これは、オイラーによって1748年に定式化されたものである。数学において重要な数である円周率(π)とネピア数(自然対数の底e)と虚数(-1の平方根であるi)を、全く起源が異なるにもかかわらず結びつけてしまう。しかも式の中には 0, 1, i という極めて基本的な数しか現われない。見れば見るほど、美しく、不思議な式に見える。

 このオイラーの公式こそ、小川洋子著『博士に愛した数式』のなかで、博士の姉と主人公の家政婦が諍いをしたとき、博士が書いて博士の姉を優しく諭したその数式のことだ。つまり、博士の愛した数式のことだ。多分、博士と博士の姉と主人公の家政婦という三人の関係を象徴している。家政婦は博士の一家にとって外部からやってきた、関係のない存在のように見える。80分しか続かない記憶のために、毎日新しい存在として博士の前に出現する家政婦は、博士にとって虚数のようなものである。しかし、たとえ虚数であっても、それが存在することによって、美しい数式が成立しているのである。あるいは、その美しい数式には、虚数は必要であるのだ。

 いつの日か、私たちは、この宇宙(自然)と人間と人間の脳の不思議な関係の秘密が分かるときが来るかもしれない。それまでは、この人間の内(脳)と外(宇宙)をしっかりと見つめて生きていきたい。なんだか、とてつもないことを書いているよう気がしないでもないが、ただ社会の小さな問題だけでなく、気持ちを切り替えることが大事だと自分に言い聞かせて見ただけだ。子どものことで、妻とちょっとした諍いを起こしたので。

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有朋自遠方來、不亦楽乎。

2004-10-01 09:58:59 | 日記・エッセイ・コラム
 昨日は、友人2人とJRの四谷駅の近くで、麹町の上智大学と丁度広い通りを挟んだ反対側の地下の居酒屋で飲んだ。友人というのは、名古屋の大学時代の同級生と、上尾にすんでいる今年定年になった編集の先輩である。半年ぶりくらいだ。上尾の先輩が定年退職になってから初めてである。近況報告、定年後の生活の仕方、野球の話、仕事の話、政治の話、インターネットの話、子どもの話等々。団塊の世代とその先輩の会話である。話は、多様であり、時間が経つのを忘れた。6時から9時半くらいまで話したことになる。家に帰り着いたのが11時だった。

 駅探の乗り換え案内によれば、名古屋から四谷までは、約2時間、上尾から四谷まで約1時間、飯能から四谷までは約1時間20分。これで名古屋が一番遠いわけだが、交通費を除けば、みなものすごく遠いというわけでもなくなった。もちろん、私と上尾の先輩の二人は、いわば東京で待って居たわけだから、「遠方の朋」は、名古屋の友人というなる。名古屋の友人は、月に四、五回は、東京へ来ているのだが、時間の都合でなかなか会えない。またあうことを約束して、別れた。

 気心の知れた友人たちと飲むのがいちばん美味しい酒の飲み方だと思うが、そんなときたいてい、論語の「有朋自遠方來、不亦楽乎。」という文章が思い浮かんでくる。昨夜は、ふと思いついたことがあって、論語を読み返してみた。論語学而第一の最初の文章は、次のようになっている。そう、前後の文脈が気になったのだ。

子日、學而時習之、不亦説乎。
有朋自遠方來、不亦楽乎。
人不知而不慍、不亦君子乎。

子曰く、学んで時に之を習う。亦悦(よろこ)ばしからずや。
朋あり遠方より来たる、亦楽しからずや。
人知らず、而して慍(いか)らず、亦君子ならずや。


 これは、論語の最初に出てくる言葉だ。この文脈からすると、「有朋自遠方來、不亦楽乎。」という文章の意味は、「己の学問が成就すると、己と同じく道に志す人たちが、近いところはいうに及ばず、遠いところからでも尋ねて来て、己を師と仰いで教えを請うようになる。こうなれば、己の学び得たところを広く人に伝えて人ともに善に帰することができるのであるから、なんと楽しいことではないか。」(講談社学術文庫・宇野哲人著『論語新釈』より)という意味になる。孔子らしい意味だ。特に、最後の「人不知而不慍、不亦君子乎。」など、必ずしも身近な周囲に受け入れられなかった思想家としての孔子の姿が彷彿としていて面白い。しかし、そんなに堅く解釈することはないと思う。斎藤孝さんは次のように訳した。

先生はいわれた。
「友だちが遠いところからたずねてきて、
学問について話し合う。
いかにも楽しいことではないか」
(斎藤孝著『子ども版 声に出して読みたい日本語 3』より)


 ブログ友人という言葉があるが、ほとんど会うことのできない、遠くの人たちが時々私のブログを訪れてくれる。それは、とても楽しいことである。昨夜の友人たちは、私のブログを知っており、毎日読んでいてくれる。そして、直接のコメントではなく、メールで感想を送ってくれる。それ以上の望みはない。ということで、この論語学而第一の最初の文章は、私の理想とするブログの心を見事にあらわしているような気がしないでもない。まあ、私は、「君子」とまではいかないので、時々、ひとりで怒ったりするのだが。


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また、真夏日。そして、短歌。

2004-09-20 09:59:29 | 日記・エッセイ・コラム
 昨日は家族全員ぐったりしていた。1昨日の運動会でも疲れたが、それだけでなく、また、この2,3日、暑い日になったからだと思う。東京では、気象庁が東京・大手町で観測を始めた1923年以降、30度以上の「真夏日」が、過去最高だった2000年の67日に並んだという。大阪でも、1999年の88日のタイ記録となったらしい。息子は、運動会の時は、土埃と火山灰をすって、軽い咳をしていたが、朝になってさらにひどくなっていた。体温を測ったら、37.9℃だった。

 朝起きたときは、東京サマーランドへの遠足に絶対行くと言っていたが、さすがに体温計の温度を見て、諦めたようだ。病院が休みだったので、前にもらった薬を飲ませた。だから、昨日は、息子は一歩も外へ出ないで過ごした。布団に入って寝るほどでもなかったので、午前中はフレッツスクエアで「ポケモン」の映画を見、午後は「マトリックス」のビデオを見て過ごした。妻は、疲れたらしく、肩こりの薬を飲んで、ゆっくり昼寝をしていた。私は、息子に付き添い、一緒にビデオを見ていて、途中眠ってしまった。

 昨夜は、暑く寝苦しい上、息子はぜいぜい言いながら寝ていて、隣の私はなかなか眠れなかった。妻は、大丈夫よというのだが、今にも息が詰まりそうな呼吸の音を聞いていて、どうしようもできない自分の無力さのようなものを感じた。今朝、多少熱はあるようだったが、元気に起き、9時頃、従兄弟のところに出かけた。「ポケットモンスター エメラルド」を持って。

 私は、ひとりでゆっくりと朝刊を読む。江沢民引退の記事がトップを飾る今日の朝日新聞には「朝日歌壇」があった。島田修二選、佐佐木幸綱選、馬場あき子選と読んで、ふと気づけば、島田修二さんは、12日に逝去されているとのこと、この掲載文が彼の最後の仕事だそうだ。私は、俵万智さんの師であり、尊敬する万葉学者の佐佐木信綱先生の孫の佐佐木幸綱さんの選が好きだ。今週分の最初の3首。

輝々という名の桃が実家より届いて暑さここに極まる 
                          (横浜市)桑原由吏子
病みてもう用なき旅の案内誌めくればカナダかえでのもみじ 
                          (八王子市)相原法則
三日月が気づけば滲み揺らめいて泣くのかわたし泣くなりわたし                         (高岡市)鍋島恵子

 私の知っている人がそこにいた。そして、素直に、短歌はいいなと思った。彼はもう酒は飲めなくなっているに違いない。古ぼけた神楽坂の居酒屋で、児童文学についていろいろ教えて頂いた頃が懐かしい。確かそのとき、いつか、私も、短歌の勉強をしますと答えたのだが、まだ、短歌の勉強を始めていない。まず、ゆっくりと読むことから始めようと密かに誓った。「俳句 淀風庵」というWebサイトに「酒の詩歌句集」というのがあり、古今の酒についての詩歌が集められている。その中から、2首。

喉深く熱酣の酒落としつつ腹に沁みゆくまでのしばらく
           佐佐木幸綱著『遠ざかりゆく君へ送る歌』より
にわか雨を避けて屋台のコップ酒人生きていることの楽しさ
           俵万智著『サラダ記念日』より

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好きな色が決まらない!

2004-09-09 09:29:25 | 日記・エッセイ・コラム
 私は、弱い「赤緑色弱」である。日常生活上、「色弱」だということで特に困ったことはない。車の免許は普通に取れた。カラー製版の時の色指定も特に間違ったということはない。四季折々のカラー写真も楽しく鑑賞することができる。自分で撮影もするが、できばえはそれなりに満足している。要するに、よく注意して色を扱う限り、そんなに間違うことはないのだ。

 自分が「色弱」ということを知ったのは、高校に入学したときの視力及び色覚の検査の結果でだった。養護の教諭に、生活で困ることはないと思うが、弱い「赤緑色弱」なので、注意するようにと言われた。そのときは、何に注意するのかよくわからないまま、「はい」と返事をしていたように思う。ことに重大さに気づいたのは、実生活ではなく、大学の入試要項を見たときだった。いくつかの希望の理系の大学では、「色盲・色弱」は入学を受け付けていなかったのだ。

 自分で自慢をするのも変だが、私は今でも自分は、理系人間だと思っている。私は、小学校の3年生の時に、算数に目覚めた。中学校に行って、理科が好きになった。だから、高校は当然、最初は理系にするつもりだったし、1年生の時は、物理や化学や数学は得意だった。しかし、理系はダメだと宣告された。私の初めての挫折である。ノーベル賞の目がなくなったとまでは思わなかったが、高校時代は岐阜県に住んでいたので、比較的近い京都大学の理学部にいく夢をもっていた。そして、発明や発見を夢見ていた。それが消えたショックでしばらく立ち直れなかった。

 2年生から進学コースに入るのだが、挫折したぼくは当然文系のコースに入った。そして、文学に目覚めた。キューブラー・ロスの『死ぬ瞬間』という本があるが、そこで末期患者が死を受け入れ、死に至る過程を「死に至る5段階」として、説明している。簡単に言うと、「それは嘘だという否認の段階」・「なぜ俺はこんな目に遭わなければいけないのかという怒りの段階」・「もし『色弱』でなければこんなことをするよという神との取引の段階」・「そして結局はどうしょうもなくなった抑鬱の段階」・「最後にあきらめて自分を見つめ直すことのできる受容の段階」の5段階だ。本当にそのような過程を経て、私は文学に目覚めた。この『死の瞬間』を読んだのは、もっと後になってからだが、この「5段階」は、肉体的に死ぬときだけでなく、夢が消えたときとか、あるい恋人にふられたときとか、今なら、突然思いもかけない転勤を言い渡されたときとかの人間の心の過程を見事に表していると思ったものだ。

 ところで、「好きな色」がなかなか出てこないが、その次に私が「色弱」であることを自覚させられたのは、結婚したときだ。結婚する予定の妻が私の洋服を見て、「あなたは、何で、こんなに暗くてくすんだ色の洋服ばかり買うの?」と言った。1人の時は当然、自分で洋服を選び、ネクタイを選んだ。もちろん、デパートの店員に勧められて。それまでは、それなりに、それでもセンスがあると思っていた。ところが、彼女は、私の洋服の色合いを全然認めない。また、結婚してから、私の服装のセンスが良くなったと周りの人は皆言う。それは、お世辞だけではないようだった。結婚する少し前から、私の洋服は全て妻が選ぶようになっていた。自分でも、その色合いは、いいと思わざるを得なかった。それ以来、目にも鮮やかな色合いの洋服を着こなす妻を見て、私は「色弱」なのだとますます自覚させられるようになったというわけだ。というわけで、私の好きな色は、まだ決められないままである。

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